キューバが常備軍全廃を宣言(太田昌国さんによる・・)
以下の声明を最後まで注意深く読んでください。
「われわれの革命は、武力を行使することなく勝利できなかった。それは止むを得ざる、一時的な暴力の行使だった。また、勝利の後には、反革命の度重なる軍事侵攻に曝され、われわれは武装をさらに強化することを強いられた。われわれが自主的に選ぶ道をあらゆる手段で妨害する米国は、20世紀初頭になされた両国政府間の約束を盾に、いまだにグァンタナモの軍事基地を手放そうともしない。このような困難な情況に包囲されていることを確認しつつも、われわれはあらためて革命の初心を思う。われわれの誰ひとりとして、他人を殺し/自らを殺すことに本質のある兵士であることを永遠に望む者ではない。<敵>と有効にたたかうためには上意下達を、すなわち非民主主義性を不可欠の属性として持たざるを得ない軍隊の、永遠の信奉者ではない。その属性は、革命ゲリラであれ人民軍であれ解放軍であれ、免れることのできないものであることをわれわれは自覚している。われわれは、誰もが他人の支配者ではない民主主義的な空間において、他者を生かし、自らを生かす仕事に就いて働くことこそを望む。
多くの国の為政者が平和を口にしつつ、例外なく自国の軍備を増強し、敵意のないところでさえ敵意を煽って、自ら好んで戦争に突入(9・11後の合州国が典型・引用者注)することもある、現在の国際関係の水準からすれば、われわれの以下の方針は、自国の安全上の危険を招きかねないことを、われわれは怖れる。それでもなお、われわれは、われわれは、世界に先駆けて自国常備軍全廃に向けた指針を定めた。今後、10年をかけて、わが国は段階的に軍備を縮小する。10年後にはわが国には常備軍は存在しないであろう。人を殺すための兵器は存在しないであろう。従来の兵員は、(国外の、社会的・経済的により困難な情況にある地域も含めて)建設的な仕事の分野に順次移行する。
世界じゅうの人びと、各国政府、国際機関に重ねて訴える。われわれが、危険を冒してまでこの方針を定めたのは、常に潜在的な<敵>を想定しながら国防に励むことの悪循環を思うからである。人間が人間の敵であることを前提とする資本主義社会のモデルによっては廃絶できない戦争の本質に鑑み、われわれはわれわれが築きつつある新しい社会のモラルに即して、この方針を策定した。1945年以降、世界各地で起こってきた戦争の性格を考えるとき、われわれはそのほとんどが、いわゆる第三世界地域を戦場にしていることを気づく。他人を殺傷する兵器の生産、すなわち軍需産業の繁栄によって自国経済の一部たりとて成り立たせてこなかった第三世界地域は、かくも貧しいままに、なぜ大国が生産する兵器の購入に乏しい国家資金を費やし、来るべき戦争に備えなければならないのか。われわれの新しい方針は、絶え間なき戦火に苦しんできた第三世界の人びとによってこそ歓迎され、あわよくばこの間隙を利用してわが国を侵略しようとするかもしれない超大国の陰謀を砕くであろうことを確信する」
===
これ、 「ゲバラを脱神話化する」に書いてある太田昌国さんの創作です。エイプリルフールにでも流そうかと思っているうちに年月がたってしまいました。
これに続けて彼は以下のように書きます。。
==
これは、文字通りの「夢想」である。可能性は少ないが、フィデル・カストロがもしこの夢想を知る機会があれば、「オリエントの安逸な先進国に住むエセ・インテリが安楽椅子に腰掛けながら何を太平楽なことを言うのか」と、彼にしてみれば言いなれた悪罵を投げつけるだろう。
===
また、この文章の前には以下のように
==
「英雄的な革命戦争を遂行しているベトナム民衆」と私たちが捉えていた時代にも、軍には別な・・があったと伝えるのは、バオ・ニンの小説『戦争の悲しみ』(めるくまーる1997年)である。・・・中略・・・
私からすれば、このような事実が明るみに出た時こそ、軍事/軍隊の意味を捉え返すべき絶好の機会である。絶え間なき戦火の中で必然的に「軍事化してしまっている社会」のあり方を、自分たちが初心として持っていた理念との付き合わせを通して再検討し、次の段階への理念を生み出すべき時である。
だが、キューバでもベトナムでもそのような動きは見えない。民衆は沈黙を強いられ、絶対的権力を自らに付与した<党=政府=軍>の特権的指導部は「敵の脅威」を理由にどんな変化も認めようとしない。
そんな現実をみながら、私は夢想する。
キューバ革命が、革命後いまに至る40年間のいつの時点でもいい、軍備全廃の方針を打ち出せなかったものか、と。たとえば、キューバ革命から35年後の1994年に蜂起するメキシコのサパティスタにも似て、次のように語りながら。
===
民衆の安全保障とか憲法の平和主義をどう実現していくか、というようなことを考えていくうえでも、これらのことは考えなければならない事柄だと思う。「オリエントの安逸な先進国に住む」人間の夢想を実現するために、何がどのように準備されなければならないのだろう。
