「障害者の就労の位相をめぐる考察への違和感」について
「障害者の就労の位相をめぐる考察への違和感」について
障害学MLに昨日のを紹介したら、本人の田島さんからは自分のブログにレスポンスを書いたというレスポンスがあり、古瀬さんからもレスポンスをもらったので、それへのレスポンスを書いた。以下に転載
==以下、障害学MLへ投稿したものを転載==
古瀬ま、田島さま、コメントへのコメントありがとうございました。
古瀬さま
ブログに行かないと読めないという書き方、やっぱり、良くないでしょうか。
自分用の時系列の記録に残しためにブログに書いているので、MLに書いて、ブログにも転載するというやりかたもあるのですが、読みたくもない人に読ませるよりもいいかな、なんて考えていたのでした。ブログやMLの投稿にしては長いといえば長いし、そんなに長くないと言われれば、そんなに長くないと思うのですが、どういうやり方がいいのか迷っている部分でもあります。だから、この進め方については、他の方の意見も聞かせていただければ幸いです。古瀬さんの他に意見がないようなら、ここではこれからは、MLにも全文掲載することにします。(あの程度の量なら)
また、今回は両方に掲載します。
ちなみに私のブログ、前後の脈略はまったくありません。田島さんのもそうみたいでした。ちなみに田島さんのブログの該当する文章のありかは
http://d.hatena.ne.jp/fugu1/20050919
さて、中身について
まず田島さんからのレスポンスについて
立岩さんの文章は(も?)ちゃんと読んでないことが多いので、田島さんの理解が正しいかもしれません。ただ、あそこで田島さんが引用していたのは、「障害学の主張」掲載の論文で、少なくとも、そこには、そんな風には書いてなかったと思います。「自由の平等」も、ちゃんと読み終えていないのですが、さっきパラパラめくってみました。「できないこと」について、「誰が」ということを問題にしているけれども、「何を」ということはあまり問題にされてないですね。ただ、その箇所でも「障害とは端的に言ってしまえば、できないことだ」というふうには言っていないように思いました。
「障害を有する人たちが求めてきたことは,他者や社会から付与されてきた否定的価値にいかに対抗し,その否定性を否定するか,ということであった」というのを障害者が主張してきたこと、ということについては、ぼくもそういう表現を使ったこともあると思うし、田島さんが書いているように許される範囲だと思います。そして、そういう障害者の当事者運動から障害学が生まれたということも言えるので、そこを問題にするのは、ぼくが間違っているという批判もあるかもしれません。その上で、少し言い訳をすると、以下のようになります。
できないことはある、そこでの否定性は認める。それを否定はしない。しかし、そこだけを見ないで欲しい。というような態度が今でも一般的なのではないかと思います。存在の全体性を捨象して、そこだけを取り出して見られることへの反発が大きいのではないでしょうか。否定性を否定するという言説の中で、そのことが見落とされがちなのかなと思ったのであえて書かせてもらった部分と言えるかもしれません。後知恵ですが。
もちろん、「***ができないこと」もその主体にとって、捨てられない一部なのだから、それを無下に否定して欲しくはないという感情はあるし、それはそれで大切なことだと思います。それが多くの場合、社会のありようで不便でなくなる部分はとても多いものの、それでも不便だという意味での否定性は認めつつ、だけど、それ以上に否定しないでくれ、というような否定の複数性というか、否定性の中にも、肯定しえる部分と、否定したい部分があるのではないでしょうか。(これはいま、思いついたことですが)
そんなことを田島さんのレスポンスを読みながら考えました。これは古瀬さんのレスポンスにもつながる部分かもしれません。
古瀬さんの「あるがままで人の価値を認めようという立場と、訓練によってあるべき姿に少しでも近づこうという立場との間に、現実を見据えて社会と環境とを変える、という立場もあり得るのではないでしょうか?」という観点に近いかもしれませんが、ぼくとしては「あるがままで人の価値を認めようという立場」はその通りだと思いつつ、そこと就労の可能性を結びつけるために、「訓練によってあるべき姿に少しでも近づこうという立場」を置くのではなく、その人のできないことだけに着目するのではないやりかたなどが問われていると思うのです。ぼくは、「働く義務」主義者ですから、トータリーロックトインという状態以外の人には何らかの形で働く場所が準備されるべきだと考えています。そこでの合理的な配慮のありようこそが問われるべきではないかと思うのです。
今夜もとりあえずここまでにさせてください。3連休が終わって明日というか、5~6時間後には仕事です。(この、うんざり感を共有させたいというのが、ぼくの願いだったりするのでしょうか??(笑)
P.S>
障害学会、諸般の事情で行けなくて残念でした。去年、静岡で払ったのが、2004年の会費なら、2005年の会費は払っていません。「唾棄すべきアカデミズム」という感情と、「こういう素朴なアカデミックサークルは維持させなくちゃいけないんだろうなぁ」という気持ちの中で揺れています。
