〈帝国〉読書メモ その15 2-1 のつもりが、ほとんど「スピノザ共同性のポリティクス」のメモ

〈帝国〉読書メモ その15 2-1 二つのヨーロッパ、二つの近代性  のつもりが、ほとんど「スピノザ 

 この2-1はものすごくややこしくて、固有名詞がたくさん出てくる章。何回も書くけど、うんざりするような〈帝国〉の読書のなかでも、とりわけ読みにくい章だった。で、この章を扱った先週の読書会の参加者も、とても少なかった。この章を読みこなせたら、ネグリ流の中世末期以降の西洋哲学の系譜を俯瞰できそうだけれども、なかなかこれをまとめるのは大変だし、この本文はそれほど熱心に読んでもいないので、この章の読書メモはパス。
 だけど、この章の担当者(あえて、この困難に挑戦したIさんに感謝)が作ってくれたとてもていねいな資料が面白い。なかでも面白かったのが、熊野純彦という人が書いた岩波新書の「西洋哲学史」にある西洋哲学者の同時代性がわかる図。そして、「スピノザ 共同性のポリティクス」(2006年洛北出版)という浅野俊哉という人の本。

この「スピノザ 共同性のポリティクス」から以下にまとめ&抜書き&感想
===
スピノザのいう〈喜び〉

誤解を恐れず言い直すなら、有機体においては「生命力」と私たちが呼んでいるものとほぼ同義

スピノザの倫理的な定式はただ一つ――「汝の活動力を増大せしめるように行動せよ」、すなわち、「汝の〈喜び〉を最大限に味わえるように行動せよ」

以上、「はじめに」から

以下、第8章 〈抵抗〉
『〈帝国〉』の行方

から

『〈帝国〉』についてのスラヴォイ・シジェクの評価
「この本がはっきりと証明しているのはグローバル資本主義が、自らの形態を最終的には爆破するに至る敵対性をいかに生み出しているかということである。本書は〈歴史の終わり〉を唱えて悦にいっているリベラル派や、今日の資本主義に真っ向から向き合うことを避けている、ラディカルを装ったカルチュラル・スタディーズに対しても忌鐘を鳴らすものである。」
エチエンヌ・バリバールは
「本書は疑いもなく、哲学者、政治学者、社会主義者たちに、永続的で激しい議論を引き起こす引き金となるだろう。その結果がいかなるものであれ、そこからけた外れの利益がもたらされるはずである」
201-202p

シジェクが激賞するように「はっきりと証明している」かどうか、ぼくには確信がないが、ネオリベ論者やおしゃれなカルスタはもういらないという部分には同感だし、バリバールの「長く続く激しい議論を引き起こす引き金になり、その議論の結果がどうあれ、それがとても有益だ」というのにも深く同感する。それは学者での議論だけじゃなくて、街場での読書会の議論にだって有益なのだと思う。

以下、第2節 『〈帝国〉』におけるスピノザ
から

今回、ひとりで読んでいたときにつまずいたのが「内在性」という概念。これって、簡単に言っちゃうと「神様はぼくの中にいる」っていうようなことらしい。

このことについて、この本の中ではこんな風に解説してある。

(2)内在性と民主主義
〈帝国〉で内在性と民主主義の連関について述べられた部分を引用した後で
「ここにおける内在性とは、理念的に想像された超越的な神にのみ創造の力があるのではなく、人間それ自身の精神と身体にクリエイティブな力が存しているという意味を含んでいる」 207p

「スピノザの内在性の思想が、なぜ民主主義と結びつくのか。言うまでもなくそれは、外部と超越性の存在しない地平(内在平面)が、民主主義の地平、すなわち外的な権威や命令によるのではなく、社会を構成するすべての構成素が自らの手によって秩序を構成し、その秩序に従いつつそれを覆すという構造と結びつき、後述するようにその関係を存在論的に完璧な形で定式化したのがスピノザだったと、ネグリとハートがみなしているからである」 208p

