「水俣病は終わらない」東京集会に参加
18日(日曜)上記の集会に参加してきた。
関西訴訟の最高裁判決以来、水俣現地界隈では劇的な変化が起きているらしい。そのあたりの状況と困難を理解し、全国的な支援をつくっていくことをめざした集会。ぼくは恥ずかしながら、この間の現状をほとんど知らなかった。
この判決後の申請患者の数は4000人
1000人は新しく裁判を起こしているという。
また、医療手帳だけを申請している人もいて、推定1万人もの人が、あの判決を受けて動き出しているらしい。あの判決はそれだけの波及力を持つものだった。
原田正純さんはその積極的な意義を評価しつつも、そこに横たわる困難もまた表現していた。
例えば、その申請した4000人を誰が検診し、判断するのか。
原田さんたちは、これまでの費用と時間ばかりがかかる検診に変えて、機械を使わず、診察室で行える「共通診断書」を用いた診断方法を提案している。
ところで、今日、ここにアップロードしたかったのは、この日の集会アンケートに書いたこと。アンケートは手書きだったが、古いモバギにメモしてきたので、これを、少し整理してここに再録
===
感想
ずーっと考えていることなのですが、今日も患者さんから「こんなカタワにされてしまった」という発言がありました。この問題をどう考えたらいいのでしょう。また、重度の胎児性の患者さんの親御さんで、ご本人も患者さんの父親の方から、自分たちがなくなった後が心配という趣旨の発言もありました。そこから見えてくるのは、水俣の地で「誰もが自分らしく生きていける」社会をつくっていかなければらならいという現実です。
こういう社会をつくるということと、「カタワにされてしまった」という意識の間には大きな溝があると思います。その被害者としての意識、気持ちが理解できないわけではないのですが、そこには、やはり埋めなければならない溝があるように感じます。
水俣のような被害=加害関係が明確な場所で、「障害」にマイナスの価値を貼り付けない可能性はあるのか、あるとしたらどのように可能になるのかを考えつづけたいと思っています。
====
重度の患者さんが少ない人数で生活できる親密な空間を準備できたらいいのに、と思います。例えば、ラルシュ(L'Arche)というグループが世界中でそのような場をつくっています(「知的ハンディ」(ママ)の人が中心ですが・・・)。
日本には静岡に「かなの家」があり、フィリピンには「プンラ」というコミュニティがあります。ぼくはフィリピンのそこに少し関わっていたのですが、そこには言葉による意思疎通も出来ないし、噛んで食べることも出来ない、でも笑顔が素敵な青年がいっしょに暮らしていました。
重度の胎児性の患者さんが、親に頼らなくても生き続けることが出来、かつ、施設とは違う質を持つ生活のための親密な空間が準備されなければならないと思います。
===
「水俣病は終わらない」というキーワードで出てきた興味深いサイト
不信の連鎖 その4 水俣病は終わらない(反米嫌日戦線)
水俣病事件で、何が終わって何が終わっていないのか 遠藤邦夫
(ごんずい43号)
実録・“環境省がやって来た♪”
水俣病は終わっていない
この記事へのコメント
こちらのエントリーで触れた原田さんの発言は、もっとも最近では6/17の化学史学会シンポジウムで述べられました。学会誌「化学史研究」に掲載の抄録にも書かれていますが、シンポジウムでの発言の方がより明快であったように思いました。