<空気を読むな(続)> 下河辺牧子
牧子さん(オザケン母)の話が続く。
この前に紹介した『「心の専門家」はいらない』を書いた小沢牧子さん。ちょっと違う名前で『子どもと昔話』の連載コラムを書いている。この雑誌に「うさぎ!」が連載されていて、編集発行は小澤昔ばなし研究所。編集長は小澤俊夫。つまり彼が作って記事もたくさん書いてる雑誌に息子と妻が連載してるわけだ。すごい家族。
さて、ここで紹介するのはこの牧子さんの連載。第35号の「子どもたちのいるところ 33」は、<空気を読むな(続)>
某巨大SNSサイトのこの雑誌に関するコミュニティに牧子さんに関するトピックがあり、そこでこの号のコラムが話題になっていたので、ちょっとコメントした。このコメントをただ転載するつもりで書き出したのだが、少しつけたしたくなったので、付け足したのが今回のブログ記事。
前号のこのコラムを読んでいないのだけれども、彼女は前号で「空気なんか読むんじゃない! 情けないよ」とオバサンの一喝を込め、そこでKYにはパワーを持つものが望んでいる空気を読めというメッセージが込められているのだと読み解いたという。この号ではそれは人の気持ちを察するというのとはちょっと違うと書く。
==
「空気を読む」には屈折した意地悪が匂うが、「察する」には控えめなやさしさが漂う。
==
と書いている。そして、さらに、察する力もかけがえのないものだと断った上で、こんな風に書く。
==
ただ「察する」は、とかく「迎合」や「卑屈さ」に転化しやすい。転化し堕落してしまった言葉、それがいまの「空気読め」の流行なのではないか。
==
そうなのかと思いつつ、ぼくがなんとなく書き移す気になったのはこのコラムの結語部分。
結語部分をちょっと引用
===
わたしは若いころいつも「まだ人との関わりかたがうまくできなくても当然。年上の人たちの作法を、良くも悪くも見覚えていけばいいんだ」とのんきに思っていた。失敗も山ほどしながら・・・覚えていった。現在と何が違うかといえば、見覚え聞き知る機会が身の回りにたくさんあったこと、そして「まだ若いんだから出来なくていい」が自他ともに許されていたことだ。だから未来に希望があった。おとなになっていく楽しみもあった。現在はその自然さが失われ、若い人も「いま出来なくてはいけない」と強く思わされている。かく言うわたしも、ときにその短気に加担してしまうこともあるけれど。
でも、そんなことはない。見覚えながらゆっくり年を重ねればいい。わからなければ信頼できる誰かに聞けばいい。若い人が希望をもって対等なつながりを増やしていける、そんな世の中をめざすこと。それがいま、わたしたち年長世代の最大の責任だ。まずは大きく窓を開け、胸いっぱいに空気を吸って、ゆっくり換気を始めたい。
===
そう、ほんとうにそう思う、ぼくももはや年長世代のひとりとして。
でも、日常ではなかなかこんな風に振舞えないかなぁ。とりあえず胸いっぱいに空気を吸ってみよう。
だけどね、ぼくも、もう50歳に近いいまだからゆっくりでいいんだよねっていうようなことが言えるけど、なかなかそれを若い人に伝えるのは難しい。昔若者だったぼくだってその頃はあんまりそんな風には思えなかったんじゃないかなぁ。まあ、なかなかわかってもらえなくても言い続けるしかないのかな、とも思う。
この前に紹介した『「心の専門家」はいらない』を書いた小沢牧子さん。ちょっと違う名前で『子どもと昔話』の連載コラムを書いている。この雑誌に「うさぎ!」が連載されていて、編集発行は小澤昔ばなし研究所。編集長は小澤俊夫。つまり彼が作って記事もたくさん書いてる雑誌に息子と妻が連載してるわけだ。すごい家族。
さて、ここで紹介するのはこの牧子さんの連載。第35号の「子どもたちのいるところ 33」は、<空気を読むな(続)>
某巨大SNSサイトのこの雑誌に関するコミュニティに牧子さんに関するトピックがあり、そこでこの号のコラムが話題になっていたので、ちょっとコメントした。このコメントをただ転載するつもりで書き出したのだが、少しつけたしたくなったので、付け足したのが今回のブログ記事。
前号のこのコラムを読んでいないのだけれども、彼女は前号で「空気なんか読むんじゃない! 情けないよ」とオバサンの一喝を込め、そこでKYにはパワーを持つものが望んでいる空気を読めというメッセージが込められているのだと読み解いたという。この号ではそれは人の気持ちを察するというのとはちょっと違うと書く。
