『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その7


今回は「第二章の3 規模の臨界点」 のメモ
ここで、シューマッハは人間組織の規模について書く。
 組織が大きくなるにつれて、その成員が道徳的存在として自由に行動するのがむずかしくなり、次のような言葉を発する機会が増える。「申し訳ありません。自分のしていることが正しくないのはわかってますが、それが指示なのです。」とか、「その規則を実施するために私は給料をもらっているのです」とか、「あなたのご意見に賛成です。あなたは問題を上層部か国会議員にもちこむことができるでしょう」

 その結果、大規模組織は往々にしてきわめて行儀がわるく、反道徳的で、愚劣でかつ人間性にもとる行動にはしるが、それは組織内部の人間の性格によるものでなく、ただ組織が巨大さの重みを引きずっているからなのである。 83-84p
 で、シューマッハはこのような巨大組織の問題、そして巨大組織の管理のための官僚化を指摘する。そして、どんな組織にもそれが効力を失ってしまう直前の「臨界規模」があるというのは誰もが知っているが、この「臨界規模」は大衆社会では多くの人が考えているよりずっと小さいのではないかと主張する。
 さらに過大な規模が管理の問題やモラルの問題を生むだけではなく、多くの問題を発生させ、その解決をむずかしいものにしている。2000人規模の島では、犯罪が起きて、年に一人の割合で刑務所から出所してきた人を社会に復帰させることは簡単だが、その25000倍の人口5000万人のイギリスで25000人の出所者を社会に復帰させることは非常に困難で人とカネを増やしても問題は解決されない。量の変化は質の変化を呼び、まったく別の問題を発生させる。小さな村には社会復帰にともなう問題はないのに、規模が大きくなると、問題が発生する。逆に島では民衆の力が問題の発生を防ぐ、つまり犯罪の結果が新たな問題をひきおこすのを防ぐ、というのがシューマッハの主張だ。
 2000人の島では刑務所は作れないだろうとかいう基本的な疑問もあり、この例が適当だとは思えない部分は多々あるのだが、規模が大きすぎることが問題を起こすということはありそうな話だ。
 どれくらいの規模を適正規模と見るかという疑問もでてくる。この「規模の臨界点」というエッセイの結語近くで彼はこんな風に書いている。
 政府の組織であれ、無報酬のNGOであれ、その規模が地域的にも人数からいっても適切でないかぎり、人間味や民衆の力の動員というものは空論に留まる。「適正規模」とはむずかしい概念である。試金石は人々の反応である。彼らは個人として気配りができるか、個人として配慮されているだろうか。私自身は、「巨大さによる合理化」に毒された社会の中で条件づけられたわれわれが考えているよりもずっと小さい単位を、念頭におく思考になれてゆくべきだと思っている。小さいスケールなら民衆の力が発揮できるのに、スケールが大きくなりすぎるとこの力が空転し、不発となる。適正規模が正確になんであるかについては、私に答えはない。それを見つけだすには、実験をおこなわなくてはならない。

これに続いて、イギリスを例に
人口5000万人のイギリスを人口200万から250万の単位に20~25に分け、税金のごく一部を除いて、その単位に戻し、その都合にあわせて使用する、その単位が別々の国のようであり、混乱に陥っても救ってくれる中央政府はないとしたら、各単位は自らの運命の主人公になり、民衆の力はイギリスを覆う現象になるだろう、と主張する。
 ここで提案されている実験の規模が適正かどうか、にわかには信じ難い、っていうか違うんじゃないかと思う。問われているのは、こういうモデルではなく、より具体的に「サブシディアリティ」の原則どおりに、決定の権限をできるだけ小さい規模に持っていくというような取り組みだろう。
 ともあれ、シューマッハがいうように一人ひとりの人が「個人として気配りができ、個人として配慮される」規模に近づける必要があるのだろう。そして、その規模は「『巨大さによる合理化』に毒された社会の中で条件づけられたわれわれが考えているよりもずっと小さい単位」であるはずだ。

 平成の大合併とかいうありかたは、それにまったく逆行している。


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