エンパワメントと人権(読書メモ5)

今日は3章「女たちの人権」で付箋を貼った部分の抜書き&メモ

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 性暴力は実は女性問題ではなく男性問題なのである。過去30年間をかけて性暴力の問題を解明し、その対応策、防止策を生み出していったのは女性たちの力だった。一体いつになったら男性たちは「自分はそんな男じゃないから」と無関心を装うことを止めて、暴力の問題を男性全体の問題として真摯に引き受けていくのだろうか。 93p

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差別する側のマジョリティ(数字上ではない)が差別の問題の主体であるというのは、その通りだと思う。しかし、それを自覚することは容易ではない。どうしたら、そのようなことが可能になるのか。その問題をとりあげることができる男性が多数派になるのは困難だろう。しかし、「殴る側の男」の問題に目を向ける男の取り組みも小さいながらあるようにも思う。この本が書かれてから10年以上経過しているが、状況はどれだけ変わったといえるのだろうか。


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 アメリカというプラグマティズム(実践主義)が深く浸透している国に長く住んだためなのか、わたしには、日本の知性はあまりにも思弁と観念が支配的で実践的方法が伴わないように思えてならない。女の生き方、教育、子どもの権利、親子関係、さらには人間関係全般に関して、心構えや理念やあるべき理想像が果てしなく語られているが、ではその理想を実現するためにはどう行動すればよいのか、具体的実践方法となると、ほとんど開発されていない。109p

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 思想とは人の生き方を変えるものであるはずだ。・・・。ならば生き方や関係のあり方をどう変えるのかの具体的、実践的方法論を伴わない思想は、わたしから見るとインテリの知的な楽しみとしか見えない。110p

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米国流のプラグマティズムへの違和感はないわけではない。(どうしてかと聞かれると、困るくらいに理由が言語化できないのだけれども)


しかし、じゃあ、どうするのか、どうやってそれを実現するのかということが欲しいというのは、そのとおりだ。


昨日、ある会でこれを紹介したら、「日本の知性」というのはどうか、という疑義が出された。ここが「日本のアカデミズム」というのであればわかる、しかし、草の根の実践的な「知」はあるのではないか、というような意見だったと思う。確かにそういうこともある。

しかし同時に、日本の社会運動の多くがよってたつ思想もまた、具体的、実践方法論には弱いような気もする。


具体的な方法の、そのひとつとしてのアサーティブネス・トレーニング。


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 アサーティブ(assertive)とは、日本語に置き換えるのが難しい英単語の中でもとりわけ難しく適当な訳語がなく、英和辞典を引くと、『断言する、主張する、でしゃばる』とあるが、完全な誤訳である。

 アサーティブネスとは自分がなにをほっしているのか、どう感じているのかをまず認識し、それを相手に率直に伝えるコミュニケーション・スキルである。111p

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感情にまかせて発言して(あるいは発言できなくて)、伝えるべきことを伝えられないことは少なくない。もっと、うまく話せば、伝えられたはずのことも、伝え方を失敗したために思いがかなわないという経験は職場でつい先日もしたばかりだ。森田さんはアサーティブであることが練習なしでもできるひとも少しはいるが、圧倒的多数の人はその力を持っていないから、練習が必要で、逆に言えば、誰でも練習しさえすればアサーティブになれるという。そして、「その練習のハウ・ツーを綿密な方法論によって・・・流布させてきたアメリカの女たちの努力に・・・やさしさを感じないではいられない」と。


前に、この本を読んだときも、たぶん、ここで納得していたと思うのだが、しばらくすると、忘れてアサーティブっていうのはわかりにくいと考えていた。今度は忘れないようにしよう。とりわけ、「英和辞典を引くと、『断言する、主張する、でしゃばる』とあるが、完全な誤訳である」というのは、とてもわかりやすすい説明になっている。


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父親の母親へのDVがもたらすトラウマがもたらす問題を森田さんは6つ挙げている。

・健全な自我の発達の阻止によるセルフエスティームに苦しむ

・両親の間の争いは自分の責任だと思う

・父の暴力がいつ起こるかわからないので家庭内は不安定

・心理的自己防衛のため自分の中に閉じこもる

・孤立、家のことを誰にも言えない

・もっとも身近なおとなが、あるときは優しく楽しく、あるときは冷酷、暴力的なので、子どもは情緒的不安定に 

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 障害者への人権侵害、マイノリティーへの人権侵害、子どもへの人権侵害、就労上の人権侵害など。それがどのような行為であれ、すべての人権侵害行為に共通することは人権を侵害された側が受ける三つの心理的抑圧体験

 恐怖又は不安

 無力感

 行動の選択肢の剥奪 133p

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ここを読んでいて感じたのは、このような人権侵害・差別を受けた側が、こんどは人権侵害を犯す側になりかねないという危険の問題。差別を受けてきたものが差別する側に回る構造の連鎖をどう断ち切っていくか。たとえば、ネット上で散見される目を覆いたくなるような他者への差別や罵倒、その主体も、もしかしたら、そこまで生きてきた歴史の中で傷つけられてきた過去を持っているのかもしれないと思う。


また、これはDVの被害者が加害者になる例が多いという話だけでなく、もっと広いところと共通することもあるのではないだろうか?日本で差別されていた人が満州の植民者として、そこに以前からいた人を追い出したり、欧州で差別されていたユダヤ人がパレスチナで抑圧者になる、というような。


小さな世界での暴力の連鎖と国家的な暴力の連鎖、もちろん、抱えている問題の質は異なることが多いだろうが、重なる部分もあのかもしれない。「戦争は人の心のまず中で起きている」というようなティク・ナット・ハンの主張はこのあたりのことと連関するのだろう。


社会の構造の問題と人の心の問題、両方へのアプローチが必要だと思う。どちらか一方だけに偏りがちな社会運動家とスピ系の人びと。それをどう統合することができるのか、という課題はそれなりに重要なのではないだろうか。



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 暴力が凶暴化し、殺人にいたるのは妻が夫のもとを去った後が多い。・・・

 だから、妻に対して「別れなさい」と助言することは効果がないばかりか、しばしば逆効果・・。137p

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こう書いたあとで、具体的なDV被害者への対応の方法が書かれている。



森田さんはDVを家庭内暴力ではなく、内輪暴力とすることを提案している。日本ではこの言葉が子どもから親への暴力をさす言葉として誤解されがちだからという理由で。確かにこの言葉が出てきたときは子どもから親への暴力を説明するときにこの言葉が使われてきた。この本が出てから十年経って、DVに対する理解も多少はひろがってきていて、そんな風に誤解されることも少なくなっているかもしれない。


しかし、内輪暴力っていうと学校や職場のクラスやサークルとかの狭い範囲の中の、そういうものも含むようなニュアンスもあるから、少し違うようにも思う。しかし、いっしょに住んでいない恋人からの暴力も含むということなどを考えると、「家庭内暴力」というのはやはり誤解を生みやすい。「身内暴力」としたらわかりやすいかもしれない。





==3章の抜書き&メモここまで==

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