被支援者がいてくれないと食べていけない福祉の話から自立支援法案の話へ
障害学MLでのこの間のやりとりを、自分のブログに記録しておこうと思って、いくつか転載してきたのですが、いろんな意見がでてきて、紹介しきれない量になってきました。まとめることが出来れば、いずれ、まとめたいと思のですが、たぶん、できないかなぁ。興味のある人は障害学MLに入って過去LOGを読んでください。
というわけで、自分で書いたものだけは、気兼ねなく転載できるので、それをちょっと補足して転載します。
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以下の引用は「リハビリテーションという仕事を限定すべき」という議論の中でのTさんコメントからの引用。引用に続けてコメントを書きました。福祉を食い物にしてる話から自立支援法案の話に変わってしまいました。
> 社会福祉の業界の人とはなしていると、さぞかし、障害者のこと
> をわかったような話をされます。でもそれって、いわゆる、利用者ー援助者とい
> う関係でのことでしょ、(中略)、なんておもってしまうのです。
これが、とても単純な話なんだなぁと深く納得してしまいました。
つまり、
福祉業界の人は利用者・披援助者としての障害者がいなくなったら、途端に食べていけなくなっちゃうっていうことですね(ぼくもその一人ですが・・・)。それは自立支援法案につながるグランドデザインなどの論議として語られてきたことの中で、ぼくに明確になってきたことでもあります。
例えば、授産施設体系の中の施設は施設内に障害者を抱え込むことによって存続を可能にしてきたという批判がありました。そういう意味では、この体系にメスを入れなければならないというのは、もう20年も前から言われてきたことでもあります。にもかかわらず、授産施設体系全体としては自己変革はほとんど実行されなかったように感じています。そして、いま、この体系が今回の自立支援法案の提案にたじろいでいるという面もあると思います。
しかし、授産施設体系の側からいえば、基本的には、ほとんど進展しているようには見えない就労施策を前にして、それを理由にエクスキューズが可能だったという状況もあります。
今回の自立支援法案の中心的な課題は「応益負担」という、より個人モデル的なモデルへ逆行する費用負担の問題だと思いますが、就労をめぐる施設体系の問題もまた、考えられなければならない課題として、横たわっています。
この体系の転換を図ると謳いながら、出口がないという基本的な構造が変えられないなら、結局、名前が変わっただけで、中身は変えようがなく、「授産施設利用」という名称のもとで働いている障害者には負担が増えるだけという結果にもなりかねません。働いているにもかかわらず、労働者としての基本的な権利がなにひとつ保障されないという状態こそが、変えられなければならないと考えます。しかし、そこには手をつけられそうにありません。。
「授産施設利用」という名称のもとで働いている障害者がどのように無権利なのか、ここで、あえて書き残しておきます。
保障されていないのは団結権、団体交渉権、スト権だけではなく、最低賃金の保証も、失業保険の適用もありません。労働災害の適用も、確か非常に限定的だったと記憶します。新設されようとしている「非雇用型継続就労」は、それらの無権利を後追い的に承認していく形態と言わざるをえないのではないでしょうか。
しかし、そこに手をつけようとしたら、厚生労働省内部の労働政策と福祉政策の縦割り縄張り構造だけでなく、年金制度も含めて、現在準備されている政策転換以上の大幅な変革が必要になり、結局、そこには手がつけられようとしていないというふうにも見えます。
ぎりぎりのところでがんばって、現状をなんとかしようとしている授産施設もないわけではないと思いますが、やはり、多くの施設では「どうしていいのかわからない」あるいは「どうか実質は現状維持のままにして欲しい」というのが現状なのではないかと思います。これ以上書くと、火傷しそうなのでやめますが、授産施設体系の中の福祉工場という特殊な場所(そこでは労働者の権利はかろうじて守らなければならないことになっています)で働くぼくも、色々な方向を模索しながらも、どうしていいのかわからない一人でもあります。現在の福祉工場に対する公的支援でさえも、経営的に成立しているのが例外的というような状況、その中での今回の転換は、現在以上に福祉工場で最低賃金適用除外申請書が書かれることにつながっていくのではないかと危惧します。
はっきりしている問題は、そこで働いている当事者に何の相談もされずに、制度だけが法律で決められようとしていることです。あまりにも何も知らされないまま事態は推移しています。
授産施設体系が変えられなければならないことは否定できない事実だと思います。そして、それをどう変えていくかという議論が当事者不在で行われ、何も見えないままに決められようとしています。
福祉業界の人は利用者・披援助者としての障害者がいなくなったら、途端に食べていけなくなっちゃうという話から、どんどん話がそれてしまいました。
三連休最終日の朝の複雑な感情をかかえながら(笑)、今日はここまでにしておきます。
この記事へのコメント
外国の障害者施策の本を読んで、いいなあ~と思っても日本では厳しそうだったり。
というかその外国だってそれなりにそれはそれで問題があるらしいし。
結局生きていくのは大変だなという感じです。
結局現実は現実なんだし、自分の立場をしっかりして(自分の立場にこだわらないで少しでもできることはやりたいというのもありますが、重要部分についてはもっとしっかりしないと、本当に世の中には「考えていない」人もいるわけですし)地に足をつけて、コツコツとやっていくしかないなと自分を戒めています。
それでも明日どうなるか、お先真っ暗な気持ちですが。
20世紀の人なのか20代の人なのかわかんないのですが、
>それでも明日どうなるか、お先真っ暗な気持ちですが。
明日どうなるか見えないのは確かですが、明日がだめでもあさってがあるし、来週もあるし、来年もあります。見えないということは、いまはそんなふうにはぜんぜん思えないけれどもいい変化の可能性だってないわけじゃないって思いながら生きてくしかないのかなぁと思います。
根拠はなくても、いつかきっといいことがあるよって思わないと生きてくのはつらいですね。つらさから目を離さないようにしながら、それでもいつかいいことあるって思いながら生きていけたら素敵だと思うんですが、なかなか難しいkとではありますね。