民衆の安全保障と人間の安全保障

「人間の安全保障」という概念がさまざまな場面で使われている。それはいったい何なのか、いろいろ考えてみる必要はありそうだ。(この定義については、下に引用したものに少しある。)
また、2000年、沖縄で日本の反戦運動が呼びかけて、「民衆の安全保障沖縄国際フォーラム」 http://www.jca.apc.org/ppsg/oifps/index-j.html を行い、「民衆の安全保障」が提起された。(このフォーラムの宣言は http://www.jca.apc.org/ppsg/Doc/urasoede.htm )
この民衆の安全保障と人間の安全保障は同じなのか、違うものなのか。そのあたりの議論も含めて、人間の安全保障に関する研究会をピープルズプラン研究所 http://www.jca.apc.org/ppsg/whatispp.html のグローバル化と民衆運動研究会でも開始するという。WSFのMLなどで、いろひらさんが書いたものに触発されて、考え始めていたら、今年の5月に書いた以下のようなものが出てきた。これから、この問題を考えていくきっかけとして、再び掲載する。

=以下、2005年5月17日に環境・平和研とPP研のMLに投稿したもの(少しだけ補足して転載)=

 参加している研究会(環境・平和研究会)で武者小路さんを呼んで話を聞くことになったので、付け刃であわてて、「人間安全保障論序説―グローバル・ファシズムに抗して」(武者小路 公秀 (著) 2003 国際書院)を読みました。

その本で武者小路さんはセン・緒方の「人間の安全保障委員会」報告をこんなに持ち上げていいのかしら、と思うぐらい持ち上げます。
じつはぼくはこの報告書の方は読んでいないので、またいいかげんなコメントになるのですが、

武者小路さんによると、この報告書に定義される人間安全保障は「民衆の安全保障」なのだそうです。(武者小路さんは「人民の安全保障」という表現をしてますが)

 民衆の安全保障を主張するとき、国連が言っている人間安全保障は軍事的な国家安全保障の補完物だから、そうではなくて、「民衆の安全保障」なんだと主張していた記憶があります。武者小路さんは本の中で民衆(人民)の安全保障というのを評価したうえで、この報告書の「人間安全保障」=「民衆の安全保障」だと書いています。民衆の安全保障という主張をしたときに、武藤さんはその区別を明確にしていたように記憶しています。報告書が出た今、民衆の安全保障こそが人間の安全保障だと主張すべきなのでしょうか??
。 
 疑い深いぼくは、日本の外務省も持ち上げているこの報告書の定義に沿って人間安全保障を推進せよというふうにはどうしても考えられないのですが、武者小路さんの主張は違うようです。

 どう考えるにせよ、民衆の安全保障を考えるうえで、この本は読まれるべき本だと思いました。(ここでは「民衆の安全保障」とのからみだけを紹介しましたが。)発行された当時、季刊PPなどを含めて、いくつか書評もでてると思うのですが、やっぱり自分で読んでみないとわからないものです。

また、この章のタイトルにも使われている「非改良主義的改良」というのも武者小路さんの考え方を理解するうえでキーになる概念です。ただ、非改良主義的改良のつもりが結局は改良主義を補完するものでしかなかったという危険は大きいと思うので、そこのところに、なんらかの担保が必要かなとも思うのです。

以下、該当部分を適当に抜き出したものを貼り付けますが、できるだけ、たくさんの人に、これだけではなくて全部を読んでもらってコメントしてもらえたらと思います。もちろん、これだけ読んだ人のコメントも欲しいのですが

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第2部第1章 「人間の安全保障」と非改良主義的改良のための政策科学

 人間安全保障は、2003年5月1日に公表された「人間の安全保障委員会」の報告書によれば、「人間安全保障の目標はすべての人々のLifeの死活に関わる中核にあるものを、人間の自由と達成とを促進するように守る」ものである。この定義は極めて抽象的にではあるが、「人間安全保障」の本質的なところをよく捉えている。この定義を基にして、報告書は、国家による民衆の基本的自由の保護を要求する側面とともに、民衆自身の自由つまり能力と意欲に支えられる「エンパワメント」の側面を持つことを強調している。103p(民衆の能動性の保障)

 報告書の、・・・提唱は、人間安全保障が、「人民の安全保障」であるという考え方に基づいている。今回の報告書が公表される以前、日本では「人間の」という曖昧な概念の代わりにピープルズ・セキュリティつまり「人民の安全保障」ないしは「民衆の安全保障」という概念を使うべきだという主張があったが、報告書はこの主張を見事に確認している。・・・ネオリベラリズムへの無言の批判・・・人民を国家による保護の対象としてあつかう主体性無視の国家温情主義を否定している。
 報告書はさらに、・・・や人身売買被害者など最も脆弱な立場の民衆を最優先すること、彼等、彼女等を参加させる多角的な協議というマルティラテラリズムの原則を主張・・・。・・「反テロ戦争」の政策そのものについても、・・・国家のテロリズムを取り上げず、不安全な立場の民衆をテロ扱いしていることを批判している。その意味で、この報告書は今日のグローバル経済体制、新保守主義のグローバル政治・軍事体制のもとで人間の安全が脅かされ続けている今日、現状を改めるオルタナティブな道程を指し示していると言えよう。もちろん、この報告書のつまみ食い的な引用によって、人間の安全保障が国家安全保障の補完物であるという原則に基づいて、反テロ戦争の国家安全保障政策によって破壊された国々を、人間安全保障という名目で再建するマッチポンプ的な悪用も可能なので、報告書の総合的な理解に基づく完全実施を強調する必要がある。
 その意味で特に注目する必要があることは、この人間安全保障の考え方と日本国憲法の「平和的生存権」との間に基本的な発想の一致があるということである。
 ・・・
 そのように誤った解釈の危険性を持つ「人間の安全保障」概念に対して、先程指摘したように、日本で「人間安全保障」という曖昧な概念の代わりに「人民の安全保障」を使うべきだという主張を見事に報告書は確認している。・・・。
104~5p
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 こんなに持ち上げるべきものだったのか?という衝撃と同時に本当にそうなの??
という半信半疑。自分で読んでみるしかないですね??
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・・・。
 その意味で、人間安全保障は、性急な正義の実現を図る電撃戦よりも、・・・気長な「塹壕戦」の形をとる。諸アクター間の現実の不安を理解し、その間の折り合いをつけていく改良の戦略を選ぶ。しかし、だからといって・・・現状肯定を前提にした改良主義の戦略になってはならない。・・・根本的なグローバル政治経済構造の改革をもたらす必要がある。「人間安全保障」はグローバル覇権を改良して、これに「人間の顔」を与える政策科学の依拠する倫理的基準をなによりまず提供するところから始めるべきであろう。
 人間安全保障は、そのような「非改良主義的改良」を推進する道筋を立てる手がかりとなる。(注*)
 *「非改良主義的改良」は、訪日講演(アソシエ、2002年4月21日)の際にNancy Frazerが強調した論点による。改良主義は、体制の枠内での問題解決のみに政策を限定する主義であるが、「改良」政策の中には、これを推進すれば、必ず体制自体の変革につながらざるを得ないものもある。非改良主義的改良とは、初めから体制変革を打ち出さないけれども、その推進する改良が、必ず体制そのものの変革を導き出す「改良」をいう。
114p
==引用ここまで、転載もここまで==

武者さんの提起については、もう少し違う角度からも見ていく必要があると思う。できれば、それも継続していきたい。
 

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