『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その3補足(16年後の追記あり)

50pから始まる仏教経済学というエッセイ(1968年)の55pまでのメモを その3で書いた。今回はその補足。前回、55pまでのメモを書いたつもりだったが、その前に仕事と機械化に触れた部分についても触れたくなったので補足として書く。

メモ3で紹介した労働について述べている部分の中で機械で労働を代替することに触れている。
現代の経済学では労働は単にコストなので、機械に代替して労働を減らして、コストがカットできればそれでよいとされる。(最近はそんなに単純なものばかりではないかもしれないが、基本は変わっていないだろうし、新自由主義の立場は明確にそういうことだろう。)

それに対して、仏教徒の立場からは機械化には二種類あるという。

第一は人間の技能と能力を高める機械化

第二は人間の仕事を機械という奴隷に引き渡し、人間をその奴隷への奉仕者にしてしまう機械化

現代の経済学が示す文明の確信は欲望を増長することであり、仏教経済学の核心は人間性を純化すること。そして、その「人間性はおもに仕事を通じて培われる。自信をもってのびのびと仕事をすれば、仕事をする当人とその作物はすばらしいものになる。」とシューマッハは書く。53p

==16年後の追記==
ここでの「仕事」の原文はおそらく「ワーク」(原著にあたってはいない)。このワークを「仕事」と訳す注が必要なのではないかと感じた。「ワーク」には「作品」というような意味もある。だから、「人間性はおもにワークを通じて培われる」という話であり、このワークは食べるための労働だけでなく、その人の生きる力を発揮できる場所という風に広く捉えたいと思った。もちろん、主要な意味は通常の労働と解すべきだろうが、一般的な意味で言われる「ワーク」につけない(就労できない)人もまた、「人間性はおもにワークを通じて培われる」と考えたい。
~~追記ココまで~~

そんなに単純かなぁと思うのだが、シューマッハはこのエッセイの中でこの点について、インドの哲学者、J・C・クマラッパを援用して説明する。
 仕事というものの性質が正しく把握され、実行されるならば、仕事と人間の高尚な能力との関係は、食物と身体の関係と同じになるだろう。仕事は人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出すように促す。仕事は人間の自由意志を正しい方向にむけ、人間の中に住む野獣を手なずけて、よい道を歩ませる。仕事は人間がその価値観を明らかにし、人格を向上するうえで最良の舞台になる。
こんな風に仕事を定義するための条件リストがいっぱいありそうな気もする。どのようにこんな風に仕事を再編成できるのか、その方法が提示される必要があると思うんだけれども、それは可能だろうか。



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