花崎さんのピープルネスとは何か
ずーっと前の研究会でのレジュメを一部改変して掲載
2004年6月19日環境・平和研究会報告(その後の訂正版7月)
花崎さんのピープルネスとは何か
はじめに(報告の前の言い訳)
1、花崎さんとはナニモノか
2、ピープルネスとは何か
3、ピープルネスへの疑問
はじめに(報告の前の言い訳)
花崎さんの紹介で当然含まれなければならないのに、この報告で欠落している部分
欠落その1 マルクス主義哲学者としての花崎さんの評価
中身には触れることができない(マルクス主義哲学への知識の圧倒的欠如)ので、著書T所訳書のみ紹介
花崎さんの最初の著書は『マルクスにおける科学と哲学』1969年 増補改定1972年
『経済学批判要綱』と『資本論』から、具体性の論理としての弁証法を取り出すという意図をもって著述したもの (『季刊ピープルズプラン25号、2004年2月)
このマルクス主義哲学者という文脈で、マルクス本人を含む海外のマルクス主義思想家の紹介
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ドイツ・イデオロギー / K.マルクス,F.エンゲルス著 ; ゲ・ア・バガドウーリヤ編 ; 花崎皋平訳. -- 新版. -- 合同出版, 1966. -- (合同新書 ; 72).
マルクス主義と個人 / アダム・シャフ [著] ; 花崎皋平 訳. -- 岩波書店, 1976.
具体的なものの弁証法 / カレル・コシーク 著 ; 花崎皋平 訳. -- せりか書房, 1977.
歴史と構造 : マルクス主義的歴史認識論の諸問題 / アルフレート・シュミット [著] ; 花崎皋平 訳. -- 法政大学出版局, 1977. -- (叢書・ウニベルシタス).
言語と意識の起原(岩波現代選書 ) チャン・デュク・タオ/花崎皋平 /岩波書店 1979/01出版 336p
不等価交換と価値法則/ サミ-ル・アミ-ン /花崎皋平 /亜紀書房 1979/10出版 212p
社会現象としての疎外 / アダム・シャフ 著 ; 花崎皋平 訳. -- 岩波書店, 1984.
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とりわけ、「具体的なものの弁証法」と「言語と意識の起原」は他の著作でも引用されており、花崎さんを知る上で重要だろう。
欠落その2 「静かな大地」
「静かな大地-松浦武四郎とアイヌ民族」 (岩波書店) 1988年,1993年同時代ライブラリー (162)
この「静かな大地」は花崎さんの書いたものの中でも記念碑的なもので、花崎さんを語る上で欠かせないはずで、読みたいと思っていたが間にあわなかった。
以降、彼は・・・アカデミア(大学・研究機関)の外側で活動しながら理論的著述と社会的実践とを結びあわせてきた。とりわけアイヌの権利をめぐる花崎の実践はよく知られている。哲学的省察と実践的活動とのこのような結合こそが、彼のライフワークの核にある。さらに、それは知識を獲得プロセスへのする独自のアプローチとも関連していた。この点については『静かな大地』にもっとも生き生きと描かれている。アイデンティティと共生の哲学(平凡社ライブラリ- )469pテッサ・モーリス・スズキの解説から
『生きる場の哲学』67-8p
松浦武四郎が紹介しているエカシテカニの話
他にも重要な欠落はありそうだが、現状で認識しているのは上記の2点。
1、花崎さんとはナニモノか
1-1 プロフィール
花崎皋平(はなさきこうへい)さん 1931年、東京生まれ。哲学者。54年東京大学文学部哲学科卒業、64年から北海道大学教員(西洋哲学担当)。北海道大学助教授をへて、70年大学闘争に際して全共闘運動を支持し、学生の刑事裁判で特別弁護人をつとめ、それを機に同大を退職。1971年以後、著述を業としつつ、札幌を中心に各種の住民運動にたずさわっている。ベトナム反戦運動、成田空港や伊達火発、泊原発などの地域住民運動、アイヌ民族の復権運動への支援連帯活動などに参加。1989年ピープルズ・プラン21世紀国際民衆行事で世界先住民族会議の運営事務局に参加。
