健常者という立場(「平等派でもなく差異派でもなく」石川准『障害学を語る』収録 メモ)

昨日書いた


リボーさんからコメントをもらった。感謝感謝。参考文献と石川准という名前だけで推測したわたしが愚かでした。

リボーさんからのコメント再掲。

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引用されてる石川さんの文章、『障害学への招待』ではなく『障害学を語る』からですね。第2章「平等派でもなく差異派でもなく」の結びの一文。原文はですます調なので、このあとに「と思います」という語がついてますが。

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とのことで、うちの本棚から取り出してみた。

この本、黄色がベースで背文字は白抜きになっているのだけれども、黄色のインクの色が飛んで、背文字はほとんど見えなくなっている。


そんなことはともかく、この石川さんの文章を読み返してみた。

これもけっこう面白い。読んでたはずなんだけど・・・。忘れやすいぼくはこんな風に同じ本で何度も新鮮な経験ができる!!


この第2章の最後の小見出しは

「■健常者という立場」

ここはこんな書き出して始まる。
 障害者の生き方をめぐる言説について話してきました。しかし、一番重要なことはまだ触れられていません。それは健常者のことです
そして、以下のように続ける。ここも自戒をこめてメモしておいたほうがよさそうな気がしたので、タイプしておこう。
 なぜ障害者の生き方が、あるいは障害者の生き方だけが語られるのでしょうか。克服か肯定か、同化か異化か、障害者というアイデンティティの引き受けか拒絶か、そうしたことが語られ、障害者としての正しい生き方が追求される一方で、健常者は無傷なままで、健常者という立場を屈託なく享受しているのだとしたら、何が「アイデンティティの政治」でしょうか。健常者は障害者という「他者」と本当には出会っていません。健常者が見ている者は健常者が捏造した障害者です。健常者は障害者とは出会っていないのです。そしてそのことに気がついていません。ひたすら無知なままです。

 (中略)

 本来、自己の立場を忘却できる立場にあることの特権性、暴力性を暴き、揺さぶり、そうした非対称性を壊していくのがアイデンティティの政治であるはずです。障害者に感情移入して共感したり、感動したり、激励したり、庇護したり、憐憫したり、知ったかぶりしたりする健常者に、そのような「余計なこと」をする前に、自己のあり方を相対化し反省することを迫るような言説を紡ぎだしていくことが障害学には求められていると思います。
石川さんがここで、「なぜ障害者の生き方が、あるいは障害者の生き方だけが語られるのでしょうか。」と設問することに関しては、「石川さんだって、この文章でここまでさんざんそのことだけを語ってきたじゃないか」というゆうようなつっこみを入れたくもなるが、まあ、それは置こう(笑)。

 この短い引用の中で石川さんは「出会っていない」と2度繰り返す。石川さんは、「出会っていない」のは「健常者という立場を屈託なく享受しているのだとしたら」と留保付きで語る。しかし、健常者という特権性に気づいているような気分を持ちつつ、やはり「健常者という立場」を屈折しながらも享受しているぼくは、「本当に出会っている」と言えるだろうか。「本当に出会う」というのはどういうことなのだろう。というようなことを考えるための「言説を紡ぎだしていくことが障害学に求められてる」と石川さんも言っているので、もう少し考えてみようと思う。(とか書きながら、いつも中途半端でおわるんだけどね)



P.S.
 そう、こんな風に書いていると、障害学はポスト・コロニアルなんだということにあらためて気がつく。試しに「障害学」「ポストコロニアル」でグーグルしてみる。

「ポストコロニアルのろう文化――サバルタンはどこにいるのか」というテーマで森 壮也さんが2004/10/30に障害学研究会関西部会第22回研究会 で発表してる。

この記事へのコメント

岩橋
2025年03月14日 13:32
まいにち出会っていると言えば出会っています。
そして、様々な想いが揺さぶられています。
しかし、
それを語る時、聞く側に求めるのは、聞くにとどまらず自身が出会うきっかけにして、出会った結果を様々な立場で出し合いたいと願います。
「何が本当の出会いか」なんてどこまで行っても解らないのですが、自分の暮らしの場に「障害者」と称される人たちがあたりまえに存在しない現実の方が気になります。
そして、とにもかくにも出会った人との関わりが閉ざされようとする事の現実と向き合う気になる事が大切かと思います。

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