「日本語教育のかなたに」読書ノートから
また、読書ノートから
この本、いまサイトで見たら絶版になっている。
もっと読まれる必要があると思う。
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日本語教育のかなたに
――異領域との対話
田中望 アルク 2000年
2004年5月購入、読了
一気に読んだ。すごい力でひきつけられた。
日本語教育がもつ問題点を、あらためて歴史的観点から見なおしてみませんか。そのうえで、これからの日本語教育のあり方を考える本です。論壇を代表する人たちの対論を収録。日本語教育から歴史学、政治学、社会学など広い領域にわたって言及しています。日本語教育関係者や日本語ボランティア、大学(院)生におすすめです
CONTENTS●はじめに●第一章 対話にいたるまで:日本語教育の硬直性/戦前と戦後に通底するもの/日本語教師が背負う政治性/セルフディスエンパワーメント●第二章 対話という語り:「言語」ではなく「語り」として/記憶は言語で語れるか/「不在化」させられる人たち/それでも語る●第三章 対話集対話:花崎皋平/安田敏朗/川本隆史/小熊英二/鄭 暎惠/駒込 武/イ ヨンスク/長志珠絵/西川長夫/井上達夫/小森陽一/春原憲一郎/姜尚中●第四章 対話をふりかえって:「理解すること」と「受け入れること」/マイノリティの「内在性批判」/母語のこと/ケアとしての日本語教育/直接法の問題性●第五章 言語多文化主義とは:相手の呼びかけに耳を傾ける/根源的な受動性/多ディスコース主義/すっと立つ●第六章 日本語を教えるということ:力能化する日本語教育への疑問/海外の日本語教師への疑問/教師と学習者の関係性/他の言語の犠牲の上に成り立つ日本語/真の多文化主義とは/母語ではなく母語として/言葉を持つことの重圧/言語の共同体の持つ差別性/哀しみからはじまる日本語教育●おわりに
花崎皋平/アイヌ文化振興法から多文化主義を考える
安田敏朗/戦前・戦中・戦後の日本語教育に通底するもの
川本隆史/「ケアの倫理」と日本語教室
小熊英二/多文化主義の歴史から考える日本語教育
鄭 暎惠/「物語り」としての日本語教育
駒込 武/学習者を「日本人化」させないために
イ ヨンスク/韓国と日本の狭間で考える日本語教育
長 志珠絵/国民国家形成における日本語
西川長夫/さまざまな文化の形
井上達夫/多文化主義と他者へのかかわり
小森陽一/日本語の過去・未来・現在
春原憲一郎/これからの日本語教育のあり方
姜 尚中/日本にとっての「多言語主義」
===抜きがき==
・・・植民地化し、相手を抵抗できない状態において、最後は言語、つまり日本語による暴力をふるう。現在の、アジアからの外国人女性たちにむかって、日本人がとっている身振りは、それとまったくかわりがないように思う。
敗戦まで、日本語教育は植民地化政策にかかわった。戦後、日本語教育はかわったといわれ、関係者は、わたしもそうだけれど、戦前とはまったくちがった姿勢で日本語教育に対してしてきたように思ってきた。しかし、いまアジアからの外国人女性たちとかかわってみると、日本語教育はアジアからの外国人女性たちの植民地化に加担しているし、日本語を暴力として使うことを許すように働いているとしか思われない。すくなくとも、日本語を暴力の道具として使うことに、はっきりとした抵抗をしめした形跡が日本語教育のなかにあるかどうか。
・・・多くの日本人は日本語を母語にしているという。あるいは、・・・日本語をある言語を「母語」として「もつ」という。ある言語をあたかも自分の領有物であるかのように考えること、しかもそれが自然にあたえられたもののように扱うこと、そこに問題はないか。そして、・・・母語としないひとびとに日本語を教えることだというのが一般的な理解である。この「母語」という考え方には大きな問題がはらまれているように思う。そのことがこの「対話集」のなかで自問してみたかった第一のことである。
11-12p
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<日本語を暴力として使うこと>とはどういうことか?
