顔面移植手術をめぐって(「ル・モンド・ディプロマティーク」の記事から)
少し前のことになってしまったが、「顔面移植手術をめぐって」という記事がル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版に掲載された。
http://www.diplo.jp/articles06/0603-4.html
中国でも2例目の顔面移植が行われたという記事を読んで思い出したので、忘れないうちに内容をメモしておく。
グーグルのニュース検索は以下
http://news.google.co.jp/news?hl=ja&ned=jp&q=%E9%A1%94%E9%9D%A2%E7%A7%BB%E6%A4%8D&btnG=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%A4%9C%E7%B4%A2
(これらのニュースがいつまで保管されているか不明)
この「ル・モンド・ディプロマティーク」の記事では、脳死移植についてはまったく問題にされない。心臓移植は認められるが、顔面移植はどうかという議論で、顔面移植も認められるべきという見解だ。「倫理派」からの批判に対して、移植手術を擁護するという立場は読み取れるのだが、以下の結語部分はぼくには意味不明だ。
===
今回の顔面移植で、外科手術という行為が変に神聖視されることはなくなった。今日、家族たちは口々に言う。「どうぞ顔も使ってください」と。
===
ここで論者は何が言いたいのだろう。家族たちとは誰の家族のこと??
以下、気になった部分をこの記事から引用とコメント
==引用1==
しかし、価値というものは生きた存在の中にある。我々をこの世界に結びつける関係性と、器官や神経からなる生命とを切り離して考えるのは、おかしな話である。移植手術は後者の意味における損傷器官に限定すべきだと言うのも同様である。
==引用1ここまで==
関係性を抜きにして、生命を語るべきではないという主張はそうだと思うが、だとしたら、脳死移植のなかで、提供する側とされる側、両者の生命の関係も検討されなければならないはずだ。貧困が臓器の提供を生み出している例は多い。再生可能な部分の移植とそうでない移植があり、死ななければ提供できない部位とそうでない部位がある。それぞれをどのように考えたらいいのか。
とりわけ、問題が顕著になるのは、臓器の売買や死の判定にかかわるときだろう。
現在の医療技術の中で移植がもっとも有力な治療という疾病は確かに存在するだろう。そういう状況のなかで移植を求める切実な声があるのは確かだ。少しでも生き長らえる可能性が増えるのであれば、身近な人はそれを求めたくなる。
心臓がそうであるように、顔面の移植でも、どこからを死とするのかという判定の問題が常につきまとう。移植手術を急ぐあまりに死の判定が曖昧にされたのではないかとされる例も報告されている。そこで、救うべき生命と提供される生命が分断される。
その関係をどうにか解きほぐすことは可能なのか。
==引用2==
そこで問うべき問題は、この手術が無害なのか、有害なのか、あるいは有益なのかの一点に尽きる。現時点で、ひとつだけ確かなことは、クロード・ベルナールが述べているとおりだ。「実験について、炉辺で話しているだけの人々は、科学のために何もしていない。それどころか、科学の邪魔をしている(4)」
==引用2ここまで==
無害か有害かということが、ここでは移植された人にしか適用されていない。炉辺で話しているだけのぼくは科学の邪魔をしている。しかし、時に邪魔が必要なこともあるのではないか。
==引用3==
生命を救うことと崇めることの間には、たった一歩の差しかない。その一歩を踏み越えれば、生命の捉え方が、厳正というよりも何か抽象的なものに変じてしまう。たとえば、手段を問わない延命措置が施される。生命として、これほど不自然な状態はない。これも救命に直結する。これも死の淵を遠ざけている。だが、それはどのような生であり、どのような死であるのか。要するに「倫理派」は、形而上的な生命なるものに医療技術を服さしめている。それとは逆に、現場の医師は、医療技術を形而下の生命に役立てる。顔面移植手術の目的は、自然な状態を取り戻すプロセスにある。周到に準備を整えた執刀医の技量は、自然な状態を利用し、誘導し、そして支援する。患者の形質と機能の回復をはかるために。
==引用3ここまで==
ここでは「手段を問わない延命措置」の内容は語られない。何を指して「手段を問わない延命措置」と呼ぶのか。ここに重大な問題が含まれていると思う。誰しも「手段を問わない」と言われたら、それはよくないと思う。しかし、現在でも必要な延命装置を選べない状況があることを見ないわけにはいかない。例えば、ALS患者の人工呼吸器を論者はどのように見るのだろう。意思表示がまったくできない、呼吸も装置なしでは維持できないトータリー・ロックド・インという状況の人への延命は「手段を問わない延命」と呼ばれる危険があるのではないだろうか。
こんな風に書くぼくは「倫理派」と呼ばれたりするんだろうか。
倫理的なぼく。ぼくの身近にいる人には誤解している人も多いようですが、じつは、ぼくは倫理的な人だったわけです。すごいね。
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==
http://www.cnn.co.jp/science/CNN200604170023.html
中国の病院、世界2例目の顔面移植に成功と
2006.04.17
Web posted at: 19:19 JST
