エンパワメントと人権(読書メモ4)

まず、前回の補足

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確かに自己を尊重できない人が攻撃的になったりするということはあるだろうし、自己尊重できて、他者も尊重できるという人も少なくないだろう。しかし、そこがつながらない人もいると思う。そのつなぎめのところに入るのが「共感する力」になるのか。ここで花崎さんの「生きる場の哲学」とつながってくる。


あと、もうひとつ気になったのが、自由や自己選択の持ち上げ方。自由の問題も花崎さんが「生きる場の哲学」で書いている。米国流のプラグマティズムの問題はまた別のところで書こう。

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と書いた。わかりにくい部分もあると思うので少し補足。

花崎さんの「生きる場の哲学」の副題は「共感からの出発」。以下は本が出てこないので、おぼろげな記憶からの話しだが、花崎さんはこの本のなかで人間の二つの価値軸という提起をしている。自由の拡大と人類の類としての共同性の回復。現代は前者の価値があまりにも肥大して、後者がなかなか顧みられていないので、そのバランスを後者の方に戻していくことの必要性が書いてあったと思う。だから、森田さんのように自由とか自己選択を言われると、その前提をもっと強調した方がいいのではないか、あるいはその危険も指摘した方がいいのではないかと思えてくる。



さて、2章の抜書き&メモ


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私は・・・その仕事の中で「差別」を「力をもたされていない人びとのグループ全体、またはそのグループに属する個人に対する偏見と抑圧」と定義していた。「力をもたされていない人びと」のことをよく日本では「弱者」と呼んでいるが、その人びとは決して弱者なのではなく、権利や力を奪われてきたために弱者という社会的な位置に押し込められてきたにすぎない。47p

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エンパワメントとは差別される側、被害を受ける側、弱者とさせられてきた者の側、・・・に立つことを選んだときに初めて可能になる関係のありかたである。その立場を明確にすることによって社会から受ける批判に立ち向かうことである。「中立」とか「客観的」「科学的」などといった立場煮に逃げ込んで、抑圧する側にくみしてしまわないことだ。50p

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・・・。どうせなにもできない。なにをやってもだめさ。いつもこんな目にあっているから、いまさらなにをしても無駄だ。自分も悪かったんだから自業自得だ。もう死ぬしかない。そのような無力感に支配されているのが暴力、いじめの被害者の典型的な心理である。その彼らが道具を使って穴から出ようとする意思のことを別名、権利意識というのである。自分を大切にする心だ。こんな穴のなかにいつまでもとどまっていたくない。穴から這い出して自由に行動したい。自分はこんな穴の中にいつまでもいるに値する存在ではないんだという自己尊重の気持ちのことだ。エンパワメントとは、この自己尊重の心を活性化させることにほかならない。54p

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エンパワメントの実践にはコミュニティーの理解が不可欠だ。57p

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コミュニティーはこの肯定的パワーの多くを提供してくれる場である。59p

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 自分で事をなすのだという自力派は、同時に「他人はどうでも自分だけは、人さまはどうでもうちの家庭だけは」という排他性と競争原理を生みだす。そして生活のあらゆる部分での競争意識に支配される。(中略)。あたかも人と比較することでしか、自分の価値を見いだし確かめることができないかのように、人間は誰でもただ存在するというだけですでに限りなく豊かな価値をもっているという真理を信じることができないのだ。

 また自力派は「話を聞いて」と言ってくる人、「助けて」と言ってくる人たちを快く受け入れることができない。同時に自分自身が本当に困ったとき。人に助けを求めることもできない。多くの現代人の陥っている疎外と孤立の悪循環がここにある。62-63p

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 エンパワメントは断たれてきたつながりを繕い直すこと、あなたとわたし、あなたと隣のおばさん、あなたとバスの中で隣にすわった子どもとの出会いと交流を取り戻す作業、すなわちコミュニティーの創造なしにはありえない。64p

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メモ


そう、ここでは森田さんはコミュニティの大切さを書く。この視点がとても大切だと思う。

しかし、コミュニティを大切にすることと自己選択の間にコンフリクトが生じることも少なくない。そして、どんなコミュニティを再生していくのか、というか、コミュニティをどんなものとして再生させるのか、そのあたりのことも問われてくるのだと思う。ココペリさんが


で以下のようなことを書いている。

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ある社会の若い世代の大多数にとって、伝統文化よりも消費文化のほうが「楽しい」と思われるようになったとき、その社会の伝統文化は崩壊に向かうのだと思う。

それをどう反転させて「懐かしい未来」に迎えるかに、人類の未来がかかっている気がする。

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確かに消費文化にも抗しがたい魅力はあるし、伝統文化にはうんざりするような桎梏もついていたりする。(伝統文化を大切にするというのは単純に昔のものをそのまま残すということではないはずだ)


そんな中で消費文化に抗する価値軸をどう作っていけるのか。消費文化を支えているものの多くは虚構の広告がもたらす作られた欲望なのだろうが、その広告は気持ち良く生きていきたいとか、自分らしくありたいというあたりまえの根底的な欲望をもとに作り出されている。消費主義が自らを維持するために喚起する欲望と根底的な欲望をどのように峻別できるだろうか。


「貨幣価値を増殖した奴がえらい」という単純な神話は崩れ始めているように思う。それでは、どのような次を構想するのか。これは山之内さんのいう世界像をめぐる革命でもあるだろう。どうも、明確なひとつのイメージのようなものが導くわけではないかもしれないとも思う。ローカルに始まっている各地でのとりくみを紡ぎ合わせる中で見えてくるものがあるかもしれない。


興味のある人は

11/8~9の「地域のチカラ」シンポジウムへ



とりあえず、そんな作業を続けながら考えていこうと思う。

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