エンパワメント

若い友人のブログにコメントを書いたので、ここにも記録しておく。


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森田ゆりさんが「エンパワメントと人権」という本の中でこんな風なことを書いています。

==適当な抜粋及び要約==


エンパワメントとは「力をつける」ということではない。それは外に力を求めて、努力して勉強してなにものかになっていくということではなく、自分の中にすでに豊かにある力に気づき、それにアクセスすること。


なにものかにならなければ、何かをなしとげなければという未来志向の目的意識的な生き方は、裏返せば今の自分はだめだという自己否定と無力感を併せ持つ。


エンパワメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる、自己尊重の心は自分一人で持とうと意識して持てるものではない。まわりにあるがままのすばらしさを認めてくれる人が必要だ。無条件で自分を受け入れ、愛してくれる人が。


人ではなくスピリチュアリティがそれを培ってくれることも多い。神様でも仏様でも大地でも宇宙の心でも、あるいは友人でも、セラピストでも、家族でも、わたしという存在をあるがままに受け入れ受容してくれる存在との対話と交流がなければ、わたしたち人間は自分の大切さを心から信じることはできないようだ。


==要約&抜粋ここまで==


大丈夫、**はいい奴だからなんとかなるよ。きっと。

根拠はあんまりないけどね(笑)。



==コメントからの転載ここまで==


この森田さんの本、ひさしぶりにひっぱり出し、こんなメモを書いてみた。

これを書き始めてから、自分のブログの中も検索すると、森田ゆりさんのエンパワメント定義をいろんなところで使っている。


こんなのもあった。


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エンパワメントという考え方。

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エンパワメントとは「力をつけること」ではない。それは「人と人との関係のあり方だ。人と人との出会いのもち方なのである。おとなと子ども、女と男、女と女、わたしと障害者、あなたと老人、わたしとあなた、わたしとあなたが互いの内在する力にどう働きかけるかということなのだ。…お互いがそれぞれに持つ力をいかに発揮し得るかという関係性なのだ」


エンパワメントとは、「自分をあるがままに受容し、自分の生命力の源にふれることだ。裸足で地面をしっかり踏みしめ、大地の生命力を吸い上げることなのだ」。(森田ゆり・エンパワーメントと人権)

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この本、もう1回読んでみようかなぁ。

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