グロ民研・「民衆の安全保障・再考」研究会の感想

PP研のMLに書いたものを転載

今回の研究会、参加は10名程度でしたが、おもしろい話ができたと思います。

ちょっと感想です。
(あいまいな記憶から書いてるので、違うことも入っているかもしれません。)


●研究会の中で印象に残っていること。

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・この報告書のゆがみについて。
国連文書としての限界はあるにせよ、当然入るべき視点が入っていないこと。
いくつか例をあげていたのですが、ちゃんとメモをとっていなくて、・・・。
たとえば、アフリカの紛争に介入する事例はでているが、ユーゴ・コゾボへの介入については介入後の話はでていても、介入の評価に関わるような話はでてこない。

・日本政府以外が今回の「人間の安全保障基金」に拠出していないのはなぜか、不明。どなたか、このあたりのことに詳しい方、教えてください。

・94年のUNDPの人間安全保障との相違点
貧困を生み出す世界経済構造という視点は、94年のほうが強かったのではないか、
国家が人びとの安全を奪うという視点は今回の方が強い?


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●以下はぼくが研究会、そして、そこにいたる過程の中で見えてきたこと、考えたこと、気がついたこと、よりクリアになってきたこと。

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・サブシステンス視座との相違点
サブシステンスの視座は、人びと(ピープル)の生存をどう支えていくか、人びとが自ら生存を可能にしていく仕組みを問題にするが、それ自体が求められているのであり、この人間安全保障論の説明にあるように、成長のためとか、人間開発を進めるためではない。開発パラダイム・経済成長パラダイムと対抗するためのものか、それを進めるためのものかという違い。

・人権アプローチとの違い
人権はすべての人の人権が前提。
人間安全保障は安全を脅かすとされる存在の排除があって成立。セキュリティを求める強者の論理がまかり通る危険を完全に除去しているとはいえない。
南北に分断された構造の安定のためにはその絶望的な格差の若干の緩和が必要だが、グローバルな北の現状を守る安全保障のためには、その構造自体は守られなければならない。

・securityと安全保障
securityは「secureであること」というのが一義的な意味。
安全保障というときは、そういう意味が捨象され、安全を支える「システム」が前提とされる。

・武者さんの書き込みにもあるように、これが綱引きの産物であること。
(そのあたりのことも武者さんに来てもらって詳しく聞きたい。)
この「人間の安全保障」論、経済成長を必要とする開発パラダイムを前提とし、それを支える体制をどうつくるか、というもの。
ここでは常任理事国の利権に決定的に抵触するようなことは、あらかじめ除いてあるのではないか。
そこで、武者さんが主張するような、非改良主義的改良という手法が、どこまで有効性を持ちえるのか、どんな条件で有効でありえるのかが課題。

・エンパワメントの訳語について、
エンパワメントの訳語はこの本(報告書)では「能力強化」。武藤さんはエンパワメントとそのまま使わないのであれば、「地力(自力?)をつけること」としているとのこと。
森田ゆりさんのエンパワメントの定義は、「本来持っている力に気づくプロセス」。

 ふと思った補足、この「人間安全保障報告書」の文脈では、「能力強化」という日本語が正確かもしれない。植民地主義を強く残したというか、なるべく見えにくくしつつ強化した現在の支配枠組みを壊さないことが前提の人間安全保障論であれば、人びとがその枠組みを外してエンパワメントしていくプロセスはじゃまになるので、ここで望まれているのはエンパワメントでなく、「能力強化」であるといえるかもしれない。問われているのは新自由主義経済の中で勝ち抜いていく能力を強化していくこと。

・付録の以下のセンの文書について
センのことをほとんど知らないぼくがコメントするのは憚られますが。

==以下、引用==
市場経済、非市場経済と「人間の安全保障」

 グローバル化には多くの利点がある。しかし、グローバル化を主張する人々の疑問には多くの正当性があることを認めるべきである。たとえば、グローバル化された経済の結果、人々の間に大きな格差ができ、また社会関係が形成されているが、これらを変えることは可能だろうか? 可能だとして、市場の相互関係を損ねたり、グローバル市場経済を破壊することなくできるだろうか? 実はこの答えがイエスであることが現在実証されつつある。
 ・・(中略)・・経済発展の原動力として市場を無視することはできない。
 市場経済の重要性を認識することだけがグローバル化された市場に関する議論ではなく、むしろそれは入り口に過ぎない。市場経済には、多くの異なる所有形態、資源の利用可能性、社会的機会、運営規範(特許や独占の禁止など)がありうる。これらの条件次第で、・・・略・・・。また、社会保障、社会的保護、その他の公的政策によっても、・・略・・。市場プロセスの結果は変わるのであ。・・略・・。・・・市場がもたらす結果は・・略・・などの公共政策の影響を強く受ける。すなわち、地球規模の不平等を緩和し、「人間の安全保障」を向上させるには、市場と非市場制度とを組み合わせて活用することが最善の道である。 168~9p

==ここまで==

ここでのセンの結論は、市場にまかせるのではなく、それらをミックスするというもので、センが極端な新自由主義者≒市場至上主義者でないことはわかる。

しかし、これはある意味、あたりまえのことを言っているに過ぎない。極端な市場至上主義者と市場否定論者の間の立体的なグラデーションの中のどこかに、ほとんどの人が位置づくはず。例外なくすべてのことを市場に任せよ、という極端な市場至上主義者もすべての市場を廃棄せよという市場否定論者も現実的であるとは思えないら。
違いは、何を市場に委ね、何は市場に委ねてはならないのかという判断。例えば、郵政民営化に反対する場合でも、郵便局の運営について、まったく市場価格と離れたところで、採算を度外視していいと言っている人をぼくは知らない。民営化しなくても赤字は出していないという主張だ。一方で、郵政民営化論者も郵便局のユニバーサルな機能は(市場的にペイしなくても)守る、と主張する。(利潤を追求することを目的とする株式会社として、どこまで公共性を守れるか、というところで、この推進派の問題の立て方は、とても怪しいと思うが。)

「何を市場に委ね、何は市場に委ねてはならないのか」という判断基準をどこに置くか、また、市場に委ねないとしたら、誰のどのようなコントロールのもとにおくか、仮に「市民社会」のコントロールというふうに問題を立てると、その「市民社会」とは何か。この「市場と非市場制度とを組み合わせ」の中身こそが問われている。それについて、センはどう言ってるか、ご存知の方は教えてください。

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