ここに続く部分も面白いので勢いで抜書き、まとめを続ける。


(3)革命的ヒューマニズムと愛
「人文主義者(ヒューマニスト)たちが知性の表現の至高形態とみなした愛こそが、諸々の特異性の解放に至ることを可能にするただ一つの基礎として、また集団生活の倫理的絆としてスピノザが提示したものだった。」に続く〈帝国〉の文章を引用して、著者は以下のように書く。
 「ここでもスピノザの思想が、ルネサンス・ヒューマニズムの伝統を受け継ぎ、それを多数者(〈群衆-多数性>)による絶対統治という民主主義的な政治的存在論の地平で展開しなおしたものとして、肯定的にとらえられている」
「特異性(かけがえのなさ)の集団的な形態における解放――これこそ、〈帝国〉の支配から逃れ、それに対抗する諸実践の目指す地点となる――というハート-ネグリらの目的を具体化するものこそ、スピノザのいう「愛」であり、それが人々の統合と解放のための唯一の原理」

(4)ヒューマニズムとアンチヒューマニズム
60年代のフーコーとアールチュセールとって重要な企てだったアンチヒューマニズム、そして、それとスピノザの連関を指摘する〈帝国〉の文章を引用したあとに次のように書かれている。

ここではスピノザの思想が、構造主義を特徴づける「アンチヒューマニズム」以降の新しいヒューマニズムの礎石となることが、フーコーの思想との結びつきを明らかにしながら示唆されている。以下は〈帝国〉の要約。彼ら(ネグリ/ハート)によると、『性の歴史』は、極めて今日的でパラドキシカルな次の問いを提出している。すなわち「〈人間の終焉〉以降のヒューマニズムとはいかなるものか、あるいはむしろ、アンチ・ヒューマニスト的(ないしポスト・人間(ヒューマン)的ヒューマニズムとは何か」という問いである。
ヒューマニズムの二つの伝統
一つは〈人間中心主義〉=自然や社会に対して超越的な立場を人間に与える。それを前提に自然や社会を解釈し、改造するという立場。フーコーやアルチュセールが展開したヒューマニズム批判はもっぱらこの側面に対して。
ヒューマニズムのもう一つの伝統は
「あらゆる超越性との闘い」
 フーコー(晩年)やスピノザはこれに依拠している。
神に対して自然への支配力を与える宗教思想と、それ同じ力を人間に与える世俗化した思想の間の連続性、両者は容易に既存のヒエラルヒーや権力の支配構造を正当化する道を開く。
 この「超越性」に対する闘いを通して私たちは「内在的な力(immanent power)」とは何かを問うことができるようになる。内在的な力とは、すなわち創造的な生命力。これは人間だけではなく、動物や機械にも等しく働いている。人間という閉域を打ち崩して、外の様々な力と多様な仕方で結びつくことができる場としてそれをとらえ直すことが、新しいヒューマニズム思想となる。

このような構成的企てを存在論的に基礎づけたのがスピノザ 209-211p

(5)民主主義と絶対性
外部はないという〈帝国〉、「そこにおいて有効な批判は、内部から、例えば内破[implosion]という形で到来せざるをえない。マルクスが、交換価値の支配する世界に対し使用価値の独立性と優位を説いた際、後者の独立性がまさに資本主義的展開そのものの中にのみ存立していたのと同様、近代性への批判は、近代が展開した歴史的諸力のただ中で、いわば「外部を探求する内部」という形で提示されなければならない、とハートとネグリは考えている。」

以下、第3節 〈帝国〉とスピノザ
から
==
ネグリとハートが〈帝国〉という言葉で指し示しているのは、さしあたってこの「資本主義の高度に洗練された――「残酷化」されたと言い換えてもよい――管理形態」である。そして、今日の資本が――すなわち〈帝国〉が――、私たちの身体と精神を直接支配しようとするようになったことが、逆に、抵抗の拠点としての〈身体〉および〈精神〉の持つ無限の可能性を浮かび上がらせたとハートとネグリは考えている。
 つまり人間の身体と精神が直接支配や管理の対象になるということは、逆に言えば、人間身体や精神のなかで決して支配もされず、管理もされない領域とは何かという問いを浮きだたせることにつながのである。214-215p