多くの人たちとの出会いをとおして「やさしさ」と「共感」という真の人間的連帯のありかたを模索し、そこから自らの「生きる場」と社会変革のかかわりを問い続けている。その作業はいま、アイヌの人々、アジア各地の民衆との交流の中で、現在の日本と日本人のあり様を相対化し、根底からとらえ直す方向ですすめられている。「さっぽろ自由学校“遊”」共同代表。ピープルズ・プラン研究所共同代表(2003年まで) (ウェブ上のいくつかの紹介を合体)
1-1(おまけ)
以下、つるたの印象評価
・裸足の哲学者
・頑固なまでに透徹な理論家
・ピープルにこだわり続け、しかしピープルから遠く、でもピープルになる価値に恋している。
・一見怖いところもあるけれどもちゃんと笑うとかわいい。ちゃんと笑わないこともある。
1-2 花崎さんのの背景
キリスト教徒(高校生の時入信?)・実存主義哲学の学徒からマルクス主義者へ
大きな転機は全共闘体験と大学からの「撤退」
「・・・1968~69年が私の再出発の起点であった」
『「ピープルネス」へ ① ―存在論の文脈で― 』 季刊ピープルズ・プラン25 2004年 152p
この「撤退」を受けて
「ピープルであるのではなく、ピープルになる」という価値観を含む立場が、いろいろな経過を経ながら明確になっていくように思える。<アカデミアの住人がピープルになるのは困難なのか>
(大学を辞して)
以降、彼は・・・アカデミア(大学・研究機関)の外側で活動しながら理論的著述と社会的実践とを結びあわせてきた。とりわけアイヌの権利をめぐる花崎の実践はよく知られている。哲学的省察と実践的活動とのこのような結合こそが、彼のライフワークの核にある。「アイデンティティと共生の哲学」(平凡社ライブラリ- )469pテッサ・モーリス・スズキの解説から
1-3 花崎さんの問題意識
「哲学という思考の営みは、個人、歴史、社会、超越を包括する全体を考察することを課題とする。それゆえ、・・・自己が生きている時と場が提起する現実の諸問題を無視することはできない。」 (前出『「ピープルネス」へ』)
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花崎(『アイデンティティと共生の哲学』)評価についてはテッサ・モーリス・スズキの解説『「ピープルネスの思想」の可能性』がわかりやすい。
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・・・マルクス主義革命の諸概念は、その影響力の多くを失った。また、あらゆる方向へグローバル化しつつある資本主義に対するオルタナティヴ(対案)を構想することに希望をもつ人びとは、新しい世界観を求めるなかで初発の原理に立ち戻ることを余儀なくされている。
===初発の原理とは?====
(つ)抑圧されたり、したり、差別されたり、したりすることのないこと?
花崎皋平の『アイデンティティと共生の哲学』は、こうした文脈においてとりわけ興味深い。というのも本書は、ポスト冷戦期日本の根本的なディレンマに始めて正面から向き合おうとした、ひとつの試みだったからだ。(中略)・・、日本の批判思想のなかにあるいくつかの重要な問題を提起した。第一の課題は、マルクス主義の限界を超える政治的オルタナティヴの創出である。花崎は、そのオルタナティヴが、日本とそれ以外のアジアとの大きく不平等な関係を考慮に入れ、日本においてもグローバル世界的にも、新たなアイデンティティの政治の出現を重視するものでなければならないと強調した。これらの問題を提起するために用いられた「共生」という言葉は、以降、日本でのアイデンティティ政治において、はばひろく論じられる概念のひとつとなった。もっともこの言葉は(最近、・・)・・・、非常に広範な意味をもつ概念に変容した。
(つ)ここでのアイデンティティの政治とは何か
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この二十年あまり、花崎は多くの著作で、「共生」を探求するための中心的な課題として、アイデンティティ政治におけるマジョリティの位置というディレンマについて論じてきた。(ここで私は「マジョリティ」という言葉を、数のうえでの多数派の人びとという字義どおりの意味ではなく。不平等で差別的な社会秩序の中で相対的な権力を付与されたアイデンティティの位置を示すものとして用いる。)排除と差別に対する闘いが、・・・同情的関心だけではすまないことは明らかである。それはまた、社会的不正義を犯す者、あるいはその結果からの受益者が自分自身の位置を再定義、再創造しなければならない。