『「心の専門家」はいらない』読書メモ その2

『「心の専門家」はいらない』(1章)読書メモ



「心の専門家」はいらない
小沢牧子 著  2002年 洋泉社

ここには、こんな紹介
現在、社会で良きもの、必要とされているものを根底から問う!
ここ五、六年、事件・事故が起こるたびに声高に叫ばれるものに「心のケア」「心の教育」という耳に心地いい言葉がある。なぜ、この風潮はかくも社会に浸透し、蔓延したのか? 日常の関係に目を向けることを避け、「心の専門家」に依存し、そこに救済剤願望を託す「心主義」と言いたくなる傾向に対し、長年、臨床心理学の問い直しに携わってきた著者が、この学問の何が問題かを白日の下にさらす。「相談という商品」を「一緒に考え合う日常の営み」を取り戻す道を探る試み!
これは前回、日本語がおかしいと書いた最後の1文が含まれるカバーの袖の部分の文章。

==
「相談という商品」を「一緒に考え合う日常の営み」を取り戻す道を探る試み!
==
じゃなくて、
「相談という商品」を「一緒に考え合う日常の営み」に取り戻す道を探る試み!
なんだろう。


目次は以下
序章 臨床心理学をなぜ問うか
第1章 現代社会とカウンセリング願望
第2章 「心の専門家」の仕事とその問題群
第3章 スクールカウンセリングのゆくえ
第4章 「心のケア」を問う
終章 日常の復権に向けて


前回のメモで1章については触れた。


以下、2章以降について
 たしかにカウンセラーはていねいに善意をもって話を聴く人たちであるのだと思う。しかし、善意で敷きつめられた道の先がどこに続いているのかが問題だ。つまり、よく聴いたのちにどうなるのかという問題である。
 多くの場合、患者・クライエントは、自分の生活の問題を心の問題に置き換えるカウンセリングの操作を受け入れる。それはクライエントが日常的に、弱い立場に置かれているという事情が大きい。したがって混沌とした悩みや苦しみを自分の心の問題に集約させる技法を受け入れて、自己反省的に内側をみつめていく成り行きとなりやすいのである。 74p
著者はこのことを繰り返し書いている。

患者・クライエントと呼ばれたり、自認していたりする人々が抱えている問題の原因の多くは社会の側にあるにもかかわらず、「心の専門家」は社会を変えることを回避して、自分の問題として処理することを誘導しているということだ。それが社会の安全弁として働いていると。

そのことを問題の「ずらし」だという。

そして、対処法としては『心の専門家』に頼るのではなく、日常の身近な人とともに、時間をかけて問題そのものに対処する方法がいいんじゃないか、と書いているように読める。

確かにその通りだと思う。

問題は社会の側にある。そう、そういう意味ではこれは社会モデルの啓発書という風に読めないわけでもない。もう、障害学の世界。それも初期のオリバーの世界。

これが社会モデルの本だということに、うかつにもこれを書き出してから気がついたんだけど、そういう観点から読みかえしてみると、ちゃんと吉田おさみが出てくる。彼もまた、障害学とか社会モデルとかいう言葉が出てくる前にそれを主張していた一人。とてもラディカルな精神障害者だ。彼のこんな話が紹介されている。
「心理療法といいカウンセリングといい、やはり社会にあわせるように個人を変えることのみが目標とされていて、そこには社会を変えていこうという意図は見られません。(略)カウンセリングや心理療法は常識的生き方に患者を導くとすれば、それはやはり現状肯定的といわれても仕方ありません。問題は周囲社会と本人との間隔を、本人を治療することによってのみうずめるのでなく、本人が主体的に周囲を変え、その中に自分も変わっていくというダイナミックな変革形態こそが必要なのです」

「患者が主体的に本来の意味で狂気を貫き、自己変革、相互変革を行うことが”なおる”ということです。そしてもしあるべき心理臨床活動が存在するとすれば、それはこの患者の側からの変革に連帯し、協力するものでなければなりません。その場合変革の主体は患者であって、心理臨床家ではありません。(略)ただ、患者が狂気を貫徹することを助けるような形での心理臨床活動は果たして可能でしょうか。(略)もしそれが不可能であるならば、患者の要請によるものは別として、心理臨床活動をひとつひとつやめていくこと以外に道はないのではないかと、私は思うのです」 
89-90p


3章、4章にも興味深い話はいくつかあるが、そこは飛ばして終章の抜書き&メモ
人を日常的に支えている力は何であろうか。ふだんはあまり自覚していないまでもそれは、自分の身になじんでいるものの人や場所であると、わたしは体験的に考えている。  204p

「いつものこと」が壊れると、人は動揺し苦労し、ときに混乱する。周囲はその事態によって自分たちの「いつも」が脅かされるので、その人を「非日常」へ追いやろうとする。「本人のため」という理由をつけて。「専門家」それも「いい専門家」が、排除を正当化するための必須事項である。しかし苦労を抱えたときこそ、自分の「いつも」がより大きな拠りどころとして意味を持つ場合が多いだろう。  205-206p

こう考えてくると、「心のケア」や「癒し」に専門家が登場していることは、消費社会の爛熟、消費主義埋没の問題であることははっきりしている。「生きることは買うことなり」の暮らしが「なじんだ世界」を薄れさせ、心もとなさを増しているのだ。(略)しかし「なじむことの力」を金銭に変えることはできないこともはっきりしている。なじむこことは時間の産物だが、金銭は時間を一瞬にして買うためのものとも言えるからでもある。  209p

そして、こんな結語でこの本は閉じる。
 縁や察しの文化は、いまはやりのセラピー・カウンセリング用語の「共感」を用いるまでもなく、そもそもがヨコ関係と共感の文化である。しかもぎこちなく技法化されたものではなく、良かれ悪しかれ風土と時間のなかでわたしたちに身体化された感覚、血肉化された関係文化である。
 いま、人と人が消費・情報社会の波に呑まれてバラバラになり、それこそ「金の切れ目が縁の切れ目」の関係に持ち込まれている。その心もとなさのなかにあっても、縁という偶然に繋がれる人の関係と、その関係に束縛・拘束されながら繋がりを切らない知恵とモラルを、生活の中に育てたいと思う。 214p

この本はほぼ全編「心の専門家」批判だが、障害学が基本は社会モデルに置きつつも、それだけでは解けない問題を考察していったように、著者も現実の場面では、すべての「心の専門家」が不要だとまでは主張しないのではないかと思われる。ただ、ここでは主張を明確にするために、そういう話はほとんど貫かれているように思う。ちょっとだけ、カウンセリングが本人の安心の役にたったという話もでてくるが。

カウンセラーや心理療法家というような専門家につながることで楽になったと感じる人は少なくないだろう。それで楽になれるなら、それを否定することもできない。

だけど、日常の関係性を取り戻す、その具体的な方法はどうだろう。容易そうで、そんなに容易ではないのか、それとも難しそうだけれども、そんなに難しくないのか、見えにくいところはある。

そして、社会を変えることの必要性とはいうものの、活動家のぼくがいうのも変だが、誰もが活動家である必要もないようにも思う。もちろん、一人でも多くの人に社会を変えようとして欲しいとは思うのだが。

ただね、一人ひとりの抱える問題が実は個人の問題じゃなくて、それは専門家の力で変えていくという以外の方法があるっていうのは、もっと声を大にして言いたい話でもある。

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