『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その6
この読書メモ「その5」
の続き
さっき、訳者あとがきを読んでいたら、この前に触れた「仏教経済学」と今回触れる「新しい経済学を」はスモールイズビューティフルと重複しているという。訳者はこの2編の内容がシューマッハ思想の根幹をなしているから、あえてとりいれたのだと解釈し、その選択に深く同意している。
スモールイズビューティフルはいつだったかは忘れたが、読んでいるはずなのだが、2度もこの「再論」を読みかえしていて、そのことにまったく気がつかなかった。
以下、本の順番で今回は「新しい経済学を」の読書メモ
これも前回同様、68年に書かれた文章。
そう、68年といえば世界中で学生叛乱が起きた年。ウォーラーステインも歴史の転換点と見る年だ。
まず、面白いと思ったのは、シューマッハは必ず「小さいことがいい」と思っていたわけではないということ。
こんな風に書かれている。
現下の状況にあって私が必要だと信じているバランスの回復とは、さかんな巨大主義の偶像化と戦うことを意味している(もし反対方向での偶像化――つまり大規模組織はすべて悪魔の仕業だとされるならば、その反対側を推さなくてはならない)。
これに続けて、「どんな活動にも、それにふさわしい規模がある」と書いている。それをより分けることが必要だと。
ま、当然といえば当然か。大規模開発とかはもううんざりだが、戦争をしないとか核兵器を持たないとかいう地域がどんどんつながって大きくなれば、それは大きいほどいい。
そして、都市の問題も語られる。
適正規模の上限は人口50万人台だという。
シューマッハは農村から都市への流入を嘆くのだが、「流入を止める方法を知る人は一人もいない」と書く。
それに続けて、「大きな国が故郷離れのこの時代を生き延びうる唯一の条件は、高度に結合された内部構造をつくりあげること」と書くのだが、それがどういうことなのか、いまひとつわからない。
農村から都市への流入を防ぐ方法は、農村を魅力的なものにするしかないと思う。まず、前提として、そこで十分に食べていけること。これができれば、かなりの部分は解決するはずだ。そして、そこで愉しく生活できること。それをどう実現していけるのかとかいうこと。
そんなことを、田舎から出てきて東京に住み着いて30年以上にもなるぼくが書くのも倒錯した話しだなぁとも思う。
また、この少し後で、豊かな州がひとつと貧しい州がいくつかからなる国で豊かな州が独立したら、貧しい州はどうなるか、という問いを立てる。
(ちょっと考えてみてください)
シューマッハのそれに対する答えは
「格別なにも起こるまい」というもの。
その理由をこんな風に書く。
金持ちが貧乏人に補助金を出すというのはまずないことであって、ふつう金持ちは貧乏人を搾りあげている・・。金持ちはこれを交易条件の操作でおこない、おそらく直接には搾取しないだろう。税収入の一部を戻すとか、ごく少額の義損金のようなもので現実をちょっとぼかすことはするだろうが、貧乏人と縁を切るのは最後の最後である。
これはけっこう適格な回答。
その少し後に「地域主義」の話が出てくる。これのもとは「ローカリズム」??(誰か教えて!!)
こんなことが書いてある。
20世紀後半の大問題は、人口の地理的な配分の問題、つまり「地域主義」の問題である。ただし、ここで地域主義というのは、多くの国家を自由貿易制度に組み入れる地域主義のことではなくて、それぞれの国の中ですべての地域を発展させるという、反対の意味のものである。 (中略) 特に貧しい国では、地域開発が成功しない限り、つまり首都ではなく、どこに人がいようとも、農村での開発努力がおこなわれないかぎり、貧しい人たちに希望の光がささない。 77-78p
都市ではなく、農村に住み続けたいと誰もが思えるような政策が必要だというのはその通りだと思う。しかし、それを「開発努力」とか言われてしまうと、ちょっと違うんじゃないかと思う。いい開発を求める人やシューマッハ主義者に言わせれば、そこでの「開発」はいま主流で行われているのとは別の「開発」だとか、「内発的発展」を求めるような政策だということになるのだろうが、ここまでさんざん行われてきた「開発」や「発展」の無残な結果を前にして、もうDevelpomentとかいう言葉を使うのはやめたほうがいいんじゃないか、あえて使うならカウンターデヴェロプメントが必要だというくらいにして欲しいと思う。
とはいうものの、これは40年も前の本。まだ、この時代はこんな風に留保なく「開発努力が必要」と言えたのかもしれない。
で、開発努力という言葉はいやだけれども、その点を除けば、この先で書かれていることは、いまでも十分、通用する部分もある。かなりオリエンタリズムの匂いも強いけど。こんな風に書かれている。
この開発努力がおこなわれないと、貧しい人たちとしては、今住んでいる土地で相変わらずみじめな暮らしを続けるか、大都市に移住するしかないが、大都市の暮らしはもっとみじめなものだろう。今日の経済学の知恵では貧しい人たちをいっこうに助けられないというのは、じつに異様な現象である。 78p
そう開発努力とかいう言葉を使わないとすれば、どうするか、そこにサブシステンス志向とかサブシステンス視座の取り組みとかいう言葉を置けるんじゃないかと思う。その地域の人びとのつながりの中で、気持ち良く十分に食べていくことを目標に、第一にやるべきことは、その目標を阻害するものを排除するような取り組み。阻害するものを排除するだけでは十分でなければ、よそものの知恵を入れていくこともあるかもしれない。それが開発だという言い方もありえるかもしれないが、ぼくはそう呼びたくない。
ここに引用した文章に続けて書いてある以下の文章には大きく拍手。これが書かれて、40年、基本線は変更されていない。
現に豊かな人をますます富ませ、権力のある人の権力を強めるような政策しか現実にはとれないことが常にはっきりしている。 78pそして、新しい思考の体系が呼びかけられる。巨大主義とオートメーションの経済学は、19世紀の環境や思考の「遺物」であって、今日の問題をなに一つ解決する能力がない。まったく新しい思考の体系が必要となっている。第一にモノではなく人間に注意を向ける思考の体系が求められているのである。その思想は「大量生産でなく、大衆による生産」と要約できるだろう。 79p
「大衆による生産」というのが、もうひとつピンと来ない。もとの英語はなんなんだろう。気になる。マスプロダクトに対抗するのはマルチチュードプロダクト?? まさかね。
で、ここに続いて、20世紀の現在、放置できないのは「貧窮と人間の堕落」と戦うことだという。「この戦いは、国家をはじめ顔のない抽象的組織と手を組むのではなく、具体的な人間、個人、家族、小集団との緊密なつながりのもとでおこなわれる」と書かれている。そして、この緊密さを保証する政治的・組織的構造が要請される。それは民主主義、自由、人間の尊厳、生活水準、自己実現、など。この人間にかかわる問題群。
「人間は、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうるのだから、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えることを学ばなければならない」とする。そして、「経済学がこの点をつかめないとすれば、それは無用の長物だ」と言い切る。この歯切れのよさは好きだ。これに続いて、以下のように書いてある。
国民所得、成長率、資本産率、投入産出分析、労働の移動性、資本蓄積といったような大きな抽象概念を乗り越えて、貧困、挫折、疎外、絶望、神経症、犯罪、現実逃避、ストレス、混雑、醜さ、そして精神の死というような現実の姿に触れないのであれば、そんな経済学は捨てて、新しく出直そうではないか。出直しが必要だという「時代の徴候」は、もう十分に出ているのではないだろうか。 80p
そんな呼びかけでこの「新しい経済学を」というエッセイは閉じられている。
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