ミースたちのサブシステンス理解
これから、手元に集めたサブシステンスに関するアンソロジーをすこしずつ、ここに書き写そうと思う。ぼくが扱うのは主にサブシステンスを価値理念とするような捉え方。だから、マイナーサブシステンスというようなアプローチとは少し違う。(このマイナーサブシステンスというような捉え方を見ていくことも、サブシステンスという概念の広がりを感じるためには重要かもしれないが)
これまでも、すでにいろいろこのブログで書いているが、
このアンソロジーからの抜書きを始めるにあたって、最初に紹介するのは
「世界システムと女性」を3人で書いた、ミース、ヴェールホフ、トムゼン。
彼女たちが70年代にサブシステンスという概念に注目し始めた。それをイリッチが援用し、実はかなり前にポランニーが似たようなことを提起していたといのが、サブシステンスという語が世界をつかむためのキーワードになっていくのはこれが始まりのようだ。
彼女たちのことをビーレフェルト学派と呼ぶ人もいたように記憶している。
「フチタン」には以下のように書いてある。
===
「サブシステンス生産」という概念・・・出発点は七〇年代後半における「ビーレフェルトの発展社会学の学者グループ」の考察であった。
==
古田さんの「世界システムと女性」の解題には
==
こうして、エコロジーとフェミニズムのパースペクティブに貫かれた自分たち独自の概念を「サブシステンス」という言葉で表現することになった三人は、1976年から81年にかけて「サブシステンス再生産」にかんする一連の国際会議を準備し、開催した。会場としてビーレフェルト大学を使用し、アジア・アフリカ・ラテンアメリカから参加者を招いた。
==
と書かれている。
とにかく、そのミースたちのサブシステンスに関して、ぼくが目にしたものを以下に転載する。(古田さんの文章もここに含む。)
======
世界システムと女性
マリア・ミース
C・V・ヴェールホフ
V・B・トムゼン
古田睦美・善本裕子訳
藤原書店 1995年
2002年の連休に国立女性教育センターで借りて、少し読んだ。
2002年に古田さんから購入、部分読み
人間の生命と生産の生きた労働能力の生産があらゆる生産様式と生産形態との前提であるかぎりにおいて、わたしたちはこれをサブシステンス生産・再生産とよぶことにする。使用価値生産の領域内では、サブシステンス生産と再生産の区別は分析的なものにすぎないのであり、二つの過程は分かちがたく結びついている。だから、今後わたしはサブシステンス生産という言葉をこの連続した二つの過程をいい表すために使うことにする。したがって、サブシステンス生産は、妊娠、出産から、生産、食料の加工や準備、衣服の用意、掃除まで含みさらに感情的および性的な欲求の充足までを含む人間の多様な諸活動を包括するものと定義される。こうした活動のすべてにおいて、人間のエネルギーは「自然」を人間の生命へと転化させるために費やされる。だから、わたしはこの活動をサブシステンス労働とよぶことにする。こうした仕事のほとんどが女性によって行われている。
古田さんの解題 三 サブシステンス概念の構築
こうしてはじまった彼女たちのまったくあたらしい学問的探求の中でひときわ重要なできごとは、「サブシステンス」概念を構築したことである。・・・
人間は長い間自然を領有してきた。こうした人間と自然との搾取的で破壊的な関係が、産業主義の本質的な性格である。女性の領有も女性が自然と定義されたことによっておこるのであり、またそのことによって合理化もされる。女性の領有を完全に廃止するためには、人間と自然との関係をまったく新しくつくり直さなければならないのである、とヴェールホフは言う。著者たちにとって、この新しい関係の基礎となるのがサブシステンス生産である。この時、サブシステンス生産が意味するものは、自分および他人の「生命をつくること」であり、つまり「生きること」それ自体であり、「生活」そのものである。
ミースは・・・次のように言っている。「・・・・しかし、そこにおいて労働は決して重荷ではなく楽しみでもあった。このような経験からわたしは、サブシステンス労働は決して貧困や悲惨さや不幸と同義でないことを知った」。
このように著者たちのサブシステンス概念には、自然と調和して食べるために活動し、命を産みだし命を維持する協働的な労働、という肯定的なイメージが含まれている。通常周辺諸国の研究において、サブシステンスは・・・・・悲惨で皮相なイメージをともなっているのであるが、ミースたちのサブシステンス概念には、こうした通常の生存維持という意味にとどまらない積極的な意味が付与されているといえるだろう。
