『暗闇のなかの希望』読書メモ その4(とりあえずここまで)
もうそろそろ終わりにしようと思う。この『暗闇のなかの希望』読書メモ。とても短くて量もすくない本なのに琴線に触れるものはたくさんあった。結論も問題意識もとても近いものを感じている。
前回の読書メモ3
では、「171pあたりを次に書くつもり」と書いたが、そのまえにちょっとメモしておきたいと思ったのが、以下。
去年、武藤教室で読んでいたホロウェイの紹介のあとに書かれている。 David Solnit, introduction to Globalize liberation の草稿からの引用と注にある。たぶん、本になった段階でのタイトルは
Globalize Liberation: How to Uproot the System and Build a Better World
アマゾンには以下のような書評も掲載されている。(はじめの方だけ転載)
GLOBALIZE LIBERATION is a fine compendium of writings by and for global justice activists, or just activists generally. With 488 pages and 33 chapters, full of great black & white photos and drawings, it is a veritable encyclopedia. The book is divided into 3 sections:1) What's the problem? (political analysis)2) How to change things (tactics and strategies for change), and3) Ideas in action (examples of various movements).The editor, David Solnit, is a Bay Area activist with long years of experience, going back to the Bay Area Peace Test of the late 1980s. He was a key organizer of the successful nonviolent shutdown of the WTO (World Trade Organization) meeting in Seattle in November/December, 1999. Solnit works as a carpenter in Oakland, enough to keep him on the frontlines of a constant stream of NVA (nonviolent direct action) campaigns. In his editor's note, he says:"As a carpenter, I have packed this book like a toolbelt, with the most useful and practical tools: ideas and understandings of how to uproot the system causing our problems and build a better world... ...This book is a resource, but does not offer a repeatable blueprint, roadmap or recipe for the changes our planet so desperately needs."
ソルニットって珍しい名前なんだけど、著者の関係者なのかなぁ?(と思ってたら、あとがきに、わたしの兄デーヴィッドと書いてあった)
ともあれ、この本で引用してあるのは以下
「選挙によってであれ、叛乱によってであれ、権力の座を奪取するという考えは、革命の目的が権力関係を根本的に変革することであるという肝心な点を忘れている。国家を焦点に据えず、また権力の地位に到達することを目標に置かず、世界の変革を目指す、Do It Yourself 行動の広大な領域がある。改革と革命とを区別する旧来の認識は、だれが国家を統制するかという問題が焦点でないという理由だけでも、もはや無意味である」 166p
権力ではなく、権力関係の変革をめざすというこの立場、理念としてはわかる(ような気がする)。じゃあ実際にはどうなのか。権力関係が変革した小さな場所をたくさんつくっていくということになるのだろうか。
また、権力関係を変革する手段として権力をとるという立場もあるだろう。ラテンアメリカの社会運動と深い関係を持った大統領たちは、そのあたりのことをどう考えているのだろう。チャベス政権が自律的なバリオを形成するスペースを準備した、っていうようなことを廣瀬純さんは書いてなかったけ?
さ、君はどう考えるだい。教えてよ、エボ。
手段と目的が交錯してしまいそうな感じはあるなぁ。
で、この話はここまで。
ここから、やっとローカルの話。
こんなことが書かれている。
・・。「あれかこれか」の選択問題の正解は、たいていの場合「どちらも」である。逆説的な関係に向き合うには、一貫性にこだわって、一方を切り捨てるのではなく、両方とも掬い上げるのが一番まっとうなやりかたなのだ。問題は地域性と世界性が生きた関係を築けるようにすることであり、一方のみを取り上げ、他方を閉め出すことではない。わたしたちの時代の地球規模の公正をめざす運動を定義するひとつの方法は、地域性――地産食品、労働と資源の地域内管理、地場生産、地域文化、在来の家畜と栽培植物、固有の野生生物種、環境保護といった、本質的に地域のもの――を防衛するための地球規模の運動として捉えることができる。 170-171p
ここから、前回の「読書メモ3」でちょっと予告した話につながっていく。
