「在ることより、することへの強迫」

以前、アップロードした中野民夫さんの「ファシリテーター8か条」


に谷澤久美子さんというスクールカウンセラーの人からTBしてもらった。TBされた記事は


「わからないまま 歩き続ける」


中野民夫さんが作った「自分という自然に出会う」という本の紹介が主な内容になっている。



そこに谷澤さんが以下のように書いている。


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中野さんが彼らと一緒にワークショップを開催するのには訳がある。


 個人的には誰も望まないのに、環境を破壊してしまう人間の根本的な原因と、

平和を実現できない根本的な原因は、おおよそ3つのまとめられると、彼は考えた。


①切り離され孤立している、という私たちの自己認識

 自分を守るためには、殻を固めて他とせめぎあうしかないと思いがちに

 なってしまう。

②在ることより、することへの強迫

 今ココを味わうより、もっともっと!という強迫観念にとらわれている

③自分自身をありのままに感じ、正直にあらわにできる場がない

 ツネに人の目を意識した生活

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気になったのは、「個人的には誰も望まないのに、環境を破壊してしまう人間の根本的な原因と、平和を実現できない根本的な原因」の2番目の原因としてあげられている、「在ることより、することへの強迫」というここの部分


「何かしなければならない」と考える前に、「生きていれば、それでいいじゃないか」と思えるようになることが大切なんだと思う。

たとえば、カンボジアのローカルNGOで働くメアス・ニーという人が書いたパンフレット(「壊れた籠」JVC発行1996)には、こんな風に書いてある。

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村は、粉々に砕け散った籠のようだ。かけらはそのまま残っているけれど、その気になって見なければ見えない。壊れた籠はゆっくり時間をかければ編み直すことができる。それができるのは村人といつも一緒にいて、信頼関係を築くことができた者だけだ。


そう、ゆっくり、注意深くやれば、編み直すことができる。そしていつかは村人自身が編む人となり、この仕事をもっと、もっと進めるのだ。こうして、籠は前よりもずっといいものになる。


戦争の被害、意図的に関係が壊されてしまったこと、誇りをなくしてしまったことによるダメージは簡単には回復できない。「食べるものが足りない」状態を改善するのは容易なことではない。恐怖の中で開かれた集会やプロパガンダばかりの集まりで受けた傷を癒すのはたやすいことではない。人々の心は、こうした諸々のことで麻痺している。前に進むには、ゆっくり、注意深くでなければ。


冗談や他愛もないおしゃべりをするうちに、人は本音を語り合えるようになる。こうして、だんだん信頼関係が戻ってくる。ごこでもいいから、居心地のいい場所にみんなで腰を下ろしてみよう。夜がいいな。日中の暑い時なら、どこか木陰で。みんな、くつろいで、個人的なことを話し始めるだろう。


各々の、家族の、そして共同体の自信と信頼を回復する方法を見つけなければならない。これはどんな関係を作るときにも必要だ。ゆっくり。


貧しい人と一緒に腰を下ろしてその言葉に耳を傾ければ、それがその人の自信を深めることになる。時には間違ったことを言うこともある。でもそれを責めてはいけない。生きようとしているのだから。そして、ここにこうしているのだから。責める代わりにこう言ってみよう。

「ちゃんと食べているじゃないか。問題があったって、こうして生きているじゃないか。どうやっているんだい?」

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何かを「する」ことよりも、まず存在することの大切さがここに書かれている。


サブシステンス志向という考え方は、「開発する」というようなことよりも、「とりあえず人が生存し続ける」ということを基本にすえる。「開発」とか「発展」を追及する前に、どうしたら、持続的に食べて生きていけるようになるのか、ということだ。



マルコス副司令官は、反乱をやめれば赦免しようと呼びかけたサリナス大統領(当時)に対する回答の中で、以下のように語っている。

(「いのち・開発・NGO」345pから適当に省略して孫引き)


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 誰が許しを乞い、誰がそれを与えるべきなのか?

