エンパワメントと人権(読書メモ3)
タイトルが変わっていくが、中身としては「エンパワメントと人権」の読書メモの3回目。
以下にまた抜書きなど、最後に少し感想。
1章
2節 権利ってなに?
私は「人権」を「人が人間らしく生きるために欠かせないもの」と定義
衣、食、住の基本的人権とならんで、人間は尊厳をもって生きるためになくてはならない「安心して」「自信をもって」「自由に」生きるという大切な人権を持っている暴力とはこの3つの権利を奪うこと
3節 人権意識ってなに?
人権意識とは、知識ではなく、理性ではなく、もっともっと単純なこと、心のありかた
人権意識とは「自分を大切にすること」・・・自分の心とからだを大切にすることだ。
自分を大切にできない人は、他人を大切にすることもできない自分は人間らしく生きたいんだ、との強い思いのない人が他人の人間性を大切にすることなどできないのである。
子どもの人権教育とは・・・子どもたちに自分を大切にすることを教えることだ。
4節 自分で選び続けること
ここの要約&抜粋は
にもある。そこに入れてないことだけ以下に
エンパワメントは実はやっかいな作業。時間のかかる作業だ。世間の評価で一喜一憂するわたし、人から受け入れられたいわたし、人に好かれたいわたし、自分の内より外に価値を求めてしまうわたしたち多くのこの性癖は、そう簡単には変わらない。即効薬のエンパワメントなら嬉しいけれど、手間ひまかかるエンパワメントなんていらないという人のほうが実は世の中ずっと多い。
エンパワメントとは自分で選択をしていかなければならないことだ。自分のとった選択の結果は自分で引き受け、そこからまた新しい選択をしていくことだ。自分で選ぶという自由はすばらしいことだけれど、同時にしんどいことでもある。多数決・・みんなが決めたことだから自分は責任を取らなくてもすむという安心感がある。・・・少数意見は無視され、選択したことがいい結果をもたらさなかったとき、その責任は個人としては誰も取ろうとしない。そういう無責任の方便としての民主主義が日本の職場にも、市民運動のなかにもはびこってはいないだろうか。
間違った選択をしたら修正すればよい
まちがっていようが、・・・その結果は引き受けていかねばならない。結果を引き受けるということは、後悔と自己批判で自分を責めることではなく、要するにそこでまた新しい選択をしていくことだ。まちがった選択をしてしまったのなら、今度はそのまちがいを修正する選択をしてゆけばよい。
あなたが、わたしが個人としてその選択を連続して引き受けていくという心づもり。そのときはじめてあなたにしかない、わたしにしかないパワーが揺るがないものとなる。エンパワメントとはそのプロセスのことである。
==一章からの抜書きここまで==
エンパワメント(その2)
で抜書きしなかったパワーについての説明
==
パワーは二種類にわけることができる。否定的なパワーと肯定的なパワー。否定的パワー 暴力、抑圧、権力、支配、戦争、いじめ、虐待肯定的パワー 知識、経験、技術、自己決定、選択の自由、援助、共感、信頼、愛などで、なかでも重要なのは権利意識 権利意識とは自分を大切にする心=セルフエスティーム(自己尊重)
否定的パワーに対抗する力とは、権利意識を核にするこの肯定的パワーの諸要素である。エンパワメントとはこの諸要素を活性化すること
エンパワメントとは肯定的パワーをもってこの外的抑圧と内的抑圧の両方を取り除いていくこと、人びとの心を深く浸透している無力感と闘うこと、ともいえるだろう。
ずっと抜書きをしてきたのは、ほとんど共感できたからなのだけれども、このあたりに違和感を感じる部分もある。否定的パワーと肯定的パワーを、ぼくはこんな風にきれいに切り分けることができない。
また、自分を大切にすることと他者の自己尊重を認めることをつなげるための努力もまた必要だろう。「自分をとことん大切にしたら、他者をも尊重できるようになる」というのが、森田さんの主旨だと思うのだけれども、自分を尊重することと他者を尊重することのつなぎめに何か必要なことがるはず。
確かに自己を尊重できない人が攻撃的になったりするということはあるだろうし、自己尊重できて、他者も尊重できるという人も少なくないだろう。しかし、そこがつながらない人もいると思う。そのつなぎめのところに入るのが「共感する力」になるのか。ここで花崎さんの「生きる場の哲学」とつながってくる。
あと、もうひとつ気になったのが、自由や自己選択の持ち上げ方。自由の問題も花崎さんが「生きる場の哲学」で書いている。米国流のプラグマティズムの問題はまた別のところで書こう。
この記事へのコメント
我慢をおぼえなくてはなりませんわね。
自分は
王さまや女王さまではありえない と。
自分に
限界をみとめることが
共同生活を
いとなむうえでは
きっと
大切なんやろうと思います。
それには
自己を、客観視できる
視点の
涵養が、必要です。
科学的なもののみかたは
客観を、涵養しますから
教育は
その点でも、重要だろうと思います。
ひとづきあいの
基本とは
自分にされてはいやなことは
ひとにも
できるだけしない ということでしょうが
それが
できないのは
我慢と
ゆずることを、躾ける
ちゃんとした
家庭教育
学校教育が
なされていないからかもしれません。
おとなが
おとなでないんでしょうね・・・