それによって不平等の構造を変えうるような闘争なのだ。しかし、それはいかにして実現できるのだろうか?いかにして他のアジアの人びととの関係において自らの「日本人」としての位置を、あるいは「女性」との関係で「男性」としての位置を、そしてアイヌや沖縄人、在日外国人との関係において「マジョリティ」としての日本人」としての位置を再創造することができるのだろうか?花崎にとってこれらの問いかけは、将来とって代わるべき政治における新しい主体の創造という問題の核心にあたる。その新しい主体とは、国家や市民、エスニシティとしてではなく、共にピープルとしてアイデンティティをもつことになるはずの存在である。467-8p
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環境・平和研究会におけるサブシステンスの位置づけも
「グローバル化しつつある資本主義に対するオルタナティヴ(対案)を構想する」、こうした文脈での問題意識につながるだろう。
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1-4 花崎と本質主義
このあたりのことはよくわかっていないので・・・。(とりあえず抜書きだけ)
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花崎はウォーラーステインがとるエスニシティについての構成主義的な立場を批判し、日々の現実における人間の経験という観点から、エスニシティが「人間生活に根ざした、人間の歴史に遍在する自覚」だと論じた(本書175p)。この立場からは、「マジョリティ」のエスニック・アイデンティティは単に放棄したり脱構築されることはできないのであって、肯定的で差別的でないかたちで「再構築」されなくてはならない、と・・・。1986年の雑誌『世界』(1月号)の論文 ナショナリスティックな日本政治の現状とユン・コンチャによる日本の人種主義への批判の双方に対して応答し、「悔改め・・・宗教的経験」にも似た「日本民族の自己意識」形態を創りだすことを呼びかける。
・・・・。彼のヤポネシア概念についての解説(第八章)、自己と他者の不平等な関係の作り直しをめぐる彼の議論(第九章)は、日本人のアイデンティティの解体と再形成の道筋を求めつづける試みの一部をなしている。 前出 テッサ・モーリスの解説471-2p
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彼女は、生きていかなければならない存在の生きる根拠として、
「(ひとつ) 戦略的本質主義
(ふたつ) 自分の生に対する、象徴化をともなう自己流の意味づけ」
をあげる。「本質主義」とは、民族とか女性性を個人に内在する本質と考えるイデオロギーをいう。ポストコロニアル・ポストモダンの政治思想の議論のなかで本質主義は民族やセクシャリティを実体化し、果ては神秘化へと導く誤った考えとして批判されてきた。この批判に対して、第三世界の知識人たちからはその観念性への反批判が生じ、具体的な生きる場では、戦略的な意味で本質主義を採用することが必要であるという主張が出てきた。私自身はその反批判を支持するが、どういう関係での「戦略」かそのつど開示し、その妥当性を開示しておかないとご都合主義におちいるという留保をつけ加えたい。 『<共生>への触発』84p 李静和の『つぶやきの政治思想』の戦略的本質主義の評価
1-5 花崎と徐京植の論争
この論争に関する太田昌国さんの評価
評
徐京植著『半難民の位置から:戦後責任論争と在日朝鮮人』(影書房、2800円)
花崎皋平著『<共生>への触発:脱植民地・多文化・倫理をめぐって』(みすず書房、2800円)
「季刊ピープルズ・プラン」第19号(2002年夏)掲載
ぼくはここの太田さんの評価にとても納得したが、花崎さんが言っていることが「徐京植さんの言い方は、それじゃ抑圧してる側のピープルにはちゃんと伝わらないと思うよ」ということなら、そういいたい気持ちはわかるような気がする。しかし、当然にも差別されている人が差罰している側に配慮しなければならないということの歪みをどう考えたらいいのか、という課題はある。
1-6 サブシステンスをめぐる記述
「どこへ行く?」 QUO VAIDIS(クオ・ヴァディス)?
