屈辱書評(アフガニスタンの仏像は・・・)とオクスファムのWTO香港閣僚に向けた声明について
ブログに掲載する適当な文章はないかなぁと考えながら、ハードディスクの中をのぞいたら、以下の書評がすぐにでてきた。書いたけど、掲載されなかった書評だったかもしれないと記憶する。依頼されて書いたのに掲載されないという悲惨な結果はしょうがないかなぁという内容の書評だが、表向きには掲載されない別の理由を言われたかもしれない。「水準が低くて掲載できません」っていうのは言いにくいものね。データのプロパティを見ると、2001年の12月に書いたとある。
昨日いくつかのMLでattacの秋本さんが紹介してくれたオクスファムの声明への違和感ともつながるものがあると思ったので、以下に転載。
==以下、転載==
書評「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 屈辱のあまり崩れ落ちたのだ」
****(工場労働者・PP研会員)
この長いタイトルの本を一気に読んで「そうかー」と思い、渡辺さんのあとがきを読んで、「それもそーだなぁ」と考え、「面白かった」とPP研のMLに書きこんでそれで終わらせとけばよかったのだ。PP研のSさんに書評を書いてみないかと誘われ、ちょっと借りもあったので引き受けた。出来の悪い書評で屈辱のあまり崩れ落ちるのが自分になるなんて、考えもしなかったと、まず言い訳から書きださずにいられないのは悪い癖。
著者のマフマルバフ氏はイランの世界的に有名な映画監督で、イランの若い世代にもっとも支持されている文筆家の一人(らしい)。彼が2000年に撮影した「カンダハール」という映画のための調査や経験がこのレポートのもとになっている。
さて、本題。 「マフマルバフ監督への手紙」という形式をとらせてもらおう。
親愛なるマフマルバル様。
日本語としてあまりこなれていない「親愛なる」という形容詞を使わせていただきます。あなたのアフガンについての記録を読んで、この言葉を使いたくなりました。データをもとにしながら、しかし、人の命を慈しむ視線や人間の尊厳をないがしろするシステムへの怒りに共感するところは大きかったのです。最初に「この苦い題材が、あなたの心地よい生活に無関係だと思うなら、どうか読まずにいてください。」と書かかれています。こういうスタンスがぼくは大好きです。あなたの映画をいままで見ないできたことがとても残念だと感じました。
このレポートが書かれた当時のアフガンの人々に対する世界の無視(ネグレクト)は合州国が戦争を始めたことで、無視という形ではなくなりました。アフガンの人々がかかえる非常に困難な状況は(この本でリアルに理解できました。)、これ以上の困難はありえないと思わせるものでしたが、戦争で一層ひどい状況になったようです。
ぼくは現在のようなカタチでタリバーンの政権が崩壊したことについて、複雑な感情を持たざるをえません。ともあれ、アフガンの復興が語られるようになった今、世界中の無視に抗して書かれたこのレポートですが、もっと多くの人に読まれるべきでしょう。そういう思いを持ちつつ、今回の手紙ではその「復興」のイメージについての違和感を、あえて書かせてもらいます。
「今日のアフガンの根本的な悲劇は貧困であり、経済問題の解決以外に抜本的な解決策はない」という、監督の主張はその通りだと思います。しかし、この本のアフガン経済再生のイメージに違和感がぬぐえません。アフガンの富は労働力であるとし、その富で国際的な取引に加わり、世界の生存の輪に入ることが提唱されています。ぼくは違う角度でアフガンの再生を夢見ています。それをひとことで言えば、「サブシステンス志向」という方向性です。グローバルな経済に参加することより、自立自存の経済を追求するようなありかたです。この方向性は一人でも多くの人が飢えないという方向をめざし、外貨を稼ぐための産物よりも、飢えをしのぐ食料を生産するようなありかたです。
