『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その8

「その7」は



第三章 仕事と余暇 

1 歪んだ仕事は歪んだ社会しか生まない

ここで、シューマッハは人間を蝕む仕事の実態について書く。
こんな文章から始まる。
 ダンテが地読絵を描くとすると、工場のアセンブリーラインの、頭を使わない、反復また反復の労働の退屈さをそこに含めていただろう。その退屈さが創意を失わせ、頭脳をむしばむ。それなのに、何百万人ものイギリスの労働者は一生の大半をそうした仕事に捧げているのだ。

驚くべきことは、「タイムズ」紙上の右の一文が、従来の同趣旨の文章と同様まったく注目されなかったことである。・・・といった強烈でひどい言葉は・・・非難、叱責などは一切受けなかった。・・・人々はそれを一読して、たぶん溜め息をついてうなずき、それからまた仕事をつづけた。  94-95p

 そして、本来、人間を仕事に適応させるべきではなく、仕事を人間の必要に適応させることが大切であるはずなのに、労働者のモチベーションや経営参加に関する研究はあっても、人間の創意を失わせたり、頭脳をむしばむシステムの妥当性や健全さについて疑いをさしはさむような研究はない、という。
 小関智弘が鉄を削る話でみごとに表現しているように、他から見ると退屈な反復に見えるかもしれない仕事の中にも創造性を発揮できる箇所はたくさんある。ぼくがかかわっている印刷業にも。
 だから、反復の作業を貶めることには、ちょっと抵抗がある。各種の退屈な反復だと外から見える作業の中にも同様に創造性を発揮できる部分はあるのだと思う。シューマッハはここで、そのことにどれだけ敬意を払っているのか、よくわからない。そこは気になるところだ。
 ただ、ここで彼が提起する人間の仕事の三つの目的のことはやはり考えてみたいと思う。

三つの目的とは
1、必要な財とサービスないしは有益な財とサービスを社会に供給すること
2、良き管理人のように、各人がその才能・能力をつかい、またつかうことによってそれを完成させること
3、以上のことを、生来の自己中心主義から脱却できるように、他人に対するサービスとして、また他人と協力しておこなうこと

これは内橋さんが言っていた社会的有用労働という考え方にもつながっている。時代的にはシューマッハの方がずっと古いが。そして、社会的有用労働という考え方より、少し広いことを言っているようにも思う。
 ちなみに、この本に参照されている英文のタイトルから推察すると、このエッセーは74年に書かれている。
Insane Work Cannot Produce a Sane Society
(リサージェンスVol.5 No.2 May-June)

そして、以下の文章を読むと鉄を削ったり印刷したりというような仕事に創造性を見つけることと、そこで生み出されてるものの価値のギャップをどう考えたらいいのか、という問題をつきつけられる。
「より大きく、より早く、より豊かに」というのが人間の仕事を歪め、その結果、ある法王が述べたとおり、「工場から死せる物が改良されて世に出てくるが、一方そこにいる人間は腐敗し、堕落しており」、しかも環境悪化と地球の再生不可能資源の急速な枯渇を招いているのを知るとき、それが依然としてわれわれが考えうるただ一つの発展路線なのであろうか。  101p

そして、シューマッハは「人間の顔を持った技術」の必要性を説き、ここで5000ポンドのユニットというような、ちょっと具体的な提案もしている。このちょっと具体的な提案の部分がシューマッハをさらに面白くしている部分だとぼくは思う。「規模の臨界点」のところにも具体的な例はあったが、その例を実行することが成功につながるかどうかは別として、そういう具体性を提起する実務者の側面が面白いと思う。
 それは、ともかく人間の顔を持った技術について、以下のように説明する。

人間の顔を持った技術とは、現在の巨大主義に対抗して小さいことを選ぶだけではなく、複雑さに対抗して単純さを探る。いうまでもなく、物事をどんどん複雑化するよりもう一度単純なものに戻すのは、はるかにむずかしい。私は簡素な生活――が多くの利点があるが――そのものを語っているのではなく、生産、分配と交換の過程、同時に生産物のデザインのことを話しているのである。複雑さというものは・・・、多くの場合、仕事の人間らしい内容を封殺し、人々を専門家にしてしまって英知を失わせるような、特化と分業をもとめる。したがって、それは悪とみなすべきであり、この悪をはびこらせず、最小限にとどめるのが人間の知性――工業部門での調査・開発――の任務である。  103p

そして、結語では、この本の原文のタイトルどおり、「歪んだ仕事からは正気の社会は生まれない」という。

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