『「心の専門家」はいらない』(1章)読書メモ

これもずっと気になっていた本


「心の専門家」はいらない

小沢牧子 著  2002年 洋泉社



いろいろあって、気になる「こころの専門家」

精神科医だって「こころの専門家」なんだろうけれども、ここで問題にしているのはカウンセラーと臨床心理士。まだ途中までしか読んでいないけれども、納得したり、そうかなぁと思ったり。


以下、1章についての


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日常の関係に目を向けることを避け、「心の専門家」に依存し、そこに救済願望を託す「心主義」と言いたくなる傾向に対し、長年、臨床心理学の問い直しに携わってきた著者が、この学問の何が問題かを白日の下にさらす。

「相談という商品」を「一緒に考え合う日常の営み」を取り戻す道を探る試み!

(本のカバーの袖の文章)

最後の1文は日本語として少しおかしくないか?


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かつて悩みの解決への方法は、時間をかけて考えることであり、生き方の見えているまわりの人のなかに相談相手を探し、時の力を借りることであったが、いま人びとは問題に手早く決着をつけるための助言または指導そして記号を、「心の専門家」に期待しているように思われる。  33p

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確かにこれは正論だと思う。だけど、かつての方法が選べないような社会になっているのではないか。苦しくて、手早く決着をつけたいと思うのは自然なことじゃないのか。手助けがあれば、それに飛びつきたい。実際、そんな苦しい思いをカウンセラーや心療内科に助けを求めることができる人はそんなに多くはないのではないか。


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・・・「それでいいと思う」は「自分で決めていいと思う」の意味にもとれるが、もし、そうであっても、上からの許可であることには変わりはない。それは自己決定を装った、支配の一形態である。・・・屈折した「援助」、やさしく巧妙な管理技法と述べる所以である。 35p

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 ■自助努力への圧力

 カウンセリング願望の背景には、極限化する情報・消費社会を浮遊する個人の、よるべない心情が存在している。この心情は・・・宗教とも独裁性とも結びつくものであろう。透明なカプセルに一人ずつ閉じ込められ外から値踏みされているような気分が、世の中を支配している。自助努力、自己責任、個性の育成、規制緩和、自由競争、グローバリゼーション、まして負け組勝ち組などの言葉は、むきだしの能力主義の進行を意味している。

 このような社会背景と関連しているのであろうが、学生たちの・・・「自分らしさの発見」

 (長い省略)

 ・・・わたしからみれば、「言いたいことが言えない自分」も「他人の影響を受けやすい自分」もまぎれもない自分、いろいろあってこその自分、みんな似たりよったりではないか、そんなものだよ、と思うのだが。

「ほんとうの自分さがし」の流行には、人間が相互の関係の中で生きているという観点が欠落している。カウンセリングが「ほんとうの自分」を発見させてくれるという幻想的な自分観は根強い。・・・。

「ほんとうの自分」という幻想を追いかけるのは浅はかだ、ともし「心の専門家」たちが彼らに悪口を言うとしたら、それは自分勝手に過ぎる。なぜなら「心の専門家」自身が、この種の人間観を広めてきたからだ。たとえば大学生向けのテキスト・・・「カウンセリングはどのようにして現代の人間疎外に対処していけるのでしょうか」と問いかけ、「抑圧されている真の自己の再発見」や「・・・」と「ほんとうの自分」概念を強調・・・。 39-41P


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 金銭で買わない、または商品化をためらってきたものが、ほんの少しだけ残っていた。それはわたしたちの生活の核の部分、つまり自分たちの気持ち、感情、また身辺の人びととの関係の領域だった。性もそこに含まれる。足もとにほんの少し残る乾いた砂地、そこに波が及ぶことによって、わたしたちはまるごと運び去られ浮遊することになるだろう。

「生きることは選び買うことなり」の事態の完成である。その事態を歓迎するのかどうか、最後に残る足場で、十分に考えあわなければならない。わずかに残る乾いた土があれば、それをふみ固め、できることならふみ広げたいと願う。 46-47P

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・・・叩いてしまったり抱きしめたり、怒鳴ったり甘やかしたり。子どもに一貫した態度などとれないものだ。・・・。いろいろな親があり、子にとって迷惑な親でもそれは如何ともしがたく、ただ、関係が閉ざされてさえいなければ、大概のことは折り合いがつく。親子の関係はいつの時代も、そんなものであったろう。  49P


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 専門家・行政に生き方や生活を預ける危険・・・。日常の生活の核にある人と人との関係、すなわち近隣や友人知人、親子や夫婦の関係を自分たちで引き受けていくかわりに、引き受け先に手軽にゆだねようとすることの問題である。

 関係をどう引き受けていくかは、生き方の基盤であるが、それは手間ひまがかかり模索と工夫と辛抱が必要なものだ。だからこそ自分のもの自分たちのものと感じることができる。しかし人の関係にかかわる領域の引き受け先が出現すると、そこにゆだねる流れができる。しかも専門性の名のもとの「望ましい」方法なのだ。「ラクをしてよろしく生かしてほしい」との願望と、仕事とするからにはそこに応え、しかも顧客を増やそうとする消費社会の法則が呼応して、その流れを加速させる。「正しい親子関係、人間関係」の枠に人びとを管理しようとする行政がそこに加わる。・・・。

 この悪循環をどう止められるのか、そのことがわたしたちに問われている。  55P

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さっきも書いたように基本的に正しいんじゃないかと思える。でも、同時に「ラクをしてよろしく生かしてほしい」っていうのはけっこう自然な欲望でもあると思う。少なくとも、ぼくにはそこへの誘惑は非常に強い。それを超えることなんか本当にできるのかどうか、あやしい。関係を引き受けることは模索と工夫と辛抱が必要なのかもしれないが、それがとても愉しいことでもあるっていう前提がなければ、辛抱だけしていることはできない。


あと、気になったのが関東大震災のときに助け合いがあったというように肯定的に読める記述。そこで在日の人たちがどんな目にあったかということを抜きに、こんな風に書かれると、やはり違和感は拭えない。



この記事へのコメント

めんへら1号
2008年05月24日 14:30
自分のことを自分の声で話す、それを自分の耳で聞く・・・というプロセスが大事というような説もあったような・・・「こころ」ではなく「脳」の反応ということかな?
tu-ta
2008年05月25日 01:00
めんへら1号さん、コメントありがとっ!
「自分のことを自分の声で話す、それを自分の耳で聞く」、そういう風に自分のことを、できれば仲間のなかで、っていうのは大切なことだと思います。

この小沢さんの「専門家」否定、カウンセラーといっしょにギリギリなんとか、いまをしのいでいる人には、説得力がないかなぁと思ったのでした。総論として、社会を問題にし、日常の関係を大切にするというのは、その通りだと思うのですが。

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