自由学校「遊」ブックレット8 2003年5月初版
「経済のグローバル化が、世界中の都市や消費の関係を均質化するのに対抗して、地域循環型経済がオルタナティブとして模索されはじめています。そして、サブシステンス型の生活の価値が見直されています。「サブシステンス」とは、生存とか自給とかを意味する言葉で、近代の経済観では、生きることに追われたかつかつの生活を指していましたが、1970年代ごろから、オルタナティブな社会と経済の様式として光があてられるようになりました。有名な本としては、シューマッハーの『スモールイズ・・・』とか、サーリンズの『石器時代の経済学』があります。最近ではヨーロッパのフェミニストたちが、女性を構造的に差別し搾取している近代世界の家父長制と世界的な資本主義の蓄積様式とのつながりを分析し、「サブシステンス」の考えを強調しています。・・・」10p
初出99年9月
サブシステンスといえば、イリッチじゃないかというぼくの問いかけに
以下のように返答
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イリッチについての言及で感じたことは、ジェンダーやシャドウワークという考え方を思想と学問の領域に導き入れたイリッチの功績を正当に認めること、そして彼の思想全体の功罪を考えることは、たしかに重要だということです。
私自身は、イリッチには始めからやや批判的でした。たとえば『脱学校化社会』は、その学習ネットワーク論が参考になりましたが、実践的には、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』のほうが圧倒的に役にたちました。『脱病院化社会』(これは訳がずさん)も、主張していることはもっともなのですが、大所高所からの論にとどまっているかのように思えました。コンヴィヴィアリティの考えも魅力はあるのですが、ご託宣臭いように思いました。私がサブシステンスについての問題意識を得たのは、むしろ岩波現代叢書の『家事労働と資本主義』や玉野井さんの仕事でした(玉野井さんはイリッチに共感していましたね)。
フェミニズムと第三世界の出会いという問題はいぜんとして続いていますね。これからはイスラムとの関係としてより具体的実践的に問われてくると思います。PP研MLでの応答===
また、『アイデンティティと共生の哲学』7章ではサブシステンス論者のミースの論文にひきつけて、女と男、南と北の話を交差させながら展開している。
2、ピープルネスとは何か
『ピープルネス』という概念が設定されるのは
じゃなかしゃば(もうひとつの世界)を実現するという問題領域において
主要には
それを実現する主体は誰か、
その主体はどうように形成されるのか、という領域に密接な概念だが、単に『じゃなかしゃば』実現のの主体形成のためというより、『じゃなかしゃば』構想そのものにかかわる概念
「ピープル」とはひとびと一般を指すのではない。「市民」という身分を批判し、解体する視点からとらえた、21世紀の世界社会の成員性を名づけるカテゴリーとして・・・定義している。
「ピープルネス」とは、世界社会を構成する普遍的身分としての「ピープルとピープルの関係」をあらわす。その中身は、自由、平等、共生と理念化することができるが、それらは固定化された教理ではなく、つねに対象化されつくさない、非対称的な質を持つ人間の生命活動そのものの『個人/個人を超えるもの』88p
「水俣宣言」は、そのしめくくりでこうのべていた。越境する政治行動、支援・連帯行動をつうじて「人びとは、自分たち自身の21世紀を力をあわせてつくりだす「ピープル」となるのである。」343p
ピープルであることとピープルになることとは前者が存在についての記述、後者が価値についての記述とわけることができる。345p
ピープルはジェンダーを自分の身体と切り離さずに考える。(7章「女と男」)
自らの男性性を自覚的に引き受ける。292p 295p
ピープルは地域でこそ生きていける。305p
花崎ピープルは権威からも自由 307p
3、ピープルネスへの疑問
「ピープル」とひとびと一般をわかつものは何か
ピープルはもっといいかげんではないのか
(自分を中心に考える)
「ピープル」というより人びと一般の中に入るぼくには以下のような、つきつめた反省はなかなかできない
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常に妥協を用意し、あきらめによってさえぎり、一時の慰めに心を惹かれ、現実から逃避しようとする自分・・・。
反省という行為は、いうまでもなく他者の現実を介さない突き詰めたものにはならない。他者とは・・・それは根源的には世界であり、歴史・・。そのなかでとくに暴力と死に直面している個々人である。そうした状況からの問いかけ、歴史からの呼び声に応答する責任の自覚においてはじめて、私に対する反省も具体的な内容を持ちうる。反省する力は、状況に参加し、束縛され、それに対して責任と応答の関係を結ぶところから得られる。したがって私自身の存在の仕方を反省において明らかにするためには、世界と歴史の現在へ思想的、実践的に深く関わらなければならない。前出『「ピープルネス」へ』152‐3p
「常に妥協を用意し、あきらめによってさえぎり、一時の慰めに心を惹かれ、現実から逃避しようとする自分」を花崎さんは戒めるのだけれども、・・・・。ぼくはこういう逃げも少しは必要だと思う。、「常に妥協を用意し、あきらめによってさえぎり、一時の慰めに心を惹かれ」ている私ですが、花崎さんのこの反省に対する真摯な態度は大好きだし,ほんの少しは見習いたいと思っています。
どうすれば「ピープル」になれるのか?
