「リハビリテーションを問い直す」
工場に送られてきている「リハビリテーション」(鉄道身障者福祉協会)という雑誌、工場の廊下にぶらさげてあるものの、いままでほとんど読んだことがなかったのだが、今日、偶然手にして、ここに掲載されている論文が目に付いた。
リハビリテーションを問い直す(1)
「統合」の視点と方法について
河野康徳
「リハビリテーション」504号(2008年6月)集録
以下、気になる記述を抜書き&少しコメント
====
障害者の自立が介護なしにはありえないことは、自立生活運動がもたらした功績の一つですが、そのことは、障害者の自立が支援者との相互依存関係によって成り立つものであることをアピールすると共に、実はそのこと自体が人間生活のすべてに通じる基本的なルールであることを浮き彫りにしました。つまり、「介護」とは単なる身辺動作等の介助に矮小化されるものではなく、「介護」を通じて成り立つ「自立」を含むものとしての「ケア」が障害者問題の本質であり、そのことは、M・メイヤロフが『ケアの本質』で説くところです。 29p
===
「ケア」が障害者問題の本質であるかどうかっていうか、そもそもが障害者問題に本質があるかどうかも、ぼくにはわからない。この1971年に出ていまも増刷を続けているという本を読んでないし。だいたい「本質」とかいう言葉が使われなくなってるよね、昨今。本質なんかないという言い方はよく聞く。どうなんだろう。この場面では戦略的本質主義も使えそうにない。
===
・・・通念的な自立の理解は錯誤であって、「他者のケアあってこその自立」なのです。社会福祉法や障害者自立支援法で掲げる「自立支援」も、その意味で「他者のケア」の在り方が問われているといえます。 30p
===
ここはそうだと思う。
===
六年前に「障害学会」が発足したのは、蛸壺化するリハビリテーション学と障害問題の本質を避けようとする諸科学の現実を憂慮するところから出たものと言えますし、障害学会第一回大会のメーンテーマが『「障害」概念の脱構築』であったことは、障害問題の本質を問い直すべき現在の状況を象徴しています。
===
いま、障害問題とは何かということは問い直すべきなんだろうが、それは本質を問い直すということではないだろう。だって、脱構築なんだし。それとも、構築主義を脱して、また本質主義にもどるのか、とかいう茶々を入れたくなったりもする。ま、言いたいことはなんとなくわからないわけじゃない。ぼくが言いたいのは、本質とかいう言葉は使わないほうがよさそうだということ。それはともかく、この後に書かれてることが気になる。
リハビリテーション学と障害学の理念や方法を対比させたあと、障害学の理念などについて以下のように書く。
===
この理念と方法の目指すものは、「障害」を厭うべき疎ましい個人の属性とする世間の常識に迎合する危うさを超克することと思いますが、「リハビリテーション学」と「障害学」の統合はできないのでしょうか。 332
===
このあたりに著者が言いたことがあるのかと、鈍い僕はここでやっと見えてくる。
この後で、個人モデルと社会モデルの二項対立を批判し、
==
改めてこのことを持ち出したのは、「リハビリテーション学」・「障害学」・「障害者当事者運動」三者の提携あるいは統合の可能性について問い直しておく必要があるからです。 32p
==
この前に書いてある(ここでは引用してない)「このこと」とここに引用した文章の連関がよくわからないが、とにかく、その手がかりとして、JD,DPI,JDFなどの障害者運動を紹介することから、この論文の本題に入っていきそうなのだが、それぞれの団体を紹介して、この号での掲載分は終わっている。ただ、この紹介を読んでも三団体のことはよくわからない。とりわけ、JDとJDFがどう違うのかとか、
問題関心の場面はとても近いところにあると思うが、向かう方向はちょっと違うところにありそうだ。
ともあれ、続きがどうなるのか、ちょっと読んでみたい。これもとても偶然に目にしたんだし、読めるかどうかわからないけど。
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「リハビリテーション」504号(2008年6月)集録
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障害者の自立が介護なしにはありえないことは、自立生活運動がもたらした功績の一つですが、そのことは、障害者の自立が支援者との相互依存関係によって成り立つものであることをアピールすると共に、実はそのこと自体が人間生活のすべてに通じる基本的なルールであることを浮き彫りにしました。つまり、「介護」とは単なる身辺動作等の介助に矮小化されるものではなく、「介護」を通じて成り立つ「自立」を含むものとしての「ケア」が障害者問題の本質であり、そのことは、M・メイヤロフが『ケアの本質』で説くところです。 29p
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「ケア」が障害者問題の本質であるかどうかっていうか、そもそもが障害者問題に本質があるかどうかも、ぼくにはわからない。この1971年に出ていまも増刷を続けているという本を読んでないし。だいたい「本質」とかいう言葉が使われなくなってるよね、昨今。本質なんかないという言い方はよく聞く。どうなんだろう。この場面では戦略的本質主義も使えそうにない。
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・・・通念的な自立の理解は錯誤であって、「他者のケアあってこその自立」なのです。社会福祉法や障害者自立支援法で掲げる「自立支援」も、その意味で「他者のケア」の在り方が問われているといえます。 30p
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ここはそうだと思う。
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六年前に「障害学会」が発足したのは、蛸壺化するリハビリテーション学と障害問題の本質を避けようとする諸科学の現実を憂慮するところから出たものと言えますし、障害学会第一回大会のメーンテーマが『「障害」概念の脱構築』であったことは、障害問題の本質を問い直すべき現在の状況を象徴しています。
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いま、障害問題とは何かということは問い直すべきなんだろうが、それは本質を問い直すということではないだろう。だって、脱構築なんだし。それとも、構築主義を脱して、また本質主義にもどるのか、とかいう茶々を入れたくなったりもする。ま、言いたいことはなんとなくわからないわけじゃない。ぼくが言いたいのは、本質とかいう言葉は使わないほうがよさそうだということ。それはともかく、この後に書かれてることが気になる。
リハビリテーション学と障害学の理念や方法を対比させたあと、障害学の理念などについて以下のように書く。
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この理念と方法の目指すものは、「障害」を厭うべき疎ましい個人の属性とする世間の常識に迎合する危うさを超克することと思いますが、「リハビリテーション学」と「障害学」の統合はできないのでしょうか。 332
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このあたりに著者が言いたことがあるのかと、鈍い僕はここでやっと見えてくる。
この後で、個人モデルと社会モデルの二項対立を批判し、
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改めてこのことを持ち出したのは、「リハビリテーション学」・「障害学」・「障害者当事者運動」三者の提携あるいは統合の可能性について問い直しておく必要があるからです。 32p
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この前に書いてある(ここでは引用してない)「このこと」とここに引用した文章の連関がよくわからないが、とにかく、その手がかりとして、JD,DPI,JDFなどの障害者運動を紹介することから、この論文の本題に入っていきそうなのだが、それぞれの団体を紹介して、この号での掲載分は終わっている。ただ、この紹介を読んでも三団体のことはよくわからない。とりわけ、JDとJDFがどう違うのかとか、
問題関心の場面はとても近いところにあると思うが、向かう方向はちょっと違うところにありそうだ。
ともあれ、続きがどうなるのか、ちょっと読んでみたい。これもとても偶然に目にしたんだし、読めるかどうかわからないけど。
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