- AP
北京(AP) 16日付の北京晩報によると、中国・西安の病院で14日、顔に重傷を負っていた男性への顔面移植手術が完了した。男性は鏡を見て、結果に満足しているとの意思表示をしたという。フランスで昨年11月、女性が世界初の顔面移植手術を受けたのに続く2例目とみられる。
男性は南西部・雲南省で2年前に熊に襲われ、右目がほとんど開かず、ほおや唇が裂けるなどの傷を負った。西安市内の病院で行われた手術は15時間にわたり、ほおと上唇、鼻、まゆが移植された。新華社電によると、提供者の情報は遺族の意向により公表されていない。
男性は麻酔からさめた直後に鏡を見ることを希望。担当医は15日にこれを許可した。男性はまだ話すことができないが、鏡に映った自分の顔を見てうなずいたという。
担当医によると、男性の傷跡は今後きれいに治る見通しだが、提供者の肌の色が白かったため、移植していない部分との差は残るとみられる。
==
http://www.asahi.com/international/update/0416/010.html
顔面移植手術、中国でも成功 世界2例目
2006年04月16日22時55分
中国で熊に襲われて顔面の3分の2を損傷した男性(30)に、他人の顔面の一部を移植する手術が行われ、成功した。15日付の中国各紙が報じた。フランスで昨年、世界初となる顔面移植手術が実施されたが、今回の移植手術を行った病院は「より範囲が広く複雑な手術だった」と説明している。
報道によると、男性は雲南省の山中で2年前に熊に襲われ、顔の右半分などを大きく損傷したほか、鼻と上唇を失った。
手術は、陝西省の西安第4軍医大学西京病院で、医師10人が約14時間かけて実施。全身麻酔をした男性に、脳死と判定された男性ドナーから採取した皮膚、皮下組織、微細な筋肉、血管などを移植した。執刀した医師によると、半年後には自然な表情が出るようになるという。
病院関係者は、今回の成功は「我が国の移植分野での画期的な進展」と位置づける一方、犯罪者の人相を変えるなど技術の悪用は決して許さない、としている。
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http://www.diplo.jp/articles06/0603-4.html
中国でも2例目の顔面移植が行われたという記事を読んで思い出したので、忘れないうちに内容をメモしておく。
グーグルのニュース検索は以下
http://news.google.co.jp/news?hl=ja&ned=jp&q=%E9%A1%94%E9%9D%A2%E7%A7%BB%E6%A4%8D&btnG=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%A4%9C%E7%B4%A2
(これらのニュースがいつまで保管されているか不明)
この「ル・モンド・ディプロマティーク」の記事では、脳死移植についてはまったく問題にされない。心臓移植は認められるが、顔面移植はどうかという議論で、顔面移植も認められるべきという見解だ。「倫理派」からの批判に対して、移植手術を擁護するという立場は読み取れるのだが、以下の結語部分はぼくには意味不明だ。
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今回の顔面移植で、外科手術という行為が変に神聖視されることはなくなった。今日、家族たちは口々に言う。「どうぞ顔も使ってください」と。
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ここで論者は何が言いたいのだろう。家族たちとは誰の家族のこと??
以下、気になった部分をこの記事から引用とコメント
==引用1==
しかし、価値というものは生きた存在の中にある。我々をこの世界に結びつける関係性と、器官や神経からなる生命とを切り離して考えるのは、おかしな話である。移植手術は後者の意味における損傷器官に限定すべきだと言うのも同様である。
==引用1ここまで==
関係性を抜きにして、生命を語るべきではないという主張はそうだと思うが、だとしたら、脳死移植のなかで、提供する側とされる側、両者の生命の関係も検討されなければならないはずだ。貧困が臓器の提供を生み出している例は多い。再生可能な部分の移植とそうでない移植があり、死ななければ提供できない部位とそうでない部位がある。それぞれをどのように考えたらいいのか。
とりわけ、問題が顕著になるのは、臓器の売買や死の判定にかかわるときだろう。
現在の医療技術の中で移植がもっとも有力な治療という疾病は確かに存在するだろう。そういう状況のなかで移植を求める切実な声があるのは確かだ。少しでも生き長らえる可能性が増えるのであれば、身近な人はそれを求めたくなる。
心臓がそうであるように、顔面の移植でも、どこからを死とするのかという判定の問題が常につきまとう。移植手術を急ぐあまりに死の判定が曖昧にされたのではないかとされる例も報告されている。そこで、救うべき生命と提供される生命が分断される。
その関係をどうにか解きほぐすことは可能なのか。
==引用2==
そこで問うべき問題は、この手術が無害なのか、有害なのか、あるいは有益なのかの一点に尽きる。現時点で、ひとつだけ確かなことは、クロード・ベルナールが述べているとおりだ。「実験について、炉辺で話しているだけの人々は、科学のために何もしていない。それどころか、科学の邪魔をしている(4)」
==引用2ここまで==
