「ディアスポラ紀行」読書メモ

ずいぶん前に買った記憶がある。たぶん、この本が出たばかりで、平積みされていた頃に買ったんだと思う。たぶん明確な理由はないのだが、本棚に置いてあるのが気になった。途中まで読んだ形跡はある。最後まで読み通したかどうかさえ覚えていない。また、手にとって読み返してみた。以下、メモ


メモディアスポラ紀行
ディアスポラ紀行―追放されたもののまなざし
徐 京植著 岩波新書2005年


岩波のサイトの紹介文から部分的にコピペ
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 離散を強いられた理由は様々です。奴隷貿易であったり、植民地支配であったり、地域紛争や世界戦争であったり……。ただ、いずれの場合にも、そこには、近代が生み出す「暴力」が働いているといえます。

 著者の徐京植(ソ・キョンシク)さんは、在日朝鮮人2世の作家です。ご自身もまた、日本の植民地支配が生んだ多数の「コリアン・ディアスポラ」の一人です。徐さんは、韓国やヨーロッパへの旅の中で、ディアスポラ性が色濃く刻印されたアート作品や文学作品に出会います。そうした作品を見つめ、読み解きながら、ディアスポラを生んだ「近代」とは何であったのか、「近代以後」の人間はどこへ向かうのか、を深く考察してゆくエッセイ
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正直に書くと、徐京植さんの折れそうなぐらいまっすぐなところはちょっと苦手だ。そう、こんな風に「苦手」と言ってしまえる側にぼくが生きていることには自覚的である必要があるんだと思うけれども、でも苦手なものは苦手。花崎さんとの論争でも正しさは徐京植さんのほうにあるように思う。だけど、その正しさの前にたじろいでしまうぼくはいる。

そう、彼が折れそうなぐらいにまっすぐに正しいと感じるその折れそうなところがこの本を読むと少し理解できたような気になる。

ちょっと抜書き
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・・・アンダーソン『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』・・・。一読し、「ナショナリズム」という近代的現象の分析に「死」という視点を導入する着想の鮮やかさに感心した。

「無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。(中略)これらの墓にはだれと特定しうる死骸や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる国民的想像力が満ちている。」

 ナショナリズムという近代の想像力は、「国民」を一人の有機的な身体として想像する。プロイセン農民のだれそれ、ザクセンの職人のだれそれ、バイエルンの公証人のだれそれが、一括して「ドイツ人」として想像される。だからこそ、ライン河畔のだれそれが「フランス人」に傷つけられたとなると、プロイセンでもザクセンでも、「われわれ」が傷つけられたといきりたつのである。
 たえず「他者」を想像し、それとの差異を強調し、それを排除しながら、「われわれ」という一体感を固めていく。弔いの儀式は、その「鬼気せまる国民的想像力」に深く関連している。他者との戦いにおいて、「われわれ」のために自己を捧げた者たちの墓。それは、もはや個々の死者の墓ではなく、「われわれ」という観念、「国民」という観念の墓なのである。 49-50p
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「われわれ」という観念、「国民」という観念の墓なのである。
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だと徐京植さんは書く。その墓はなくなったものを弔う墓ではなく、「われわれ」とか「国民」とかいう概念を生きつづけさせる装置。「われわれ」とか「国民」とか、墓に入れちゃいたい感じなのだが、その墓が生きつづけさせるための装置だとしたら、どうしたらいいんだ・・・と思う。



