<帝国>読書メモ 8 (2-3 植民地主義)
先日書いた 「<帝国>のローカリゼーション批判」が「読書メモ 7」だったのに番号を振り忘れた。
前回の読書会はKさんがチューター。これも面白かった。この本はこんな風にネタにしながら読むのが正しい読み方じゃないかと思えてくる。
そこで出された話題で喚起されたこと。
この節で、ネグリ・ハートはマルクスのインドを例にした植民地主義批判を紹介した上で、その限界にも言及する。
こんな風に書いている。
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ここでマルクスの想像できた唯一の「もうひとつの選択肢へと通ずる」道は、ヨーロッパ社会がすでにたどってきたものと同じで道であった。マルクスはインド社会がそれと異なっていることにも、異なった潜勢力をもっていることにも、まったく気づいていない。こうして彼には、インドの過去は空っぽで停滞的なものにしかみえていない。
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こんな風に書かれているが、彼らは例えばインド社会の潜勢力をどう見るのだろう。
先日ぼくがここに引用したネグリ・ハートのローカリゼーション批判
確かにそこで書かれているように、「諸々の社会的関係と社会的アイデンティティを固定化しロマン主義化へと退行してしまいがち」というのはよくわかる。そういう危険があるというのはローカリゼーションを標榜するものが持たなければならない自覚だろう。マルクスも書いているように封建的なインド社会を防衛したいわけじゃないのだから、ローカルを口にし、江戸時代を持ち上げるものは、そのことを十分に留意すべきだろう。
しかし、「資本と<帝国>のグローバルな流れの外部に存在し、また、そのような流れから保護されているようなローカルなアイデンティティを(再)確立することができると主張するのは、間違った振舞いなのだ。」とまで書かかれると、「それは違う」と言いたい。資本と<帝国>のグローバルな流れの純粋な外部ではいられないとしても、そうではない社会関係が形成可能でなければ、めざすべきものはないではないか。現在、完全な形でそれを実現できないとしても、新しい社会関係の中で、ローカルが持っている潜勢力を実現しようとするプロジェクトはありえると思う。資本と<帝国>ではない社会のありようを示すパイロット的なプロジェクトをもっとたくさん作る必要があるのではないか。
もちろん、それはいまある資本と<帝国>の構造を問題にしなければ、ネグリ・ハートが批判するロマン主義に陥り、結果として資本にからめとられることになる。そうではないプロジェクトが構想されなければならない。それらのローカルに軸足を置いたプロジェクトが資本と<帝国>の支配を裏返すベクトルの中に明確に位置付けられる必要があるのだと思う。
そういう意味で、ネグリ・ハート自身はここでマルクスに向けたヨーロッパ中心主義という批判を自らにも適応すべきではないかとぼくは思う。
他にこの節で気になった部分。
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奴隷制と隷属労働からなる体制が資本制生産と発展に内在的であるという私たちの主張は、労働する主体が指令(コマンド)の関係性を逃れようとする欲望と、資本が人口を固定された領土的境界のなかに閉じ込めようとする企てのあいだにある密接な関係性に注意を向けるものである。167p
マルチチュードの脱領土化の欲望こそが、資本主義的発展のプロセスを駆動するモーターなのであり、資本はたえずそれを抑えこもうと試みなければならないのである。168p
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例えば日本社会は「研修生」という名の奴隷制を現在も保持したままだ。それは資本制生産の中に明確に位置づいている。また、現在の中国の資本主義的発展のプロセスもマルチチュードの脱領土化の欲望と資本の押さえ込みをかなり明確に示していると言えるかもしれない。
来週の読書会は「間奏曲」、まだ読んでいない。
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