このような、著者たちの言う「生命をつくる」サブシステンス生産は、実際にさまざまな形態をとって存在する再生産活動を指すと同時に、来るべき未来社会の編成原理であり、いわば未来社会の方向を指し示すビジョンでもある。ヴェールホフはこのことを次のように言っている。「サブシステンス・パースペクティブ」は必要でありながらないものとされる「無賃労働」から世界を見る視点であり、第2に「ユートピア・ビジョン」である。
こうして、エコロジーとフェミニズムのパースペクティブに貫かれた自分たち独自の概念を「サブシステンス」という言葉で表現することになった三人は、1976年から81年にかけて「サブシステンス再生産」にかんする一連の国際会議を準備し、開催した。会場としてビーレフェルト大学を使用し、アジア・アフリカ・ラテンアメリカから参加者を招いた。
===
学芸総合誌・季刊
環 (KAN)【歴史・環境・文明】 Vol.12
特集:「近代化の中のジェンダー」
2003年1月刊 菊大判 512頁 本体価格
2800円
ISBN4-89434-317-7
特集 近代化の中の「ジェンダー」
近代化の中で女であり男であるという「性」はいかに変容したか。単一の性に向かう人類生存の危機をあらゆる側面から徹底検証する。
〈インタビュー〉
サブシステンス・パースペクティブの可能性
【環境・女性・反グローバリズム】
M・ミース 〔聞き手=古田睦美〕
==
・・・・。基本的にはどういうことかといいますと、
サブシステンスというのは自分たちの生命維持に関
わることに、自分たちが決定権を持つ、支配権を持
つということです。こういった基本的に必要なもの
に関して市場だけに頼らない……頼る部分もあるか
もしれませんが、全面的に頼ることはしないという
ことです。このサブシステンスな生活を送るのに必
要なものは、市場の外でも得るものができるものが
たくさんあるといっているのです。ただそうするた
めには、新たな関係を築いていかなければいけませ
ん。関係というのは男女間の関係もそうですし、人
と自然の関係もそうですし、(以下略)
===
・・・。このグローバリゼーションに反対する運
動の中で、人々はオルタナティブな方法を模索して
います。でもこのオルタナティブな方法といっても、
サブシステンスだけが唯一のオルタナティブな方法
とはいえないと思うんです。
===
女の町フチタン―メキシコの母系制社会
ヴェロニカ ベンホルト=トムゼン (編集),
Veronika Bennholdt‐Thomsen (原著), 加藤 耀子 (翻訳), 五十嵐 蕗子 (翻訳), 入谷幸江 (翻訳), 浅岡 泰子 (翻訳)
藤原書店 (1996年12月刊)
近代市場経済のメカニズムに対抗して、自立性を主張すれば、人々は危機を回避できる。しかし、そのような自立性が発展によって失われていくと、生存のための生産も機能化される。つまり、生存のための生産は、世界市場の変動に巻き込まれると、ただちに容易ならざる状態におちいる。しかし、サブシステンス生産が、金融経済、商品経済の純粋な再生産機能に堕すことのなかったフチタンでは、生存の自立的基盤は強化されうる。地方経済が国際金融経済と商品経済に統合されてしまってさえも、自立したアイデンティティはやはりなお、サブシステンス志向をささえることができるのだ。成長経済の貫徹をめざす開発政策の圧倒的な力からみて、とても可能だと思われなかったこれらの現象が、フチタンの調査の結果わかったことである。
「サブシステンス生産」という概念は、私たちの考察においては、中心的役割をはたすものだから、ここでまず簡単に説明したい。一般にはこの言葉は、直接に生存するために必要とする、あらゆる行為をさす。この視点から、すなわち下から、日常の場から社会を考えるまでには、それなりの研究の歴史と展開があった。出発点は七〇年代後半における「ビーレフェルトの発展社会学の学者グループ」の考察であった。レナーテ・オットー=ワルターの要約によると、第三世界の国々の大多数の民衆にとっては「サブシステンス経済生産が、彼らの再生産のもっとも重要な構成要素である。そして、この使用価値に応じた生産は、無賃労働で自家需要のためにおこなわれる」。これは、「資本主義生産の前提条件であり、同時に社会的再生産の本来的構成要素である」から、経済をこえた純粋な本能の問題だ(マルクス)などといって、単なる「自己充足や生存確立と同一視」してよいものではない。私たちはこの理論によって、それまで優勢であった工業信仰と成長を信奉する発展理論に突破口を開いた。政治的経済的観点からは価値がないとされてきた、現実の日々の暮らしの領域をふたたび考慮にいれ、その明確な事実の意味をさぐることが、私たちの課題となった。
この一般的定義を、のちに私たちは二つの観点から特殊化し、具体化した。
