「覚醒のネットワーク」読書会のために

気流舎読書会では前回と今回「覚醒のネットワーク」(上田紀行著)を読んでいて、今日で終わる。

前半は用事がある上に、体調が悪くて、残念ながら今日は出られそうにないし、ゆっくり書いている時間がないので、ちょっとだけ感想。


先週の読書会で、自分を押しつぶしている明確な敵がいる人や、最底辺に押しやられているようなワーキングプアにこの覚醒のネットワークは伝わらないという話があった。


確かに伝えることが難しい部分っていうか、どうしても伝わらない部分もあると思う。だけど、伝わりそうにない人にこそ伝えたいメッセージもこの本の中には込められているのではないか。


問題はそれがこの本のどういうところで、どのようにそれを伝わるようにするかということだろう。



後半を読むと、ボランティアの評価とかNGOの評価とか甘すぎるものも少なくない。確かに時代制約もあるだろう。ボランティア元年と呼ばれた1995年よりも前に書かれた本だし、日本にNGOなんてものが知られるずっと前に書かれた本だ。

そう、1995といえば、今回のオルタの特集。雑誌としてはすごくよくできていると思う。ぜひ、いろんな人に読んで欲しい。ぼくは印刷にかかわって、ゲラを見ていて、読むのをやめられなくなったほどだ。ただ、この仕事で印刷事故を起こしてしまって、・・・、その話はまだ痛くて書けない。)



そう、覚醒のネットワークの話しだ。


去年、読んでいたホロウェイのCHANGE THE WORLD WITHOUT TAKING POWER

(参照



につながる部分もある。


こんな風に書かれている。

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古い型の運動は「権力」を握っている「強者」を「弱者」が打倒し、権力の座から引きずり降ろすことを目標としていました。しかし、新しい運動の目標はそうした表面的な関係の逆転ではありません。自分が権力を握って強者になろうとするのではなく、この世界に強者と弱者を生みだす構造そのものを超えていこうとするのです。

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確かに、ここでは一見、ホロウェイと上田さんは一致している。


しかし、なにか大きな部分が異なっているように感じる。ホロウェイはこの本をこんな風に始める。(以下、tu-taによるいいかげんな超訳)

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始まりは叫び。私たちは叫ぶ


 書いたり、読んだりするとき、その始まりが言葉ではなく、叫びだってことは忘れられがちだ。


 省察の出発点は「反対」「否定」「闘争」。思想は激情から生まれるのであって、理性とか、存在の神秘について椅子にもたれかかって理性的に判断するとかいうような、伝統的な「考える人」のイメージから生まれるわけじゃない。


 私たちは否定から、そして、不協和音からはじめよう。不協和音はいろんなあらわれかたをする。あいまいな内容のないつぶやき。フラストレーションの涙、激怒の叫び、・・・。

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そして、ホロウェイはメッセージが否定的であることを否定しない。運動がもっと肯定的であるべきという言説に意識的に対抗しているように読める。NoはNoなのだ。そのあたりのところは覚醒のネットワークに欠けているっていうか決定的に異なる部分ではないかと思う。

否定的だと伝わらないという言説があるが、NOというのをもっとでかい声で言っていいんじゃないかと思う。NOをもっとポジティブに。



時間がないので、書きたかったことを繰り返そう。


そう、この本の中に大切なことは書かれていると思う。社会運動とスピリチュアリティの問題。個の内面と社会運動の連関。そのあたりのことを考える出発点になりえる本だと思う。


そのメッセージがワーキングプアの人たち、具体的な敵に直面している人たち、最底辺に置かれている人たちに伝わらないとすれば、どうすれば、どのように伝えることができるのか、そんな風に考えたいと思う。確かにこの本をそういう人に読ませても、多くの反応は「え~っ?!」とかいう感じかもしれない。その先はこの本の仕事ではない。


そんなことが問われているんだと思った。


弁当作り&出勤時間なので今日はここまで






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