東京に生活し、サブシステンスからもっとも遠いところで、世界中のサブシステンス経済の破壊の恩恵を受けながら生活している私がこのように語る傲慢さは自覚しているつもりです。キラキラした「先進国」の恩恵を確かに受けながら生活してる私が世界中でもっとも経済的に貧しいほうの国の人に対して、サブシステンス経済の重要性を語るいびつさについては注意しすぎるくらいの感性が必要だと思います。それでも、私が日本社会にサブシステンス志向を求めるのとはまったく違う内容であるかもしれないと思いながら、アフガンではグローバル経済に参加する方向ではなく、サブシステンス経済を志向する方向を持って欲しいと思うのです。
もちろん、グローバル経済から完全に離脱することは不可能です。また、国際社会はこんな風に翻弄されたアフガン社会再生へ資金援助する必要があります。再生の方向を決めるイニシアティヴはアフガンの人々が持つべきですが、それへの支援はグローバル経済にアフガンを巻き込むことではなく、サブシステンス経済の復権を生む方向であって欲しいのです。また地雷の生産国は責任を持って、アフガンに設置されたすべての地雷を除去する道義的な義務を持っています。
グローバル経済の強制力と、そのキラキラした見せかけに世界中の人が動員されている現状でサブシステンスを人々が選択することは確かにとても困難でしょう。とりわけアフガンのように近隣国を中心とする国際社会がアフガン国内での民族同士のコンフリクトを歓迎し、それをあおり、人間関係がずたずたにされてきた社会で、人々の連帯を基盤におかざるをえないようなサブシステンスを志向することの困難さは想像するまでもないかもしれません。コンセンサスのないところで、外部者がどのようにサブシステンスの重要性を説いても無駄かもしれませんが、それが大切だと思っているということは主張しつづけたいと思います。グローバル化の帰結としてのこの数十年の世界の悲惨さを見ると、サブシステンスの豊かさを志向するような社会のありようこそが望まれているのだと思えてならないのです。
「もうひとつの社会は可能だ」というスローガンがありますが、これは特別な宗教を信仰しないぼくの信仰告白のようなものです。可能だと思いたいのです。その可能性をたぐりよせるために、ぼくに出来る範囲のことはしようと思います。そういう作業は眉間にしわをよせるのではなく、笑顔でやりつづけたいものです。今日はあなたのレポートへの違和感の話を中心に書きましたが、このレポートに触れたことが、ぼくの希望に少し力を与えてくれたことは付け加えて、かなり自己満足的なこの手紙を閉じたいと思います。
P.S. この1月、日本でも公開される「カンダハール」を楽しみにしています。
P.S.2 恥ずかしさのあまり崩れ落ちるくらいの感性をぼくが持っていたら、こんな手紙は公開できなかったのかもしれませんね。
==転載ここまで==
依頼されて書いた文章が掲載されなくても屈辱のあまり崩れ落ちるようなことはないなぁ。
オクスファムは今回の香港でのWTO閣僚会議に際して、
==
「英国がグローバルな貿易で利益を得てきたように、途上国もそうすべきであり、経済発展を推進することである。ドーハ開発ラウンドは、途上国の期待を裏切ることなく、雇用創出、生活水準の向上につながるものである。このラウンドは、貿易条件を改善し、途上国の利益を現実のものとし、WTOルールに基づいた多国間貿易システムの優位性を強化するための極めて重要な機会である。閣僚たちはドーハの期待を現実のものとするために前進しなければならない」
フィナンシャル・タイムズ(12月2日付)
==
という声明を発表したそうだ。上に掲載した書評はこのオクスファムの声明に対する違和感の表明にもなるかなぁと思って、4年遅れで掲載する、
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昨日いくつかのMLでattacの秋本さんが紹介してくれたオクスファムの声明への違和感ともつながるものがあると思ったので、以下に転載。
==以下、転載==
書評「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 屈辱のあまり崩れ落ちたのだ」