1 女性の労働について
2 私たちがフチタンで出会うことになるような、市場経済のなかで可能な、サブシステンス志向について
サブシステンス生産という言葉で私たちが考えるのは、食料の調達、農作物が自家消費される場合には農地の耕作、そのほか、買い物、料理、食卓の準備などで、さらに洗濯も忘れてはならない。サブシステンス生産にはまた、子どものためにする数えきれない無賃「労働」、通常は母親のする労働がはいる。近代社会においては、サブシステンス生産は、ますます女性の仕事になってしまった。・・・・。
・・・。私たちはこれまで、最大利潤追求型経済ではない社会的実践の可能性をさぐる研究をすることになったとき、直接的なサブシステンス生産の行為に注目してきた。すなわち、市場や金銭の介在しない、生活の需要にあわせた労働に注目したのである。いま、私たちにあきらかになったことは、この別の世界観がひとつの社会集団にしっかり共有されれば、現代においてもなお、市場とお金をサブシステンス志向の形にすることができるということである。市場もお金も、どちらも最大利潤追求型経済の闘技場そのものであるのにもかかわらず。
・・・。女性であること母であることは、自然への依存と同様、否認される必要はない。必要なものの領域も、ここでは克服される必要はない。食べ物、飲み物、衣服、頭上の屋根、共同体のなかの広場、これこそがもっとも重要な日々の生活の目標である。この努力こそ、私たちがサブシステンス志向とよんでいるものであり、その日暮らしという通常では貧しさと受けとられがちなものとは、まったく別のものである。 31-35p
===========
アンペイド・ワークとは何か
川崎賢子・中村陽一編
藤原書店(2000年初版)
まず、本の帯風カバーの用語解説から
==
サブシステンス
一般的には、生命の維持や生存のための活動をさし、たとえば「最低生活費保証原則」(subsistence principle) といった用例が見られるが、本書ではK・ポランニー、I・イリイチ、M・ミースらの用法に学んでいる。すなわち、たんなる生命維持や生存にとどまらず、人々の営みの根底にあってその社会生活の基礎をなす物質的・精神的な基盤のことである。イリイチ『シャドウ・ワーク』邦訳では「人間生活の自立・自存」と訳されている。
==
巻頭論文
古田睦美
アンペイドワーク論の課題と可能性
【世界システム・パースペクティブから見たアンペイド・ワーク】
12p-28p
ミースたちは世界規模での本源的蓄積と連続する資本主義的蓄積過程をサブシステンスからの人間の切り離しともとらえるわけですが、グローバリゼーションというのはその最新の局面で、とうそう生命そのものの搾取まで到達した段階ととらえるわけで、その局面での主婦という存在性を国際分業の一環としてみごとにとらえているとおもいます。 26p
フェミニストの世界システム論からのアンペイド・ワーク論への示唆
(1)アンペイド・ワークを捉える際に、単に消費とか家事とかとらえるのではなく、女性の働き方全般の中の一部として捉える。・・
(2)そのとき、生産/消費とか、経済活動/非経済活動、生産的/非生産的活動などという既存の区分を一度取り払ってみる必要がある。・・
(3)アンペイド・ワークを分析する際に重要なのは、労働内容自体だけでなく、それがどのような社会関係、力関係のもとで行われているか、男と女の力関係にも目を向けること。したがって、家内労働や自営農業内部での女性労働を分析する際、分析単位は女性個人の労働とその報酬であるべき・・・。
(4)アンペイド・ワークとペイド・ワークのバランスを是正するときに、先進国的な経済「成長」や景気の「回復」といった、これまでの中心―周辺の支配・従属関係を前提とした概念や哲学の上に、計画を立てても無駄だということ、・
(5)世界システム上の各国の位置の分析とともに、現在起こっている現象の解釈とそれへのがとられなければならない・・・。つまり、ヴェールホフが「未曾有の強制労働の組織化」と呼ぶような、女性のアンペイド・ワークの組織化や、産業の空洞化がドイツや日本で起こってくる必然性を分析し、対処していくことが必要だということ。
(6)主婦化、無権利労働者化、それの最たるものがアンペイド・ワーク労働者化なわけですが、これがサブシステンスからの切り離し過程の延長線上にあるということを認識すること。そうすると、破壊と利潤追求ではなく生命と生活の維持のための「生産」を基盤とする社会への転換――これはなにも難しいことではなく、人間が生きつづけられる社会ということなのですが――、こうした転換とともに現在のジェンダー分業を内包した国際分業の変更、つまりアンペイド・ワークとペイド・ワークのジェンダー分業でもって、主婦が多国籍企業に奉仕しているような現実の分業の是正を考えていく必要があるということです。・・・
