対抗発展、あるいは成長を志向しないありかたについて
「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」でダグラス・ラミスが主張する「対抗発展」とは何か、それと「ラダック 懐かしい未来」でヘレナ・ノーバーグ・ホッジが展開するカウンター・デヴェロップメント、それらは同じなのか、違うものなのか?
以下に比較してみる。
まずラミスさんから
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・・・。物質的な豊かさではなく、本当の意味での豊かさを求める社会、そして正義に基づいた社会をどう作るか。経済成長とはまったく別の、もっとずっと面白い歴史的なプロジェクトを推進することになると思います。
「対抗発展」とは何か
そういう社会を求める過程を、私は暫定的に「対抗発展(カウンター・デヴェロープメント)」と呼んでみたいと思います。
なぜ、暫定的かといいますと、これまで「発展」という言葉には悪い歴史があるからです。・・・(中略)・・・。今までは嘘の発展だった。これからは本物の発展です、真の発展です、人中心の発展です、などなど、いろいろな形容詞がつけられた。一番新しいのが「持続可能な発展」という言葉です。もうすでに明らかになっているとおり、それが何を持続可能にしようとしているかというと、もちろん、今までどおりの「発展」なのです。・・・(略)・・・つまり経済成長を続けるための「発展」でしかない。そういう形容詞がついた数々の発展と「対抗発展」を一緒にしてほしくないのです。
「対抗発展」という言葉でまず言いたいことは、今までの「発展」の意味、つまり経済成長を否定することです。否定するというのは、これから発展すべきなのは経済ではないという意味です。それは逆に、人間社会の中から経済という要素を少しずつ減らす過程です。
すなわち、対抗発展は「減らす発展」です。エネルギー消費を減らすこと。それぞれの個人が経済活動に使っている時間を減らすこと。値段のついたものを減らすこと。
そして対抗発展の二つ目の目標は、経済活動以外のものを発展させることです。経済以外の価値、経済活動以外の人間の活動、市場以外のあらゆる楽しみ、行動、文化、そういうものを発展させるという意味です。経済用語に言い換えると、交換価値の高いものを減らして、使用価値の高いものを増やす過程、ということになります。
「発展」や「成長」という言葉には悪い歴史があるから、この言葉は使わない方がいいという考えも成り立ちます。けれども、社会を一気に変えるのではなく、社会が少しずつ変っていくということを示す言葉が必要です。「発展する(デヴェロープ)」という言葉の元の意味を考えれば、「発展」という言葉も暫定的には適当かもしれない。あえて「発展」という言葉を選んだもう一つの理由は、これからの歴史において、未来のヘーゲル的、あるいはマルクス的な大きな飛躍は期待できないと思うからです。
・・・・(以下、略)「経済成長がなければ・・・」134~6P
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つぎにヘレナさんの説明を、と思ったけど眠くなったので今日はここまで
この記事へのコメント
人は何のために生まれ、何のために生き、何のために死にゆくのか。何ゆえに生活水準の差が生まれ、その向上が全てにおいて幸福をもたらすのか。論者がいるだけの見方がありますから、どれも肯定できて否定できる気がします。
「改革なくして成長なし」と発したリーダーを擁する国民としては、必要な成長なのかを見極めねばとも思うわけです。
乱文&長文、失礼しました。