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障害学MLに昨日のを紹介したら、本人の田島さんからは自分のブログにレスポンスを書いたというレスポンスがあり、古瀬さんからもレスポンスをもらったので、それへのレスポンスを書いた。以下に転載
==以下、障害学MLへ投稿したものを転載==
古瀬ま、田島さま、コメントへのコメントありがとうございました。
古瀬さま
ブログに行かないと読めないという書き方、やっぱり、良くないでしょうか。
自分用の時系列の記録に残しためにブログに書いているので、MLに書いて、ブログにも転載するというやりかたもあるのですが、読みたくもない人に読ませるよりもいいかな、なんて考えていたのでした。ブログやMLの投稿にしては長いといえば長いし、そんなに長くないと言われれば、そんなに長くないと思うのですが、どういうやり方がいいのか迷っている部分でもあります。だから、この進め方については、他の方の意見も聞かせていただければ幸いです。古瀬さんの他に意見がないようなら、ここではこれからは、MLにも全文掲載することにします。(あの程度の量なら)
また、今回は両方に掲載します。
ちなみに私のブログ、前後の脈略はまったくありません。田島さんのもそうみたいでした。ちなみに田島さんのブログの該当する文章のありかは
http://d.hatena.ne.jp/fugu1/20050919
さて、中身について
まず田島さんからのレスポンスについて
立岩さんの文章は(も?)ちゃんと読んでないことが多いので、田島さんの理解が正しいかもしれません。ただ、あそこで田島さんが引用していたのは、「障害学の主張」掲載の論文で、少なくとも、そこには、そんな風には書いてなかったと思います。「自由の平等」も、ちゃんと読み終えていないのですが、さっきパラパラめくってみました。「できないこと」について、「誰が」ということを問題にしているけれども、「何を」ということはあまり問題にされてないですね。ただ、その箇所でも「障害とは端的に言ってしまえば、できないことだ」というふうには言っていないように思いました。
「障害を有する人たちが求めてきたことは,他者や社会から付与されてきた否定的価値にいかに対抗し,その否定性を否定するか,ということであった」というのを障害者が主張してきたこと、ということについては、ぼくもそういう表現を使ったこともあると思うし、田島さんが書いているように許される範囲だと思います。そして、そういう障害者の当事者運動から障害学が生まれたということも言えるので、そこを問題にするのは、ぼくが間違っているという批判もあるかもしれません。その上で、少し言い訳をすると、以下のようになります。
できないことはある、そこでの否定性は認める。それを否定はしない。しかし、そこだけを見ないで欲しい。というような態度が今でも一般的なのではないかと思います。存在の全体性を捨象して、そこだけを取り出して見られることへの反発が大きいのではないでしょうか。否定性を否定するという言説の中で、そのことが見落とされがちなのかなと思ったのであえて書かせてもらった部分と言えるかもしれません。後知恵ですが。
もちろん、「***ができないこと」もその主体にとって、捨てられない一部なのだから、それを無下に否定して欲しくはないという感情はあるし、それはそれで大切なことだと思います。それが多くの場合、社会のありようで不便でなくなる部分はとても多いものの、それでも不便だという意味での否定性は認めつつ、だけど、それ以上に否定しないでくれ、というような否定の複数性というか、否定性の中にも、肯定しえる部分と、否定したい部分があるのではないでしょうか。(これはいま、思いついたことですが)
そんなことを田島さんのレスポンスを読みながら考えました。これは古瀬さんのレスポンスにもつながる部分かもしれません。
古瀬さんの「あるがままで人の価値を認めようという立場と、訓練によってあるべき姿に少しでも近づこうという立場との間に、現実を見据えて社会と環境とを変える、という立場もあり得るのではないでしょうか?」という観点に近いかもしれませんが、ぼくとしては「あるがままで人の価値を認めようという立場」はその通りだと思いつつ、そこと就労の可能性を結びつけるために、「訓練によってあるべき姿に少しでも近づこうという立場」を置くのではなく、その人のできないことだけに着目するのではないやりかたなどが問われていると思うのです。ぼくは、「働く義務」主義者ですから、トータリーロックトインという状態以外の人には何らかの形で働く場所が準備されるべきだと考えています。そこでの合理的な配慮のありようこそが問われるべきではないかと思うのです。
今夜もとりあえずここまでにさせてください。3連休が終わって明日というか、5~6時間後には仕事です。(この、うんざり感を共有させたいというのが、ぼくの願いだったりするのでしょうか??(笑)
P.S>
障害学会、諸般の事情で行けなくて残念でした。去年、静岡で払ったのが、2004年の会費なら、2005年の会費は払っていません。「唾棄すべきアカデミズム」という感情と、「こういう素朴なアカデミックサークルは維持させなくちゃいけないんだろうなぁ」という気持ちの中で揺れています。
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