小さいということは、美しいだけでなく、力強いものでなければならない
また、過去の読書ノートから抜書き
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KSSPの代表的な論者であるM.P.パラメスラワン(MP)は第二回のWSFの記録とも言える「もうひとつの世界は可能だ」(*18)の中で以下の表現を残している。
「参加と持続可能性への要求は、変わることなく規模の小ささを要求する。小さいということは、美しいだけでなく、力強いものでなければならない」。
これが意味するものは明瞭だ。規模が大きすぎるとき、社会的なことへの参加は必ず形骸化する。参加型のシステムの規模は必ず、参加感を感じさせることができるくらいの小ささでなければならない。また、大規模開発の多くが持続可能性を持っていないということもすでに明らかだ。そんな批判にもかかわらず、日本のODAはいまだに大規模開発を捨てられない。一気に大きな利潤をあげたいゼネコンやメーカーやコンサルの利害があり、その上前を狙う人間がいて、大型プロジェクトのほうが都合のいい日本のODAの構造がある。そのようではない、小ささの必要性をMPは主張する。シューマッハの「小さいことは美しい」という主張を超えて、それは力強いものでなければならない、と主張するわけだ。地域の住民が主体となった参加型の小さくて力強い取り組みが必要だと主張し、彼はそれをケララで実践している。
しかし、その同じMPが「すべては臨界以下の大きさだ。小さすぎて衝撃力を持てない」(*19)ともいう。ここでの大きさ小ささはひとつひとつのプロジェクトの単位のことではない。その総和の話だ。そのような小さなとりくみの総和が影響力を持てるだけの数がなければ、巨大な新自由主義グローバリゼーションと対抗することはできない。ここでKSSPの取り組みについて触れる余裕も能力もないが、その外国の援助資金に頼らない地域に根ざした取り組みはサブシステンス志向と重なる部分が少なくないと考える。
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追記
知り合いの春日くんのブログで最近のケララの状況を読むことができそう。
ケララ 消えゆく夢の国か?
続きが楽しみ
この記事へのコメント
4月27日にアップロードした
「民衆運動のグローバル化とサブシステンス」
http://tu-ta.at.webry.info/200604/article_19.html
です。