****(工場労働者・PP研会員)
この長いタイトルの本を一気に読んで「そうかー」と思い、渡辺さんのあとがきを読んで、「それもそーだなぁ」と考え、「面白かった」とPP研のMLに書きこんでそれで終わらせとけばよかったのだ。PP研のSさんに書評を書いてみないかと誘われ、ちょっと借りもあったので引き受けた。出来の悪い書評で屈辱のあまり崩れ落ちるのが自分になるなんて、考えもしなかったと、まず言い訳から書きださずにいられないのは悪い癖。
著者のマフマルバフ氏はイランの世界的に有名な映画監督で、イランの若い世代にもっとも支持されている文筆家の一人(らしい)。彼が2000年に撮影した「カンダハール」という映画のための調査や経験がこのレポートのもとになっている。
さて、本題。 「マフマルバフ監督への手紙」という形式をとらせてもらおう。
親愛なるマフマルバル様。
日本語としてあまりこなれていない「親愛なる」という形容詞を使わせていただきます。あなたのアフガンについての記録を読んで、この言葉を使いたくなりました。データをもとにしながら、しかし、人の命を慈しむ視線や人間の尊厳をないがしろするシステムへの怒りに共感するところは大きかったのです。最初に「この苦い題材が、あなたの心地よい生活に無関係だと思うなら、どうか読まずにいてください。」と書かかれています。こういうスタンスがぼくは大好きです。あなたの映画をいままで見ないできたことがとても残念だと感じました。
このレポートが書かれた当時のアフガンの人々に対する世界の無視(ネグレクト)は合州国が戦争を始めたことで、無視という形ではなくなりました。アフガンの人々がかかえる非常に困難な状況は(この本でリアルに理解できました。)、これ以上の困難はありえないと思わせるものでしたが、戦争で一層ひどい状況になったようです。
ぼくは現在のようなカタチでタリバーンの政権が崩壊したことについて、複雑な感情を持たざるをえません。ともあれ、アフガンの復興が語られるようになった今、世界中の無視に抗して書かれたこのレポートですが、もっと多くの人に読まれるべきでしょう。そういう思いを持ちつつ、今回の手紙ではその「復興」のイメージについての違和感を、あえて書かせてもらいます。
「今日のアフガンの根本的な悲劇は貧困であり、経済問題の解決以外に抜本的な解決策はない」という、監督の主張はその通りだと思います。しかし、この本のアフガン経済再生のイメージに違和感がぬぐえません。アフガンの富は労働力であるとし、その富で国際的な取引に加わり、世界の生存の輪に入ることが提唱されています。ぼくは違う角度でアフガンの再生を夢見ています。それをひとことで言えば、「サブシステンス志向」という方向性です。グローバルな経済に参加することより、自立自存の経済を追求するようなありかたです。この方向性は一人でも多くの人が飢えないという方向をめざし、外貨を稼ぐための産物よりも、飢えをしのぐ食料を生産するようなありかたです。
東京に生活し、サブシステンスからもっとも遠いところで、世界中のサブシステンス経済の破壊の恩恵を受けながら生活している私がこのように語る傲慢さは自覚しているつもりです。キラキラした「先進国」の恩恵を確かに受けながら生活してる私が世界中でもっとも経済的に貧しいほうの国の人に対して、サブシステンス経済の重要性を語るいびつさについては注意しすぎるくらいの感性が必要だと思います。それでも、私が日本社会にサブシステンス志向を求めるのとはまったく違う内容であるかもしれないと思いながら、アフガンではグローバル経済に参加する方向ではなく、サブシステンス経済を志向する方向を持って欲しいと思うのです。
もちろん、グローバル経済から完全に離脱することは不可能です。また、国際社会はこんな風に翻弄されたアフガン社会再生へ資金援助する必要があります。再生の方向を決めるイニシアティヴはアフガンの人々が持つべきですが、それへの支援はグローバル経済にアフガンを巻き込むことではなく、サブシステンス経済の復権を生む方向であって欲しいのです。また地雷の生産国は責任を持って、アフガンに設置されたすべての地雷を除去する道義的な義務を持っています。