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「空気を読む」には屈折した意地悪が匂うが、「察する」には控えめなやさしさが漂う。
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と書いている。そして、さらに、察する力もかけがえのないものだと断った上で、こんな風に書く。
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ただ「察する」は、とかく「迎合」や「卑屈さ」に転化しやすい。転化し堕落してしまった言葉、それがいまの「空気読め」の流行なのではないか。
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そうなのかと思いつつ、ぼくがなんとなく書き移す気になったのはこのコラムの結語部分。
結語部分をちょっと引用
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わたしは若いころいつも「まだ人との関わりかたがうまくできなくても当然。年上の人たちの作法を、良くも悪くも見覚えていけばいいんだ」とのんきに思っていた。失敗も山ほどしながら・・・覚えていった。現在と何が違うかといえば、見覚え聞き知る機会が身の回りにたくさんあったこと、そして「まだ若いんだから出来なくていい」が自他ともに許されていたことだ。だから未来に希望があった。おとなになっていく楽しみもあった。現在はその自然さが失われ、若い人も「いま出来なくてはいけない」と強く思わされている。かく言うわたしも、ときにその短気に加担してしまうこともあるけれど。
でも、そんなことはない。見覚えながらゆっくり年を重ねればいい。わからなければ信頼できる誰かに聞けばいい。若い人が希望をもって対等なつながりを増やしていける、そんな世の中をめざすこと。それがいま、わたしたち年長世代の最大の責任だ。まずは大きく窓を開け、胸いっぱいに空気を吸って、ゆっくり換気を始めたい。
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そう、ほんとうにそう思う、ぼくももはや年長世代のひとりとして。
でも、日常ではなかなかこんな風に振舞えないかなぁ。とりあえず胸いっぱいに空気を吸ってみよう。
だけどね、ぼくも、もう50歳に近いいまだからゆっくりでいいんだよねっていうようなことが言えるけど、なかなかそれを若い人に伝えるのは難しい。昔若者だったぼくだってその頃はあんまりそんな風には思えなかったんじゃないかなぁ。まあ、なかなかわかってもらえなくても言い続けるしかないのかな、とも思う。
この記事へのコメント
あくまでぼくの場合ですが、自分が「若い人」が短気・性急にならざるをえない状況を作ってきたんじゃないか、という風に思うんですよね。だから、「短気になるな」というメッセージを投げることにためらいがある。
そういう風に相手に言うよりも、自分がほんとうに「ゆっくりしたもの」を自分のなかに作ることを心がけたいと思ってます。そのためには、ある意味では「ゆっくりしてる」だけでは駄目なのでしょうが。
「若い人」(他の人)に「ゆっくりしたもの」を得てもらうために、自分は何をすべきかを、考えていきたいと思います。
でも、そういう違い、ってのは大歓迎なのが、ゆっくり関わる、ってことなのだと思います。
コメントありがと。
Arisanが書いてる「自分が『若い人』が短気・性急にならざるをえない状況を作ってきたんじゃないか、という風に思う」というのはArisan個人の問題ではなくて、時代とそこに包含される自分がということだと読みました。
そう「ゆっくりしようよ」って性急に呼びかけても伝わらないですよね。自分がそれをどう体現できるかという指摘は大切だと思いました。だけど、まず今ぼくが棲んでいる家の中で伝わらないっていう思い現実があります。まあ、ぼくが「ゆっくり」をちゃんと体現できてないからかもしれません。
で、あきおっち
言われてみて、「そうだよね」って、はじめて気づきます。
Arisan&あきおっち
大切なことを気づかせてくれて、ありがとう。
大切なことに