『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その4
50pから始まる仏教経済学というエッセイ(1968年)の55p以降のメモ
この中で経済学者とされているところは原文ではエコノミストなのだろう。このあたりにもすこしずれがあるかも。
「仏教経済学の基調は簡素と非暴力」
「経済学者の観点からみて、仏教徒の生活がすばらしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段でもって十分な満足を得ていることである」 55p
こんな風に見られる仏教徒が世界にはどれくらい残っているかと考える。60年代のビルマではこのように見えたのだろうか。
しかし、仏教徒に限らず第三世界の農民の質素で豊かな暮らしは侵食されつつあるとはいえ、まだ少なくない地域で残っているようにも思うが、実際のところはどうなんだろう。
「多く消費する人が少なく消費する人より『豊かである』と考えるのが現在経済学者」(GDPでものごとを計るというのはそういうことだ。金銭に換算される生産は必ず消費を伴う。)、年間の消費量を豊かさの尺度にするこの方法は、仏教経済学者にいわせれば、たいへん不合理。「そのわけは、消費は人間を幸福にする一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである。」
「適正規模の消費は、比較的に低い消費量で高い満足感を与え、これによって人は圧迫感や緊張感なしに暮らす」
そうかもしれないと思うものの、他者より少ない消費では充足感を得られないような社会が存在する。というか、何が適正規模なのか見えずに「もっと、もっと」というコマーシャルに煽られ、もっと**なのが適正だと思えてくる。
消費が少ない方が美しいと思えるような価値観の再生。本当に必要なものを見分ける力。そういうことが求められていると思うものの、消費主義のキラキラした魅力は確かにある。そのバカバカしさに気付くこともあるが、乗せられることも少なくないだろう。
「必要」というのを生物的な生を維持することに限定するのはあまりに寂しい。それ以外にも肯定したいいろいろな欲求がある。いろんな楽しみがある。どこまでの欲求を満たすことが必要なのか、その基準を以下のように考えた人がいる。
「その欲求を満たすことは、世界に適正な配分が行われると仮定したら、それを求める人すべてにいきわたるような資源で足りることなのかどうか」
というようなことだったと思う。誰が言ってるか忘れたが、ぼくは横山正樹さんから聞いた。(今度会ったとき、誰が言った話なのか聞いておこう。)
・・・。自分の必要をわずかな資源で満たす人たちは、これをたくさん使う人よりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会の中で高度に自給自足的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも、戦争などに巻き込まれることがまれである。そこで仏教経済学の見地からするならば、地域の必要に応じ、地域でとれる資源を使って生産をおこなうのが、もっとも合理的な経済政策ということになる。遠い外国からの輸入に頼り、その結果、見知らぬ遠い国の人たちのに輸出品を送りこむために生産をおこなうといったことは、例外的な場合、またごく小規模な場合はともかくとして、きわめて不経済なことである。」57p
そして、シューマッハは仏教経済学と現代経済学の違いを天然資源の使用にみる。そこで、フランスの政治哲学者ベルトラン・ド・ジュヴネルを援用する。
西欧人は人間の労力以外のものを支出とは認めようとしない。鉱物を、もっと悪いことには生命あるものをどれほど浪費しているかを気にかけているとは思えない。人間の生命というものが、さまざまな生命からなる生態系の一部だということを理解していないようである。世界は都市の支配下にあり、その都市では人間が他の生命から切り離されているので、生態系の部分であるという感覚が戻ってこない。そこで、水や樹木のような、人間が究極的に依存しているものが、手荒で軽率に取り扱われている。(7)
1968年の段階でこのように明確に言われていたという事実に驚いて、この原注(7)を見る。
Richard B. Gregg. A Philosophy of Indian Economic Development Navajivan Publishing House Ahmedabad, 1958 pp.140-141
とある。これが事実だとしたら、1958年の本からの引用ということになる。俄かに信じられないような話だ。今度、誰かに頼んで調べてもらおう。
しかし、読み返すと、なんと密度の濃いエッセイなんだろうと思う。やっと58pが終わったところだ。今回のメモで4p分しか進んでいない。
まだまだ読書メモは続く。
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