グローバル経済の強制力と、そのキラキラした見せかけに世界中の人が動員されている現状でサブシステンスを人々が選択することは確かにとても困難でしょう。とりわけアフガンのように近隣国を中心とする国際社会がアフガン国内での民族同士のコンフリクトを歓迎し、それをあおり、人間関係がずたずたにされてきた社会で、人々の連帯を基盤におかざるをえないようなサブシステンスを志向することの困難さは想像するまでもないかもしれません。コンセンサスのないところで、外部者がどのようにサブシステンスの重要性を説いても無駄かもしれませんが、それが大切だと思っているということは主張しつづけたいと思います。グローバル化の帰結としてのこの数十年の世界の悲惨さを見ると、サブシステンスの豊かさを志向するような社会のありようこそが望まれているのだと思えてならないのです。
「もうひとつの社会は可能だ」というスローガンがありますが、これは特別な宗教を信仰しないぼくの信仰告白のようなものです。可能だと思いたいのです。その可能性をたぐりよせるために、ぼくに出来る範囲のことはしようと思います。そういう作業は眉間にしわをよせるのではなく、笑顔でやりつづけたいものです。今日はあなたのレポートへの違和感の話を中心に書きましたが、このレポートに触れたことが、ぼくの希望に少し力を与えてくれたことは付け加えて、かなり自己満足的なこの手紙を閉じたいと思います。
P.S. この1月、日本でも公開される「カンダハール」を楽しみにしています。
P.S.2 恥ずかしさのあまり崩れ落ちるくらいの感性をぼくが持っていたら、こんな手紙は公開できなかったのかもしれませんね。
==転載ここまで==
依頼されて書いた文章が掲載されなくても屈辱のあまり崩れ落ちるようなことはないなぁ。
オクスファムは今回の香港でのWTO閣僚会議に際して、
==
「英国がグローバルな貿易で利益を得てきたように、途上国もそうすべきであり、経済発展を推進することである。ドーハ開発ラウンドは、途上国の期待を裏切ることなく、雇用創出、生活水準の向上につながるものである。このラウンドは、貿易条件を改善し、途上国の利益を現実のものとし、WTOルールに基づいた多国間貿易システムの優位性を強化するための極めて重要な機会である。閣僚たちはドーハの期待を現実のものとするために前進しなければならない」
フィナンシャル・タイムズ(12月2日付)
==
という声明を発表したそうだ。上に掲載した書評はこのオクスファムの声明に対する違和感の表明にもなるかなぁと思って、4年遅れで掲載する、
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この記事へのコメント
ところで、私はあんまり覚えがよくないのですが、昔、いいだももさんが、先進国と途上国との近代化の時間差による認識の差を、コカコーラをもじって「コカコラリゼーション」とよんでいたように思います。
それを読んだ当時、そりゃ一度コーラ飲んだり、クルマでかっ飛ばす楽しみを味わったうえで、「やっぱりこれはイカン」という思いに至った人が、まだそれを味わっていない人に、「これは身体にも環境にも悪いからよしとけ」ていうのは、いささか傲慢だよな、と思いました。
ただ、私たち日本に生まれ生きてる者が、コカコーラの問題に気づく時間と、中国やタイなどの人たちがその問題に気づく時間とは違う、より短くすることができる、ということだけは言えるかもしれませんね。
つまり、やっぱりここでも「コカコーラを飲むのはよせ」というのではなくて、「飲もうというのはあなたの自由だけど、飲みつづけたらこうなるぞ」という「事実」を、私ら民衆の側が積極的に情報を流しつづけ知らせ続けることしか、早道はないんだろうかなとも思います。
素朴なコメントですいません…。
WTOに関するMLでオクスファムJPの山田さんからコメントのメールをもらっています。彼の許可があればここに掲載したいと思っています。
その上で、ぼくが考えたことを紹介したいです。