吉田太郎さん関係
某MLで吉田太郎さんの自己紹介に出合った。
以前から気になっていた人だったので、レスポンスを書いた。
そして吉田さんから短いレスポンスをもらったので、その情報と読みにくいところを少し補足して、以下に転載
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はじめまして
吉田太郎さん、
カサ・デ・クーバ
に掲載しているリレーエッセイ、「持続可能な国づくりへの挑戦」
少し古くなってしまいましたが、楽しみに読んでいました。キューバ、おもしろそうですね。
そして、今日、ウェブで検索したら、
吉田太郎「自給・循環の国づくり~キューバからのたより」
これもとても面白かったです。
それぞれ、読みやすい短いエッセーの連載なので、みなさんに全文を読んでもらえばいいのですが、たとえば、
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カストロが「この国には、マネーゲームもなければ、ラジオ、テレビでもコマーシャ ルもない」と語るように、キューバではどの街中にも郊外にも広告は一切ない。いくつか目立つのは、政治的スローガンの看板だけである。そのひとつに「コンスマ・ソラメンテ・ロ・ネセサリオ」というものがある。経済危機以来登場したキャッチフレーズで、「暮らしに本当に必要なモノだけを消費しよう」という意味だ。だが、「欲しがりません。勝つまでは」という我が国のかつての忌まわしき謳い文句とは裏腹に、人々に困窮と耐乏生活を強いているわけではない。それどころか、どんな山の中にも無料の病院と学校があり、延々と電線が引かれ、それがない僻村にもソーラーパネルで動くテレビや冷蔵庫がある。そして、厳しい経済危機の中でも母子家庭や低所得者層を路頭に迷わせないための配給制度が堅持されている。
経済危機を契機に、スタートしたこの国の有機農業や自然エネルギー開発、そして自然保護とセットとなったエコツーリズムも、このメーデーに象徴される演出を排除した健全なリアリティ認識とは切り離しては考えられない。そして、人生は楽しむべきだというキューバ人の本来の生活気質、そして誤った政策を打ちだす政治家は直ちに落選の憂き目を見るという人々の厳しい政治意識に基づいている。冒頭で紹介した007の映画が象徴する「架空の世界認識」に躍らされ、本来の暮らしを見失い、本当は生活と密着したはずの政治の大切さを忘れているのは、私ども日本人の方なのではないだろうか。
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とか、面白いですし、モースの日本紹介も「へぇー」っていう感じです。
また、
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まず、現地を訪れた方からよくいただくのは「吉田の本に騙された。こんな国は有機農業の理想郷でもなんでもない。期待はずれでがっかりした」というものである。
この理由にはいくつかあるが、ひとつは、筆者がキューバを日本人の環境問題に関心持つ読者に受けるように、あまりにも美しくフィルターをかけて描いてしまったことであろう。その現実とのギャップにがっかりするのだ。地球上のどこにも完全な理想郷などあるはずもないのだが、まず、訪問者が度肝を抜かれるのは、キューバの貧しさである。
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自分で正直に「あまりにも美しくフィルターをかけて描いてしまった」と説明していることも、とてもよいです。
ただ、このエッセーの中で評価されているルラ大統領は今回の香港WTOではインドの代表と一緒に第三世界いわゆる「途上国」の代表の顔をしながら、脱線ぎりぎりだったWTOを生き延びさせた主役ということになっており、脱WTO運動の中での評価はがた落ちです。輸出補助金の年限を切ることは、他の妥協なしでも可能だったのではないかといわれています。しかし、キューバとベネズエラだけは最後まで抵抗したようです。
また、この文章の中のHPへのリンクが切れていて、フィデルの演説や「反社会主義・反資本主義・日常的伝統生活愛好・反米愛国、いや失礼、非米愛郷土論」が読めないのは残念です。
<<吉田さんのレスポンスからの補足>>
いま、こちらに移っています。内容も以前よりもバージョンアップしています。
==補足ここまで==
そして、ロマンチックラブイデオロギーへの疑義や隣組の歌に見る昭和初期コミュニティへのまなざし、このあたりは議論が分かれるところでしょうが、行き過ぎたロマンチックラブイデオロギーの問題はあるにしても、子どもを5人生むことを当然とされる女性への過重な負担の問題も考慮に入れる必要はあると思いますし、あまりにも濃厚なコミュニティの息苦しさから逃げたくて都会に出てくる人間が少なくないのも事実です。
そのあたりのバランスをどうとっていくのかということも問われているのだと思います。
で、とりわけぼくが面白いと思ったのは、以下、
(ぼくが活動家だから、と言われてしまえばそれまでなんですけど)
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だが、雑誌ソトコトを読み、島村菜津さんのスロー・フード論に感激し、・・・・・・・・・・(多少の配慮で中略)。こんなものがスローなのだろうか。結局、今の資本主義のフレームにからめ捕られてしまっているだけではないか。
だから、拙著の後半はグローバリゼーション批判までゆきつく。結局、スローは政治改革と反WTОまで直結してしまうのだ。それを抜きにしたファッションとしてのスローは、結局言葉の遊びのブームで終わってしまうだろう。
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ソトコトも嫌いな雑誌じゃないし、島村菜津さんのスローフード論も大好きで感動してしまうし、辻氏の本も好きな軟弱な活動家(かつ最近はさぼり気味)の私ですが、それを出発点にした人びとに対して、その先の「グローバリゼーション批判までゆきつく。結局、スローは政治改革と反WTОまで直結してしまうのだ。」という、まさにそこの部分を具体的にどのように見えるようにしていくことができるのか、そのことこそが問われているのだと思います。
===MLへの投稿ここまで===
これに吉田さんから興味深いレスポンスをもらっている。できればそのうちそれも紹介したい。できれば・・・・だけど。
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