。 26-8p
マリア・ミース
グローバリゼーションと<ジェンダー>
【オルタナティヴ・パースペクティヴへ向けて】
29-55p
・・・。
マルクス主義を含めて、私たちの経済の機能に関する支配的な理論はすべて、この氷山の、水面の上に浮かんでいるほんの一角、つまり、資本と賃労働に関心を払っているだけに過ぎないということがわかってきた。この氷山の基盤全体は水面下にある見えざるもの、つまり、女性のアンペイドの、家事、ケア・ワーク、育児、ないし私たちの言い方で言うところの、生命の生産あるいはサブシステンス生産である。
33p
■オルタナティヴ経済の原理
オルタナティヴ・パラダイムにおいては、現在植民地化され、周辺化されている行為者や諸行動や価値が中核におかれるだろう。なぜなら、それらは生命の再生産とその充実の継続を保証するために、中心的なものだからである。資本が頂点にあり、大部分の世界の人々や自然そのものを水面下におくような現行の氷山型の社会では、生命の生産も再生産も不可能である。もし、生命の保持が中心に置かれたならば(生命ないしサブシステンス・パースペクティヴに立つならば)、すべての次元、メカニズムなどは、この目的に奉仕せねばならない。・・・・・。 45p
■生産的労働の新しい定義
貨幣ないし資本を生産するために用いられ、資本家および賃金労働者の労働を意味している生産的労働および生産性という概念は、マルクスによってもまた批判されることのなかった古典経済学理論の最も言語道断な嘘のひとつであると私は常々考えてきた。ところが、子どもを産み、養い、世話をし、慈しむ等々の女性の仕事は、直接に貨幣をもたらさないがゆえに、非生産的であるとみなされている。また、多くの部族や農民のようなサブシステンスのためだけ生産している人々の仕事も同じやり方で評価され、非生産的であると呼ばれている。そのようなサブシステンス生産を破壊し、自給自足的な諸部族や女性や小農たちのいわゆる「非生産的な」生活維持的サブシステンス労働を変えることが、世界銀行のような資本家の国際機関の明確な目的になっている。・・・・。
だが、われわれは生産性の別の意味づけを主張しなければならない。私は、この概念を、女性や諸部族や小農や、生命が、貨幣からではなく、私たちと自然や他の人たちとの相互作用からもたらされることをまだ知っているすべての人々の、生命を産み出し生活を支える労働のために用いることにしたい。貨幣を産み出し、貨幣を増殖させる労働だけを「生産的」であると呼び、生の創造者としての貨幣に奉仕するような見せかけの生活をわれわれは拒否しなければならない。 49p
■「良い生活」の新しい定義
われわれが真に持続可能な、あるいはサブシステンスなパースペクティヴと呼ぶような方向へと人々を本当に移行させるのには、よりエコロジカルに見える生産と消費のパターン――もっともそれは必要最低限のものを満たすけれども――への単なる呼びかけだけでは不十分であろう。必要なのは、良い生活を構成するあらゆるものについての認識と定義を根源的に変えることである。
・・・・・われわれは、幸福と良い生活について、商品の購入に依存しないでそれらを得られるような、しかも自分たちと他者と自然とに対する別の関係の仕方を意味するような、別の定義を必要としている。私は、これを欲求の商品によらない充足(Mies/Shiva1993:p.256)と呼ぶのである。 50p
解題 古田睦美
本論文は、マリアミースによって、1996年の4月にオーストラリアのアデレードで開催された国際会議に提出された論文「経済のグローバル化と持続可能な社会における女性労働」の抄訳・・。
未出版のドラフトでもあり文章的にラフな部分もあった。したがって、ミース理論の射程全体にかかわる部分、オルタナティヴな諸概念や哲学にかかわる部分、女性労働について直接言及されている部分を中心に抄訳することにした。近く、本論文を収録した本がドイツ語と英語で出版される予定である(邦訳、藤原書店近刊)。より完全なものを望まれる読者は、この出版を待たれたい。
(これがまだ出ていません。早く出さないとだめなんですが、・・・)
宣伝から
=== グローバル化の中で、「労働」のあるべき姿を問う! アンペイドワークとは何か
川崎賢子・中村陽一編
一九九五年、北京女性会議で提議された「アンペイド・ワーク」の問題とは何か。単に有償/無償のみを切り口とする議論に異議を表明、シャドウ・ワークの視点から「労働」の本質を俎上に乗せ、サブシステンスの視点からグローバル化の中でのヴァナキュラーな価値の意味を問う、問題提起の書!