「いまの急進派の多くは、地域を賛美し、擁護しようとするが、地域性を善と決めてかかるのは、あまりにも単純すぎるだろう。」
ここは留意が必要な部分だろう。人種差別が横行していた合州国南部などを例に、それが地域の特質だからと肯定できない話があることを著者は喚起する。
しかし、その上で、やはり「地域」が大切だとしている。バイオリージョナリズムを紹介し、こんな風に書く。
・・・。バイオリージョナリズムは押しつけではなく、適応であり、地域性を強調しても、一言一句変えずに布教する福音のようなものではないので、ある意味で現在の反イデオロギー的な風潮を先取りしていた。押しつけは権力の集中である。わたしが関心を寄せる地域性は、権力を分配する。 172-173p
「押しつけではなく、適応」というあたりは、直訳的でわかりにくいところもあるが、いいたいのはたぶんこんなことだろうという想像は可能だ。
ここで、読んでおきたいのは「わたしが関心を寄せる地域性は権力を分配する」と、あえてレベッカがいっているところだ。つまり、この背景に権力を集中するような地域性というかローカリズムもまた存在しうるということだろう。
実際、少なくない地域でローカルと封建主義の共存はあったように思う。ぼくたちが望んでいるローカリズムはそんなローカルではない。押し付けられたローカルではなく、選択しうるローカル、新しく創造するローカルが必要なのだと思う。
そんな風に書くと、思い出すのは「スワラジ学園」の筧次郎さんの話だ。ローカルには一定の桎梏はついてくるというような話だったと勝手に解釈している。ローカルでかつ自由に、というふうに両方をめざすのはないものねだりだというような話だったとぼくは理解したんだけど・・・。
ここでもレベッカが言っている「『あれかこれか』の選択問題の正解は、たいていの場『どちらも』である。逆説的な関係に向き合うには、一貫性にこだわって、一方を切り捨てるのではなく、両方とも掬い上げるのが一番まっとうなやりかたなのだ」というのを参照しよう。
そう、筧さんがいうように両方全部っていうのは確かに厳しいところもあるだろう。ローカルにこだわることであきらめなくちゃいけないことはないわけではない。土の人と風の人は交われない部分がある。だけど、そのバランスをとることは可能なんじゃないかと思う。それはとても微妙で、崩れやすくて、一筋縄ではいかないようなものだけれども、そこをめざすプロセスこそが大切なんだと思う。大切なのは結果ではなくて、プロセスだ。
んで、本の話に戻ると、バイオリージョナリズムが話題になることはなくなったが、その理想はいろいろなことの中に息づいているとレベッカは書いている。
そして、こんな風にも書いている。
地域の力を大事にすることが、愛郷主義やひきこもり、あるいは狭量さを意味する必要はない。それは広い世界に向かって船出する理にかなった母港になるだけの話だ。・・・。ことによると、違いは弱さではなく、強さであるという感触。地域環境に根ざしたアイデンティティをもちながら、地球環境の対話にも加われるという感覚。そして、この対話は、地域のためにこそおこなわれているという感覚である。 176p
このローカルに関するエッセイはこの本の17章、タイトルは「グローバルなローカル」。大きな文字でゆったり組版しているのに、10pしかなく、とても短い。
その結語でこんな風に書かれている。
行動主義とアート(芸術)の目的は、でなければ少なくとも自分自身の目的は、人びとが価値の消費者ではなく生産者になる世界をつくることだと、長いあいだ、わたしは考えてきた。本書を執筆しながら、これが希望の政治に、世界の創造の日々である革命の日々にいかに繋がっているか、いま、はっきりわかる。ひとつの定義として、脱集権化と直接民主主義のひとつの定義を挙げるなら、この未完成の世界において、人びとが力とビジョンをもつ生産者であるような政治力学といえる。
タイプしてて、この日本語もなんだかなぁと思わないわけではないけれども、でも、日本語にしてくれる人がいて、ぼくにちゃんと読めるわけだ。それに、この本はとてもスピーディーに翻訳されている。翻訳のスピードの大切さについて、龍谷大学の杉村さんが言っていたのを思い出す。たしか彼は正確さより、スピードっていっていたと思う。主旨はこんなことだった。翻訳がちょっとくらい間違ってたり、日本語として自然じゃなかったとしても、言いたいことはだいたいわかる。正確に知りたければ原文にあたればいい。それより、そういうことにこだわって、いつまでも日本語にされないことの損失の方が大きいというような話だったと思う(これもあいまいな記憶)。確かにそのとおりだと思う。ま、〈帝国〉みたいに、わざと難しくしてるようなのはどうかと思うけど。
そう、翻訳の話じゃなくて、この章の結語の話。
それでも、Power to the People なのか、と思ったり。
このPower to the People と Change the wourld without taking power の関係はどうなのかと思って、また、さっきの話に戻る。「『あれかこれか』の選択問題の正解は、たいていの場『どちらも』である」
ちょっとずるいような感じは残るんだけど。
最後に「希望」でこの読書メモを終わらせよう。
・・・、希望はただ待ち望むことではない。希望は、世界の本質的な不可知性、そして現在との決別を抱きしめることであり、驚きなのだ。・・・ 208p
驚きが希望??
それはサプライズ!
そしてレベッカは、「奇跡は期待することができるんだけど期待通りの時と場所では起きない」として、以下のように続ける。
期待していいのはビックリさせられることだ、そして、このことが行動の足がかりになる。・・・、・・・果てしなくつづく不服従の基盤としての希望をわたしは信じている。つまり、わたしたちが望むものの幾つかをなしとげ、その間も原則に則って生きるために必要な、そういう行為の希望である。
よくわかんないような感じもあるけど、ま、いいか。
この記事へのコメント