無害か有害かということが、ここでは移植された人にしか適用されていない。炉辺で話しているだけのぼくは科学の邪魔をしている。しかし、時に邪魔が必要なこともあるのではないか。
==引用3==
生命を救うことと崇めることの間には、たった一歩の差しかない。その一歩を踏み越えれば、生命の捉え方が、厳正というよりも何か抽象的なものに変じてしまう。たとえば、手段を問わない延命措置が施される。生命として、これほど不自然な状態はない。これも救命に直結する。これも死の淵を遠ざけている。だが、それはどのような生であり、どのような死であるのか。要するに「倫理派」は、形而上的な生命なるものに医療技術を服さしめている。それとは逆に、現場の医師は、医療技術を形而下の生命に役立てる。顔面移植手術の目的は、自然な状態を取り戻すプロセスにある。周到に準備を整えた執刀医の技量は、自然な状態を利用し、誘導し、そして支援する。患者の形質と機能の回復をはかるために。
==引用3ここまで==
ここでは「手段を問わない延命措置」の内容は語られない。何を指して「手段を問わない延命措置」と呼ぶのか。ここに重大な問題が含まれていると思う。誰しも「手段を問わない」と言われたら、それはよくないと思う。しかし、現在でも必要な延命装置を選べない状況があることを見ないわけにはいかない。例えば、ALS患者の人工呼吸器を論者はどのように見るのだろう。意思表示がまったくできない、呼吸も装置なしでは維持できないトータリー・ロックド・インという状況の人への延命は「手段を問わない延命」と呼ばれる危険があるのではないだろうか。
こんな風に書くぼくは「倫理派」と呼ばれたりするんだろうか。
倫理的なぼく。ぼくの身近にいる人には誤解している人も多いようですが、じつは、ぼくは倫理的な人だったわけです。すごいね。
これを読んでくれた人が下の「人気blogランキングへ」というのをクリックしてくれると、そのクリックしてくれた人の人数でランクが決まる仕組みです。クリックするとランキングのサイトに飛び、うんざりするような排外主義ブログのタイトルの山を見ることになりますが、クリックしてもらえるとうれしかったりもします。
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http://www.cnn.co.jp/science/CNN200604170023.html
中国の病院、世界2例目の顔面移植に成功と
2006.04.17
Web posted at: 19:19 JST
- AP
北京(AP) 16日付の北京晩報によると、中国・西安の病院で14日、顔に重傷を負っていた男性への顔面移植手術が完了した。男性は鏡を見て、結果に満足しているとの意思表示をしたという。フランスで昨年11月、女性が世界初の顔面移植手術を受けたのに続く2例目とみられる。
男性は南西部・雲南省で2年前に熊に襲われ、右目がほとんど開かず、ほおや唇が裂けるなどの傷を負った。西安市内の病院で行われた手術は15時間にわたり、ほおと上唇、鼻、まゆが移植された。新華社電によると、提供者の情報は遺族の意向により公表されていない。
男性は麻酔からさめた直後に鏡を見ることを希望。担当医は15日にこれを許可した。男性はまだ話すことができないが、鏡に映った自分の顔を見てうなずいたという。
担当医によると、男性の傷跡は今後きれいに治る見通しだが、提供者の肌の色が白かったため、移植していない部分との差は残るとみられる。
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http://www.asahi.com/international/update/0416/010.html
顔面移植手術、中国でも成功 世界2例目
2006年04月16日22時55分
中国で熊に襲われて顔面の3分の2を損傷した男性(30)に、他人の顔面の一部を移植する手術が行われ、成功した。15日付の中国各紙が報じた。フランスで昨年、世界初となる顔面移植手術が実施されたが、今回の移植手術を行った病院は「より範囲が広く複雑な手術だった」と説明している。
報道によると、男性は雲南省の山中で2年前に熊に襲われ、顔の右半分などを大きく損傷したほか、鼻と上唇を失った。
手術は、陝西省の西安第4軍医大学西京病院で、医師10人が約14時間かけて実施。全身麻酔をした男性に、脳死と判定された男性ドナーから採取した皮膚、皮下組織、微細な筋肉、血管などを移植した。執刀した医師によると、半年後には自然な表情が出るようになるという。
病院関係者は、今回の成功は「我が国の移植分野での画期的な進展」と位置づける一方、犯罪者の人相を変えるなど技術の悪用は決して許さない、としている。
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この記事へのコメント
自立支援法の関連で悪用されるとまずいので尊厳死は一応反対の立場ですが、(でも反対と言い切ってしまうほどやっぱり私は強くないかな)臓器移植のことが入ってくると反対・・・いいのか・・・ですね。
自分や家族が心臓病かなんかになって死んだ人から臓器をもらわないと生きていけない状況になったら、そんなこと言ってられないかも・・・。
でもアメリカとかのそういう脳死の判定とかもいいかげんだというような話もどこかで聞いたし。
提供する側、される側どちらの命も同じくらい大事ですしね。
現在、いろいろ社会問題がありますが、私は頭悪くてよく分からないのですが、(本や文章もそんなにたくさん読めないし)ちょっとずつ勉強して、できるだけのことをできるだけやれればいいかと思います。