『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その5

この読書メモの「その4」


を書いたのが、2月11日、そこで「まだまだ読書メモは続く」と書いていたが、中断していた。どうして、中断したのかなぁと思って、それ以降のブログを読み返していたら、〈帝国〉の読書メモに移行していた。


約4ヶ月ぶりの再開

「仏教経済学」というエッセイのメモが書きかけだった。

このエッセイ、50p~62pのわずか、13p分の短いエッセイなんだけど・・・。前回のメモでは58pまでをカバー。残り4p分。


59pはエネルギーについての記述。
「現代経済学では、その方法論がカネで表した価格によってすべてのものを同一化し、数量化するものである以上、再生可能の物質と再生不能の物質を区別しない」と書き、現代経済学を批判する。これが書かれてから、ちょうど40年経過した現代の経済学がどんなものか、ぼくは知らないのだが、やはり主流派経済学って、こんなもんじゃないのだろうか?

で、この現代経済学に仏教経済学を対置して、以下のように書く。
「仏教経済学にいわせれば、もちろんこれでは駄目である。・・・再生不能の燃料と・・・再生可能な燃料との間には本質的な違いがある・・・。再生不能財は、やむをえない場合に限って使うべきもので、その場合でも、それを保全するために最善の注意と細心の配慮を払わなければならない。こういう財を不用意に、ぜいたくに使うことは一種の暴力行為である」
前にも書いたんだけど、これが40年前に書かれたものなのだ。もしかしたら、書かれるのが早すぎたのか、今なら、もっと注目されてもおかしくないように思う。(当時、注目されてなかったのかどうか、知らないんだけど。)

そして、結語近くでは、以下のように書かれる。
・・問題は「近代的成長」をとるか「伝統的停滞」を選ぶかの選択ではない・・・。問題は正しい経済成長の道、物質主義者の無頓着と伝統主義者の停滞の間の中道、つまり八正道(*)の「正しい生活」を見いだすことである。訳注(*)八正道とは、正しい見解、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想である
これだけ、「正しい」を連発されると、うんざりなんだけど、問題は何を「正しい」と見るかで、そこがわかんなくちゃ、何を言ってるのかさっぱりわからない。ま、それまでの流れで想像はつく。

だけど、「正しい経済成長」っていうのは、どうだろう。

主流派経済学では「経済成長」というのはおカネをたくさん使う社会のことだ。そんな経済成長はいらない、少なくとも日本のような過剰な社会では、おカネが増えることだけを尺度にした経済成長はもう不要という以上に悪なんだと思う。ここで書かれてるそれが、主流派経済学の尺度でないとしても「成長」という言葉を使うのはどうか、という疑念は残る。おカネで計るGDPのプロダクトではなく、Pの代わりにH(幸福ハピネス)を置こうというブータンなどの例もあるが、尺度そのものが必要なのかどうか、そのあたりから考え直す必要もあるのではないかと思う。

確かに「尺度」は便利で捨て難いものではあるんだけど。

おカネの流通量を減らして、気持ち良く生きていけたら、いいなぁと思うのだけれども、これも「尺度」を使って計ろうとした途端に何かいびつになってしまいそうだ。

で、さっきの「正しい生活」の話の後に、結語として、こんなことが書かれている。
 これが可能なことに疑問はない。ただし、それにはいわゆる先進国の物質主義的な生活様式を無批判に模倣することよりもずっと大きな努力が要る。なによりも私がいう中道の技術(適正技術?括弧内引用者)を意識的に、また体系的に開発しなくてはならない。この技術とは、消えつつある古代東洋の技術とくらべて能率がよく強力であり、同時に反面では現代欧米の労働節約型技術より非暴力的、かつはるかに廉価、簡素なものである。 62p
ここで、仏教経済学という文章は閉じられる。

この文章が発表されて、40年を経ても、なかなか「適正技術」という考え方は広がっていないように思うが、最近で言えば、非電化(*)とかいう考え方は「適正技術」なんじゃないかと思う。その言葉は使われていないが。

非電化(*)参照URL


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