「ピープル」はすでにいるのか?
「ピープル」は創造されるのか?守るのか?維持するのか?
一方で反省の厳格さを求めながら、花崎さんは同時にピープルは危うい存在だという。352p
悪の誘惑に負けたり、人を傷つけることをなんとも思わなかったり・・・。
ぼくとしても、ピープルはもっといいかげんで、ときどきはずるくて、でも、けっこうだまされたりもして、泣いて、笑って、怒って、でも数日すると忘れて、それでもけなげで、でもたくましくて、ときどきはまじめだけど、いんちきなことも多くて、人間なんてみんな嫌いだって、ときどき叫びたくなるけれども、それでもやっぱり人間が大好きで、というような、つかみどころのないものなんじゃないか、と思う。
そういうピープルが経済的な利益にずーっとひきつけられながらも、ときどきがんばったりする。そういう形で南の人といっしょに生きていける関係をめざす、「じゃなかしゃば」をめざす主体になる方法はないのか、と思う。花崎さんのように立派に反省はできない。それでも、南の人が「痛い」って言ってる、その声は聞こえるし、聞きつづけなけりゃいけないと思う。
ジェットコースターだって、言いにくいけど、ディズニーランドだって、やっぱり行けば、それなりに楽しい。リゾート開発の結果、できたリゾートホテルも気持ちよかったりするだろう。
それを花崎さんが整理をすると、
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こうした加害可能性と自己矛盾をかくさないこと、おたがいにナニサマでもない者であることの自覚、そこがピープルの連帯の出発点でなければならない。
ピープルになるとは、おたがいにナニサマでもない者としての関係に思いをひろげ、関係をピープル化することである。ナニサマでもない者が、そのままで生きやすい関係をつくることである。(353p
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ということになる。これは小田実が昔言ってた「にんげんみんなチョボチョボ」ということだろう。
このように、花崎さんは言うのだが、例の「ピープルネスへ」の反省についての文章とか読むと、やっぱりけっこう高いところにいるひとだなぁと思ってしまうわけだ。
ぼくはあからさまに自己矛盾を隠さないし、ナニサマでもない自覚っていうか、ナニサマになりようがない自分を楽しんだりしているので、上記の花崎さんの基準に適合してるかもしれないけれども、あまりにもあからさまなのもどんなもんだろう、という思いがないわけでもない。
ま、とにかく、リゾートやなにかが、それはそれとして楽しいということを認めながらも、でも違う楽しみがあって、そっちもすごく楽しいということを伝えることができればいいと思う。
たとえば、いま話題のヘリポート基地という名の飛行場建設予定地の辺ノ古から、少し行くと、海と風の宿っていう小さな民宿がある。花崎さんも何かの本で紹介していた。そして、そこからもう少し先に行くと沖縄で最大のリゾート基地がある。そのリゾートは確かにきらびやかで楽しそうだ。パラシュートを背負ってモーターボートに引かれて、空を飛ぶことだって可能だ。しかし、「海と風の宿」のあたたかさに触れたら、そこのユンタクルームでの深夜までの楽しい話につきあったりしたら、やっぱり、こっちがいいと思うわけだ。素泊まり一泊2000円で泡盛2杯までついてくるし。
==報告レジュメ???ここまで==
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