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・・「なぜ、ほかならぬ私が奴隷でなければならないのか」という問いへの答えは出てこない。なぜ、黒い肌に・・? なぜ、女に? なぜ、在日朝鮮人に? 「生の偶然性」に関わるこうした問いへの答えを、近代以降の合理主義的思想は持ち合わせていない。「そこで要請されたのは、運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと、世俗的に変換することであった」。その「変換装置」こそがナショナリズムだ、とアンダーソンはいうのである。 51-52P
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 近代ナショナリズムが造り出した「国民」という観念、国土や血縁の連続性、言語や文化の固有性といった幻想によって構成されるこの手ごわい観念は、人間の死へのおそれ、不死の欲望によって支えられている。自らの財産、血統、文化を永久に残したいという欲望がナショナリズムの土台にある。この観念に打ち勝つには、結局、死の宿命性と生の偶然性をありのままに受け入れる以外にない。自分はたまたま生まれ、たまたま死ぬのだ、ひとりで生き、ひとりで死ぬ、死んだ後は無だ――そういう考えに立つことができるかどうかに、ナショナリズムの眩暈から立ち直ることができるかどかは、かかっている。しかし、それは今のところ、人間という存在にとってひどく困難なことのようだ。 53P
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ナショナリズムがそういう装置であり、人間の欲望がその土台にあるというのはそのとおりだと思う。しかし、「ひとりで生き」というのはいやだ。そう考えなくてもナショナリズムの眩暈から立ち直る道を探したいと思う。そして、それはありえるのだと感じている。
 もし、どうしても、それしか道がないのなら、眩暈から立ち直らなくてもいいと感じるほどに、「ひとりで生き」という思想は強く拒否したいと思う。ひとりで死ぬのはいい、死んだ後は無でもいい。だけど、ひとりでは生きていけない。そのあたりに徐京植さんとぼくの考え方の大きなずれがあるのかもしれない。


針生さんの名前も紹介されているので、これもメモしておこう。
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・・・曺良奎 (チョウ・リャンギュ)の北朝鮮帰還には彼固有の動機があったようだ。それは、親しかった針生一郎に残した、次のような言葉に窺われる。

 ――在日生活が長くなり、朝鮮の風景も朝鮮人の風貌姿勢ももう記憶と想像を通してしかつかめず、それが自分にはもどかしい。北朝鮮では画材も表現も日本よりは不自由なことはわかっているが、それでも今の宙吊り状態を脱して祖国の現実の中で格闘したい。

 曺良奎は北朝鮮を「地上の楽園」だと思っていたのではない。そこが「不自由」であることは、彼には分かっていたのである。しかし、彼にとって、日本で暮らし続けることは「宙吊り状態」でしかなかったのだ。芸術家として、人間として、ほんとうの生を求めて彼は跳躍したのである。
 北朝鮮への帰国から1年半ほど後に一度だけ、曺良奎から針生一郎のもとに近況を伝える手紙が届いたが、それ以降は消息不明のままである。 109-110p
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あと、納得させられたのが以下の記述
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しかし、見える部分だけを見ていては、在日朝鮮人の全体を見たことにはならない。自分は在日朝鮮人であると名のり出る者だけが在日朝鮮人なのではない。むしろ名のり出ることができず、自分は何者かをつねに自問している存在が在日朝鮮人なのである。在日朝鮮人がみずから名のることを困難にさせ、在日朝鮮人という存在を見えにくくさせている植民地主義的諸関係を念頭におく以上、言うまでもなく、この見えにくい部分を含む全体こそが在日朝鮮人なのである。113P
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・・・。ディアスポラにとって「くに」は郷愁の中にあるのではない。「くに」とは、国境に囲まれたある領域のことではない。「血統」や「文化」の連続性という観念につき固められた共同体のことではない。それは、植民地主義やレイシズムが押し付けるすべての理不尽が起こってはいけないところなのだ。私たちディアスポラは近代国民国家時代のはるか彼方に、「真実のくに」を探し求めているのである。 209P
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近代国民国家時代のはるか彼方に、「真実のくに」を探し求めているのはディアスポラと呼ばれる人たちだけじゃない。



P.S.
この本のより詳しい説明は以下で
http://www.jinsei-iroiro.net/www_member/rensai/shinsho/shinsho611.html

P.P.S.
上記のリンク、すでに切れてます。

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