 何年も何年も、贅沢三昧で満腹してきた連中に、許しを与える権利があるのだろうか?・・・・

 それともわれわれは死者に許しを乞うべきであろうか?はしか、百日咳、デング熱、コレラ、チフス、破傷風、肺炎、マラリア、そしてその他の素敵な腸や肺の病気という「自然な」原因による「自然な」死を迎えなければならなかった者たちに対してか?われわれのうちで大多数を占める死者、民主的に死んだとされる人たち(誰も何もしてあげなかったため、悲しみから死んでいった者たち)、これらの死者は、誰もその数さえ数えてもらえず、「もうたくさんだ」とも言ってもらえなかったからなのか?そういうことができていれば、少なくとも彼らの死、すなわち、永遠に死んだ者たちには何らかの意味が与えられただろう。死の意味を、誰も彼らのために求めなかった。・・・。

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 ここにある病気の名前の意味について、考えて欲しい。それらは、ほぼ治療可能な病気だ。それらの病気で死ななければならないのは貧困による栄養不足や、基本的な医療にアクセスできないからだ。そのような状態を放置している体制を体現する大統領から「赦される」ことをサパティスタは拒否し、それをマルコスは彼一流のレトリックで告発したわけだ。


ここにも「生」の希求がある。





この問題をちゃんと考える必要があるんだろうなぁ、と最近思っている。それは「障害者が生きる」ということと重ねて考えることでもある。



たとえば、野崎さんという大学院生が

自分のブログで


「生きるに値しない命」とは誰のことか―ナチス安楽死思想の原典を読む


という本を紹介している。ここに「在る」ということを否定する究極的な主張がある。「しない・できない」人間は殺してもかまわないというような。



この本を紹介してくれている野崎さんの博士論文のメインテーマは「留保なき生の肯定」

ということだと、プロフィールに書いてある。


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「留保なき生の肯定」・・・を、僕は理論上言っている。しかし実際に、現実の世界において、僕にそう言い切る勇気はまだない。現実には逡巡している。だけど、逡巡の彼方に、そうした未来への希望を捨てずに、まずは理論的に考えたい。

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この正直でまっすぐなスタンスがぼくは好きだ。(実際の彼を知らない印象評価(笑)。また、このブログ、難しいことがいっぱい書いてあるでわからないことも多い。)


「留保なき生の肯定」っていうのは確かに現実の中では難しいことが多くて、いろいろ留保はつけたくなる。しかし、少なくとも、彼の書いた論文のタイトルになっている「生きていたらいいと言える社会のほうがいい」というはその通りだろうと思う。



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補足


最初に引用したブログの中に、以下のようなことも書かれているのが気になった。

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そしてこの3つ根本原因を乗り越えるために、

3つの方向性を導き出し、

①「つながり」を取り戻すワーク

②「今ここ」に立ち止まるワーク

③「心から」の声を聞き合うワーク

のプログラムを考え出したという。

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 個々の内面的な問題、そこを無視していいとは思わない、それは大切なアプローチの方法ではある。しかし、圧倒的な社会や政治や体制の問題を避けるわけにはいかない。そのあたりのことを博報堂で働く中野民夫さんはどう考えているのか聞いてみたくなった。

 そして、逆に社会運動を進める側には、ひとりひとりの内面的な問題とどう向き合おうとするのか、ということも問われるわけだ。

 それをどのような形で重ね合わせることができるのだろう。

この記事へのコメント

2006年04月16日 14:26
私のブログのことを取り上げ、それを深めてくださったこと、とっても嬉しいです。ありがとうございます。
 そして、この記事の最後の部分、、「圧倒的な社会や政治や体制の問題を避けるわけにはいかない」おっしゃるとおりです。私は今日、「ホテル・ルワンダ」を見てきました。今この瞬間も、世界や日本の中のあちらこちらで人権を侵害されるような出来事が起こっているのだとおもいます。自分の内側の力を高めることも必要ですが、それを使うべき場は、あらゆるところにあるのですね。このことについては、また改めて考えたいと想います。きっかけをありがとうございます。

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