主要執筆者/古田睦美、M・ミース、A・リピエッツ、河野信子、北沢洋子、井上泰夫、姜尚中、立岩真也、中村尚司、黒田美代子、スチュアート・ヘンリ、伊勢崎賢治ほか
A5判並製 336頁 2800円
(2000年2月)
===
食糧と女性:フェミニズムの視点から
パルクブックレット7
1998年
に掲載された
「すべての人に食糧を ――食糧安全保障とエコフェミズム」
マリア・ミース
から、結語部分を引用
===
世界の食料保障を達成するための、いくつかの主要かつ必要な点を示そう。
1.商品と現金収入は永遠に成長するという経済教義を、「北」と「南」の双方で、生態系に基づく範囲における自給の原理に変えなければならない。
2.グローバルな自由貿易は、経済活動や地域の食糧生産を決定する原動力となるべきではない。その代わりに、その地方・地域の食糧ニーズを充たすことを農業活動の主な目標とすべきである。食糧分配は、地方や小規模な地域での市場で十分であると考える必要がある。また、これは食糧の「生産」と「生産条件」の整備が、食糧貿易よりももっと中心的な課題であることともつながっている。
3.これは、生産者と消費者が互いを知り、将来に向けて食糧生産の基盤となる生態系に対する責任を互いに分かちあうような地域経済が存在することを意味する。こうした地域で食糧自給を作り上げていくことが重要だ。
4.この地域経済においては、人間が中心にあるべきであり、それは経済が地域社会によってコントロールされていることを意味する。食糧の保障と安全は、利潤を目的とした多国籍企業や、国家を越えた地域貿易圏、WTOや世界銀行、IMFのような国際機関の官僚によっては保障されない。
5.すべての人びとのための食糧安全保障をめざすためには、個人的利益、グローバルな競争、物品と貨幣の永遠の成長、比較優位と「自由な制限なき積荷」、すべてのものの商品化、新しい欲望の創出といった資本家的かつ家父長的な「自由市場」の主要な価値に代えて、これまでのフォーマルな経済の中で目に見えないものにされ、過小評価されてきた価値こそが重視されなければならない。これらの価値は、他の人びとや環境への関心と配慮、協力と相互扶助、生命の保護への関心、充足感と、そして人間関係を大切にすることに根づいた「よい生活」についての新しい概念を含んでいる。こうした経済では、最大利潤を求めるのではなく、自然、女性や子ども、生命の保護が、その中心にすえられることになる。
42-3p
====
「主婦」の向こうに
世界システムの中の女性の位置から
市民セクター政策機構ブックレット(3)
古田睦美
2000年
・・・
日本で三人の本が紹介され、サブシステンスを基盤とする社会を展望すると言われたとき、多くの人々から「それなら江戸時代に戻るのか」とか、「あなたは電気を使わないのか」という反論があり、極端な反近代思想だとか、小さな共同体運動というふうに取られたようです。そうではなくて、ミースたちの言っているサブシステンスというのは、ひとつのパースペクティブ、見方、方向性であると、私は言い表しています。どこにいても誰でも一歩サブシステンスの方向に向かって踏み出すことはできます。
たとえば、労働条件がきつくて、コンビニで環境ホルモンの入ったお茶とお弁当を買わざるを得ないという状況になっている人は、一歩でも前に進み、労働時間を短縮する運動をやっていき、お茶を自分で入れて飲む時間を獲得していくということができればいいのです。されがサブシステンスのパースペクティブだと私は思っています。お金があって時間がない人は、食材を選んで買うことができます。お金がなくて時間があれば、農地を耕すこともできます。いろいろな選択肢があって、どこでもいつでも一歩進むことはできるのです。
44p
===
ここまで読んだ人、ごくろうさまでした。
この記事へのコメント