河辺一郎さんの人間安全保障論
人間安全保障についてはいろいろ面白いものがネットで読める。今日、偶然に見つけたのは河辺さんの「人間安全保障の政治性 ― 提唱の背景と日本にとっての意味 ―」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/ras/pdf/kt_kiyo/21/kawabe.pdf
(グーグルからはHTMLでも読める。)
もしかしたら、これもすでに誰かが「民衆の安全保障再考研究会」で参照していたかもしれないが、人間安全保障論が出てきた政治的な背景の肯定的な評価とその危険が非常にわかりやすく提起されている。計9ページの報告だが、面白くわかりやすいのですぐ読める。これは人間安全保障を考えるうえでの必読文献といえるだろう。この論文が掲載されたのが「立命館国際地域研究 第21 号 2003 年3月」とあるので、セン・緒方の報告書がでる直前になる。この報告書を受けた後の流れについても河辺さんの話を聞いてみたいものだ。
また、この主要な内容とは少し外れたところで面白かったのは、河辺さんが冒頭近くで「人間安全保障の提唱自体が、議論をあえて抽象化することによりその政治性を薄め、議論を成立させやすくしようとした側面があり、いたずらにその「本音」を追及することはその本旨に反するだろう。」とし、また、結語でも再び「もちろん、いたずらに人間安全保障提唱のいわば本音をさらけ出すことが好ましいわけではない。それは逆に人間安全保障が持つ政治性を台無しにしかねない。しかし、武者小路の「安易なヒューマニズムの立場で安全を論ずる理想主義的な主張と誤解をしてはならない」という言葉を改めて振り返る必要があるのではないだろうか。」いう主張。
河辺さん、人間安全保障論の本音≒本質を誰よりもわかりやすく的確に明確に説明してくれているが、そのように説明し終わった後にも、説明することを躊躇している。これをこれ以上広めるのもどうかと思うのだが、読者の少ないぼくのブログなら問題ないだろう。
==
以下、特に興味深かったことを少しだけ参照する。
===
2.米国への牽制としての「人間安全保障」
==
人間安全保障という新たな概念は・・・。PKOの軍事化が進む中で、本来は必ずしも直接は結びつけられていない「安全保障」と「人間」を一体化して考えることが主張されたのである。復活した軍事的国連への警戒が見て取れた。そしてそれは、急速に軍事化する国連を非軍事的な活動に引き戻そうとする試みであると同時に、国連の非軍事的な面を軍事的な面に引きずり込む危険性も持っていた。この点で、人間安全保障の提唱は、PKOが軍事化する途を拓いてしまった『平和への課題』とも類似した役割を担う可能性もあった。これは、複層的な意味で「国連の生き残りを賭けた主張」だったと言い得る。
==
国連(United Nations)が米国(UnitedStates)に突きつけた批判を政治的に整えたものが人間安全保障であることを、米国政府はよく理解していたのである。
==
日本は、冷戦の終焉以降、憲法の制約がとれたとして、国際貢献の名の下に国連憲章に基づいて、つまり「本来の」国連の姿に基づいて軍事的な方向に向かい続けている。日本政府が人間安全保障を日本外交の中心に据えたのは、人間安全保障とは逆の方向を向くことを決定的にした後だったことになる。その意味で、日本の人間安全保障の提唱は、本来ならば大きな議論を呼ぶべきことだった。
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間安全保障を提唱することにより軍事面に傾斜する日本外交を非軍事的な側に引き戻そうと試みる勢力もあり得るが、同時に、それを邪魔なものと認識して無視しようとする勢力も政府内に存在しうる。さらには、これを一層の軍事化を言いつくろうものとして利用し、特に90年代以降続いている日本外交の矛盾をごまかす道具にすることも可能である。人間安全保障をどう議論するかという問題は、日本政治における、日本の方向性をめぐる政治対立も示している。
==引用ここまで==
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(グーグルからはHTMLでも読める。)
もしかしたら、これもすでに誰かが「民衆の安全保障再考研究会」で参照していたかもしれないが、人間安全保障論が出てきた政治的な背景の肯定的な評価とその危険が非常にわかりやすく提起されている。計9ページの報告だが、面白くわかりやすいのですぐ読める。これは人間安全保障を考えるうえでの必読文献といえるだろう。この論文が掲載されたのが「立命館国際地域研究 第21 号 2003 年3月」とあるので、セン・緒方の報告書がでる直前になる。この報告書を受けた後の流れについても河辺さんの話を聞いてみたいものだ。
また、この主要な内容とは少し外れたところで面白かったのは、河辺さんが冒頭近くで「人間安全保障の提唱自体が、議論をあえて抽象化することによりその政治性を薄め、議論を成立させやすくしようとした側面があり、いたずらにその「本音」を追及することはその本旨に反するだろう。」とし、また、結語でも再び「もちろん、いたずらに人間安全保障提唱のいわば本音をさらけ出すことが好ましいわけではない。それは逆に人間安全保障が持つ政治性を台無しにしかねない。しかし、武者小路の「安易なヒューマニズムの立場で安全を論ずる理想主義的な主張と誤解をしてはならない」という言葉を改めて振り返る必要があるのではないだろうか。」いう主張。
河辺さん、人間安全保障論の本音≒本質を誰よりもわかりやすく的確に明確に説明してくれているが、そのように説明し終わった後にも、説明することを躊躇している。これをこれ以上広めるのもどうかと思うのだが、読者の少ないぼくのブログなら問題ないだろう。
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以下、特に興味深かったことを少しだけ参照する。
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2.米国への牽制としての「人間安全保障」
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人間安全保障という新たな概念は・・・。PKOの軍事化が進む中で、本来は必ずしも直接は結びつけられていない「安全保障」と「人間」を一体化して考えることが主張されたのである。復活した軍事的国連への警戒が見て取れた。そしてそれは、急速に軍事化する国連を非軍事的な活動に引き戻そうとする試みであると同時に、国連の非軍事的な面を軍事的な面に引きずり込む危険性も持っていた。この点で、人間安全保障の提唱は、PKOが軍事化する途を拓いてしまった『平和への課題』とも類似した役割を担う可能性もあった。これは、複層的な意味で「国連の生き残りを賭けた主張」だったと言い得る。
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国連(United Nations)が米国(UnitedStates)に突きつけた批判を政治的に整えたものが人間安全保障であることを、米国政府はよく理解していたのである。
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日本は、冷戦の終焉以降、憲法の制約がとれたとして、国際貢献の名の下に国連憲章に基づいて、つまり「本来の」国連の姿に基づいて軍事的な方向に向かい続けている。日本政府が人間安全保障を日本外交の中心に据えたのは、人間安全保障とは逆の方向を向くことを決定的にした後だったことになる。その意味で、日本の人間安全保障の提唱は、本来ならば大きな議論を呼ぶべきことだった。
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間安全保障を提唱することにより軍事面に傾斜する日本外交を非軍事的な側に引き戻そうと試みる勢力もあり得るが、同時に、それを邪魔なものと認識して無視しようとする勢力も政府内に存在しうる。さらには、これを一層の軍事化を言いつくろうものとして利用し、特に90年代以降続いている日本外交の矛盾をごまかす道具にすることも可能である。人間安全保障をどう議論するかという問題は、日本政治における、日本の方向性をめぐる政治対立も示している。
==引用ここまで==
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