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「われわれの革命は、武力を行使することなく勝利できなかった。それは止むを得ざる、一時的な暴力の行使だった。また、勝利の後には、反革命の度重なる軍事侵攻に曝され、われわれは武装をさらに強化することを強いられた。われわれが自主的に選ぶ道をあらゆる手段で妨害する米国は、20世紀初頭になされた両国政府間の約束を盾に、いまだにグァンタナモの軍事基地を手放そうともしない。このような困難な情況に包囲されていることを確認しつつも、われわれはあらためて革命の初心を思う。われわれの誰ひとりとして、他人を殺し/自らを殺すことに本質のある兵士であることを永遠に望む者ではない。<敵>と有効にたたかうためには上意下達を、すなわち非民主主義性を不可欠の属性として持たざるを得ない軍隊の、永遠の信奉者ではない。その属性は、革命ゲリラであれ人民軍であれ解放軍であれ、免れることのできないものであることをわれわれは自覚している。われわれは、誰もが他人の支配者ではない民主主義的な空間において、他者を生かし、自らを生かす仕事に就いて働くことこそを望む。
多くの国の為政者が平和を口にしつつ、例外なく自国の軍備を増強し、敵意のないところでさえ敵意を煽って、自ら好んで戦争に突入(9・11後の合州国が典型・引用者注)することもある、現在の国際関係の水準からすれば、われわれの以下の方針は、自国の安全上の危険を招きかねないことを、われわれは怖れる。それでもなお、われわれは、われわれは、世界に先駆けて自国常備軍全廃に向けた指針を定めた。今後、10年をかけて、わが国は段階的に軍備を縮小する。10年後にはわが国には常備軍は存在しないであろう。人を殺すための兵器は存在しないであろう。従来の兵員は、(国外の、社会的・経済的により困難な情況にある地域も含めて)建設的な仕事の分野に順次移行する。
世界じゅうの人びと、各国政府、国際機関に重ねて訴える。われわれが、危険を冒してまでこの方針を定めたのは、常に潜在的な<敵>を想定しながら国防に励むことの悪循環を思うからである。人間が人間の敵であることを前提とする資本主義社会のモデルによっては廃絶できない戦争の本質に鑑み、われわれはわれわれが築きつつある新しい社会のモラルに即して、この方針を策定した。1945年以降、世界各地で起こってきた戦争の性格を考えるとき、われわれはそのほとんどが、いわゆる第三世界地域を戦場にしていることを気づく。他人を殺傷する兵器の生産、すなわち軍需産業の繁栄によって自国経済の一部たりとて成り立たせてこなかった第三世界地域は、かくも貧しいままに、なぜ大国が生産する兵器の購入に乏しい国家資金を費やし、来るべき戦争に備えなければならないのか。われわれの新しい方針は、絶え間なき戦火に苦しんできた第三世界の人びとによってこそ歓迎され、あわよくばこの間隙を利用してわが国を侵略しようとするかもしれない超大国の陰謀を砕くであろうことを確信する」
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これ、 「ゲバラを脱神話化する」に書いてある太田昌国さんの創作です。エイプリルフールにでも流そうかと思っているうちに年月がたってしまいました。
これに続けて彼は以下のように書きます。。
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これは、文字通りの「夢想」である。可能性は少ないが、フィデル・カストロがもしこの夢想を知る機会があれば、「オリエントの安逸な先進国に住むエセ・インテリが安楽椅子に腰掛けながら何を太平楽なことを言うのか」と、彼にしてみれば言いなれた悪罵を投げつけるだろう。
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また、この文章の前には以下のように
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「英雄的な革命戦争を遂行しているベトナム民衆」と私たちが捉えていた時代にも、軍には別な・・があったと伝えるのは、バオ・ニンの小説『戦争の悲しみ』(めるくまーる1997年)である。・・・中略・・・
私からすれば、このような事実が明るみに出た時こそ、軍事/軍隊の意味を捉え返すべき絶好の機会である。絶え間なき戦火の中で必然的に「軍事化してしまっている社会」のあり方を、自分たちが初心として持っていた理念との付き合わせを通して再検討し、次の段階への理念を生み出すべき時である。
だが、キューバでもベトナムでもそのような動きは見えない。民衆は沈黙を強いられ、絶対的権力を自らに付与した<党=政府=軍>の特権的指導部は「敵の脅威」を理由にどんな変化も認めようとしない。
そんな現実をみながら、私は夢想する。
キューバ革命が、革命後いまに至る40年間のいつの時点でもいい、軍備全廃の方針を打ち出せなかったものか、と。たとえば、キューバ革命から35年後の1994年に蜂起するメキシコのサパティスタにも似て、次のように語りながら。
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民衆の安全保障とか憲法の平和主義をどう実現していくか、というようなことを考えていくうえでも、これらのことは考えなければならない事柄だと思う。「オリエントの安逸な先進国に住む」人間の夢想を実現するために、何がどのように準備されなければならないのだろう。
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