この著者(浅野)はそこにフーコーやドゥルーズらとの思想的共鳴関係を読み取る。そこに続けて以下のように主張する。

人間の精神と身体の中には決して外的な管理に従属せず、予測もされない、生産的創造的な力が絶対的に存在し、それは資本主義的な権力形態とは全く相容れない敵対性を形作る。
 ネグリのキータームであり、もともとはマルクスの用語であった社会的生産におけるこの絶対に包摂不可能な〈敵対性[antagonism]〉とは、資本もそれをあてにして価値増殖を図る人間の創造的な力は資本の管理には収まりきらず、必ずそこから溢れ出たり逃れ出したりする力が存在する――その限りで互いに還元不可能な敵対性を作り出す――という文脈で解釈しなければならない。
 ハート/ネグリによれば、その際に特権的な参照点となるのがスピノザの哲学。それこそが、人間身体・人間精神における生産的な本性について最も徹底的な存在論的基礎づけを行い、それら二つの能力に対し、本来の地位と権利を与えなおしたから。

以下、第4節 〈帝国〉の彼方
から

==
・・・ユートピアでも啓蒙でもなく、人々を現在の桎梏から鼓舞するための「預言の書」として本書を世に問おうとしたネグリおよびハートの深い、重く受け止めるべき政治的意図がある。
 けれども、ことスピノザの哲学はそのような図式には本来無縁であるということも一方であえて指摘しておかなければならない。

この著者(浅野)はその少し後で、ネグリの1998年の著書から
「スピノザはまさに民主主義とは〈豊かな群集-多数性[une multitude]〉の創造的活動性を最大限に強化することであると考えている。」という部分とその少し前を引用した後、以下のように書く。
==
 そうだろうか、おそらくスピノザの哲学における〈群集-多数性[multitude]〉概念は、〈帝国〉に限らず、また資本主義・社会主義・共産主義などの社会体制を問わず、およそいっさいの社会形態の内部に棲まい、それを内側から打ち崩して耐えざるオルタナティブを指し示す「普遍的」なものとしてとらえられなければならないものだろう。  218p
==

 浅野さんはこのように主張するのだが、ここだけ読むと、ぼくにはネグリのスピノザ解釈も浅野さんの理解するスピノザの哲学とそんなに矛盾していないように読める。民主主義がマルチチュードの創造的活動性を強化するとネグリは言っているのだが、そのまだ形に表れない民主主義が実現した段階で、その民主主義をもマルチチュードが内破するということまで、ネグリは否定していないのではないか。
 しかし、同時に浅野さんはマルチチュードの可能性とデモクラシーの可能性に関して「『〈帝国〉』に見られるようなハートとネグリの思想の「起爆力」と「危うさ」の一端は、マルチチュードとデモクラシーという次元を(もしかするとスピノザが考えていた以上に)驚くほどの率直さで結びつけるそのやり方にあるように思える。」(219-220p)と表現していて、ネグリ/ハートのスピノザ解釈の自由さを否定しているわけではないのだろう。

そして、この8章の最後の浅野さんの文章がぼくはけっこう好きだ。(センテンスが長すぎて、単純な僕にはちょっと読みにくい文章でもあるんだけど)

===
 民主主義や統治をめぐるハートやネグリの主張がたとえどれほどオプティミスティックに聞こえるとしても、「ポストモダン」と称されるこの時代においてすら、おそらく生産的な社会的実践が為されるとしたら、その起点に置かれるのは、伝統的に「愛」と呼ばれてきた〈自己と他者の生の尊重〉という、いささか拍子抜けするほどシンプルなエートスに基づく行動――スピノザはそれを〈喜び[laetitia]〉と表現する――であることには変わりはなく、それは、スピノザが繰り返し強調するように、十全に能動的な生を構築しようとする限り、あらゆる超越性や義務論的な命令も拒絶した後にも残る私たちの内在的な欲求、存在するところの充満をより多く求める欲望の表現に他ならないのである。〈帝国〉の残酷に抗して、あらゆる領域で〈喜び〉を対置していくこと――これが、ハートとネグリらの示す一貫した実践的指針である。 221-222p
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この単純さは好きだなぁ。


まあ、あえて書けば、ちょっとひっかかるのは「能動的な生を構築しようとする限り」という限定。受動的な生にも同様の内在的な欲求はありえるんじゃないかと思うんだけど、どんなんだろう。




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