「民衆の安全保障」がアジ研の報告書に
何かを検索していたら、偶然、以下の報告書を見つけた。
2004年3月にアジ研からでている
アフリカにおける「人間の安全保障」の射程-研究会中間成果報告
この報告上記の紹介や目次のページはHTMLだが、本文はすべてPDFになっている。
とりあえず、ぼくが知らなかったので紹介。
人間の安全保障と民衆の安全保障の関係で注目すべきは、この第2章。
第2章 人間の安全保障概念への問題提起―予防外交と民衆の安全保障の視点から―(PDFファイル:147KB)…平井照水
はじめに
第1節 冷戦終結後における新たなアプローチの模索
第2節 『人間開発報告書1994』の問題提起
第3節 民衆の安全保障からの問題提起
第4節 予防外交と人間の安全保障
第5節 予防外交と人間の安全保障とのインターフェイス
第6節 予防外交と人間の安全保障をめぐる二つの立場
おわりに
いろいろ興味深い記述も多いが、この第3節で、武藤さん、越田さん、羽後さんの民衆の安全保障に関する考察が紹介されている。その関連で、とりわけ目を引いたのが、「民衆の安全保障(後の人間の安全保障)」という記述で、この記述には注がふってあり、その注で著者は、以下のように書く。
==以下、引用==
民衆の安全保障はなぜ人間の安全保障となったのか。民衆の安全保障が国家への批判を込めた下からの運動において使われてきたスローガンであり、民衆という言葉には崩壊してしまった社会主義にも通じる今日のグローバルな資本主義社会への痛切な批判が込められていたとすれば、その主張がいかに正しくとも国家を中心とする国連の場で共感をもって迎えられることはむずかしい。そうしたイデオロギー色を払拭し、国家を主体とする国連の場でも許容されやすい概念として、人間の安全保障が変質したのではなかったか。その真偽のほどを確認する術はないが、少なくとも言えることは、民衆の安全保障が下からの問題提起だったとすれば、人間の安全保障は国連という上からの問題提起でもあるということである。したがって人間の安全保障を適用していく際に必要なことは、下からの問題提起に応える形で実際に運用していくことが必要であろう。
==引用ここまで==
人間の安全保障と民衆の安全保障の関係については、武者小路さんも両者の関係の近さの方を強調していたように思うし、戸田清さんも「環境学と平和学」(新曜社2003年)のなかで、内容的には大きな違いはないと書いていた。(91p)
ぼくは、上に引用した論文の著者が書いているように、その2つの視点の置き方はまったく違うからこそ、この著者の結論とは反対に、いまでもその両者は違うものだという認識を明確にすべきだと考える。ここだけの引用ではわかりにくいだろうが、ここに書かれている「人間の安全保障の変質」というのは94年のUNDPの人間開発報告書から2003年の人間の安全保障委員会の報告書への変質のことを指しているようだ。この章で説明されている、その2つの質的な転換については、そういう変化はあるだろうと思うが、その変化が決定的な変化であるとは思えない。
しかし同時に、民衆の安全保障論が国家安全保障へのアンチとしてだけ位置づけられているようにも見える現在のありようにも問題はあると思う。日本国憲法前文と9条の平和主義の理念を現実のものにするという展望と民衆の安全保障論を結びつけて考えることができないか、と思うわけだ。民衆の安全保障を単なる運動のスローガンに終わらせない可能性がそのあたりにあるように思える。
これを読んでくれた人が下の「人気blogランキングへ」というのをクリックしてくれると、そのクリックしてくれた人の人数でランクが決まる仕組みです。クリックするとランキングのサイトに飛び、うんざりするような排外主義ブログのタイトルの山を見ることになりますが、クリックしてもらえるとうれしかったりもします。
人気blogランキングへ
2004年3月にアジ研からでている
アフリカにおける「人間の安全保障」の射程-研究会中間成果報告
この報告上記の紹介や目次のページはHTMLだが、本文はすべてPDFになっている。
とりあえず、ぼくが知らなかったので紹介。
人間の安全保障と民衆の安全保障の関係で注目すべきは、この第2章。
第2章 人間の安全保障概念への問題提起―予防外交と民衆の安全保障の視点から―(PDFファイル:147KB)…平井照水
はじめに
第1節 冷戦終結後における新たなアプローチの模索
第2節 『人間開発報告書1994』の問題提起
第3節 民衆の安全保障からの問題提起
第4節 予防外交と人間の安全保障
第5節 予防外交と人間の安全保障とのインターフェイス
第6節 予防外交と人間の安全保障をめぐる二つの立場
おわりに
いろいろ興味深い記述も多いが、この第3節で、武藤さん、越田さん、羽後さんの民衆の安全保障に関する考察が紹介されている。その関連で、とりわけ目を引いたのが、「民衆の安全保障(後の人間の安全保障)」という記述で、この記述には注がふってあり、その注で著者は、以下のように書く。
==以下、引用==
民衆の安全保障はなぜ人間の安全保障となったのか。民衆の安全保障が国家への批判を込めた下からの運動において使われてきたスローガンであり、民衆という言葉には崩壊してしまった社会主義にも通じる今日のグローバルな資本主義社会への痛切な批判が込められていたとすれば、その主張がいかに正しくとも国家を中心とする国連の場で共感をもって迎えられることはむずかしい。そうしたイデオロギー色を払拭し、国家を主体とする国連の場でも許容されやすい概念として、人間の安全保障が変質したのではなかったか。その真偽のほどを確認する術はないが、少なくとも言えることは、民衆の安全保障が下からの問題提起だったとすれば、人間の安全保障は国連という上からの問題提起でもあるということである。したがって人間の安全保障を適用していく際に必要なことは、下からの問題提起に応える形で実際に運用していくことが必要であろう。
==引用ここまで==
人間の安全保障と民衆の安全保障の関係については、武者小路さんも両者の関係の近さの方を強調していたように思うし、戸田清さんも「環境学と平和学」(新曜社2003年)のなかで、内容的には大きな違いはないと書いていた。(91p)
ぼくは、上に引用した論文の著者が書いているように、その2つの視点の置き方はまったく違うからこそ、この著者の結論とは反対に、いまでもその両者は違うものだという認識を明確にすべきだと考える。ここだけの引用ではわかりにくいだろうが、ここに書かれている「人間の安全保障の変質」というのは94年のUNDPの人間開発報告書から2003年の人間の安全保障委員会の報告書への変質のことを指しているようだ。この章で説明されている、その2つの質的な転換については、そういう変化はあるだろうと思うが、その変化が決定的な変化であるとは思えない。
しかし同時に、民衆の安全保障論が国家安全保障へのアンチとしてだけ位置づけられているようにも見える現在のありようにも問題はあると思う。日本国憲法前文と9条の平和主義の理念を現実のものにするという展望と民衆の安全保障論を結びつけて考えることができないか、と思うわけだ。民衆の安全保障を単なる運動のスローガンに終わらせない可能性がそのあたりにあるように思える。
これを読んでくれた人が下の「人気blogランキングへ」というのをクリックしてくれると、そのクリックしてくれた人の人数でランクが決まる仕組みです。クリックするとランキングのサイトに飛び、うんざりするような排外主義ブログのタイトルの山を見ることになりますが、クリックしてもらえるとうれしかったりもします。
人気blogランキングへ
この記事へのコメント