<現在のアジア人女性への身振りと植民地化確かに似ている。しかし、まったくかわりがないというのは違うのではないか。
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学問性を確立しようとする結果、その学問は、ある時期、とても閉鎖的なかたちをとる。そこでは、科学的な客観主義、データ中心主義が蔓延し、・・・みずからの存立基盤を批判的に問うような観点は見られなくなる。
日本語教育もいまそのような状況のもとにいるように思える。確かに、学会誌・・「論文らしく」・・、しかし、いったい・・・学習者をデータとすることそのこと自体にどういう問題があるかとか、そもそも外国人に日本語を教えるということがどういうことなのか、といった問いは、ほとんど問われることがない。17p
学問領域として認知されることが、・・・外国人に日本語を教えることそのものの問題性を問う必要を感じなくさせてきたのではないか。
この対話集では、日本語教育の世界のこうした硬直性をこわすため、できるだけ日本語教育の存立基盤そのものにかかわるような問題を考えている日本語教育以外の領域のかたがたに、対話の相手をお願いした。18p
帝国主義的メンタリティとアジア蔑視
日本語教育についても、わたしが日本語教育の将来を托そうと思っている言語多文化主義からの鍛えなおしという方向性を考えたときに、そのもっとも大きい障害になるのは、このふたつだろう。22p
国民国家によって線引きされた現代の世界に生きるわれわれは、国家と自分を切りはなして個と個との交流をおこなえるものだろうか。 25p
第三章の対話を企画するにあたってまず考えたのは現在のわれわれにあるアジア蔑視と帝国主義的メンタリティ、それはほとんど無意識的になっており、多くの人がそんなものをもっていないと考えている。そういう心性を解体するために、過去の歴史を学ぶこと、とくにそれが根源的にかかわっている日本語(国語)と日本語教育のたどってきた道をふりかえることであった。 28p
・・。日本語教育を多文化主義、とくに言語多文化主義の観点からとらえなおすことがこのところわたしのテーマになっている。
多文化主義は「共生」と基本的な考え方は同じだが、たしかに徐さんがいうように、「共生」はこのとこころ手がるに使われすぎている。自分の力関係のうえでの位置どりを反省的にとらえなおすことをしないで、カッコに入れたまま他者との友好を考えるような「共生」、あたかも現状の日本社会に多文化共生社会が実現しつつあるような見方から、自分を切りはなすために、ここではあえて、ややかたい感じをもたれるかもしれないが、「多文化主義」ということばを使いたい。29p
田中:文化振興法の「文化」と二風谷ダム裁判判決の中の「文化」とでは意味が違うのではないですか。
花崎:それは重要なご指摘です。振興法でいう「文化」は、歌や踊り、言葉など、いまや死滅しそうな一種の「文化資源」・・・、ダム裁判判決の場合には「土地そのものに含まれている文化」も含めた、生存に結びついているものと捉えています。63p
<<サブシステンスに含まれるものとしての文化>>
花崎:・・・日本語を学びたいという要求そのものはあるわけですよね。
田中:・・・。
しかし、それはかなりつくられた同化的な枠組みでのニーズであり、それに対応して日本語は教えられていると思うんです。65-6p
田中:多文化主義といった場合、異なる文化のあいだの接触が大事ですね。・・・。アイヌの民族学校の問題や外国から来た女性たちの問題も、その人たちだけのアイデンティティの問題にしてしまうのはむしろ危険なのではないか。日本人や、周りの人たちとの関係性をつくっていくということが非常に大事だと思うのですが。
花崎:・・・。そのように関係性を開いておかないと、閉じた民族主義になってしまって・・・。閉じた民族主義を破っていくためには、生きる場の文化としての多文化主義を切実に必要な問題とするあり方や意識をつくりたいですね。・・・。
田中:他者との関係のありかたということでは、花崎さんは以前から「理解するのではなく丸ごと受け入れる場所を自分の中につくる」という発言をなさっています。それから「人間は本来受動的なものである」ともおっしゃっている。これは多文化主義、あるいは共生というときに、お互い閉じてしまわないための非常に重要なポイントだと思うんですが。
花崎:・・・カンボジアで・・・。豚の絵・・・。受動性の持つ積極性・・。逆に「理解するのも、ほどほどにしないと、暴力的になって自分の理解の枠組みに入れ、入れ」っていう感じがあります。68-9p
田中:いま日本語教育の中で教えている日本語は「・・・理解させるための言葉」であって「人と人の関係を作るような言葉」になっていないような気がするんです。地域社会にいる外国人の女性たちは、たしかに日本語を習得したほうが周りの日本人と話ができるという面はあるんですが、日本語を身につければ見につけるほど、日本社会が持っているいろいろな力の関係に同化されていくようになってしまう。それよりは、とにかく何かやる。それはごくごく日常のつまらないことでもいいんだけど、そこでは、最初は言葉はなくてもちゃんとコミュニケーションができる。親密さというものが、まず確立できる。そこから言葉は後でくっついていったほうが・・。71p
安田:・・・日本語を母語としない人たちに対する教育と考えれば、日本語教育の発生というのは、植民地の領有と不可分なわけです。・・・。・・・。戦争が終わり、植民地下の国語教育としての日本語教育は終結するわけですが、戦時中にあった日本語教育は悪で、現在の日本語教育は善であるとは、簡単には言い切れないように思います。方言を排除し、植民地の言葉を抑圧してきた過程で成立したのが日本語教育なわけで、それといまの国際交流の中で行われている日本語教育が全く違うとは、言い切れないのではないでしょうか。
田中:・・。戦争が終わったときに、戦時中の日本語教育が支えてきたものを一度明るみに出して、意識的に構築し直してはいないし、その基底の部分は生き残って、いまの日本語教室の見えない底のところを流れていると思います。そして、日本語教育の中では、それを皆が考えなくても済むような「装置」が作られているように思うんです。80-81p
*国民国家と国語の成立
安田:・・中国からの帰国者や家族に対しても「あなたは日本人なんだから」といことで母語化を図るというのであれば、これは、戦前・戦中と変わらない同化政策ですね。84p
安田:・・・そもそも「言葉を教える」ということが政治的に中立であり得ないということを日本語教師は認識すべきだと思います。・・・89p
田中:「ケアの倫理」は・・・「新・哲学講義6 共に生きる』で、わかりやすく、・・・・・。私は日本に定住する外国人の問題をケアの倫理の中に位置づけられたらと思っています。
川本:「正義の倫理」に登場するのは、自己決定能力を有した独立の権利主体と、彼ら/彼女らの申し立てを裁く公平・中立な裁判官です。これに対して「ケアの倫理」の基調は「すべての人が他人からこたえてもらえ、仲間として認められ、だれ一人として除外されたり、傷つけられてはならない」という命令にあります。96p
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ハインツのジレンマ 薬局でどろぼうするかどうか?
セルフ・ディスエンパワメントっていうのはうそくさいと思う。
ひとりひとりが存在していることの尊厳、そこに注目し、それを重んじることと、ここで言われているセルフ・ディスエンパワメントには何か違いがあるように思う。むしろ、「人間存在の低みに立つ」というような言い方のほうがすっきりする。自分も含めて誰もが「ちょぼちょぼ」っていう感じが必要なんじゃないかと思う。
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