エンパワメントと人権(読書メモ6)

自分でもあんまり予想しなかったけれども、この読書メモでひっぱっている。


これ、すぐ読めちゃうような薄い(物理的に)本なので、ぜひ、いろんな人に読んでもらいたいと思う。繰り返し、書いているけれども、このブログは自分用の読書メモなので、大切な部分の紹介が抜けてることもあるはず。


さて、今日は4章のメモ。4章のテーマは多文化共生。

森田さんは多文化共生にダイバーシティという英語をあてる。


今日はちょっと違和感の残った部分から抜書き&コメント


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 少子化社会を迎えて、労働人口の激減を目前に控えている日本も実はアメリカ以上に同じような準備をすることが政策レベルで早急な課題なのだ。今まで労働力から排除してきた多民族、女性、障害者の雇用を積極的に進めていかなければ、10年、20年先の日本の経済は今以上に危ういものとなってしまうだろう。150p

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これは「現実が意識を変える」という文脈の中で書かれている。障害者雇用はぼくがずっと考えてきた課題でもある。障害者雇用と労働人口の減少をつなげて考えることは可能ではある。しかし、労働人口の激減問題=生産力の不足の問題と考えると、足元をすくわれかねない危険がある。「生産性」というような物差しで考えると、雇用に結びつかない障害者も少なくない。現状で一定の生産性があるにもかかわらず、労働市場から排除されている障害者の問題もあり、それも考えなければならない課題ではあるが、とにかく、働きたい障害者には働く権利があるのだとぼくは思う。


ここから先は意見が分かれるところだが、ぼくは、「働く権利」だけでなく、「働く義務もある」と考えている。もちろん、「働く」ということの定義がいまのままではだめだ。そして、すべての働きたい障害者に合理的に配慮された働く場が準備されていなければならない。その人ができることから、一人ひとりの「働く場」を確保することは可能だとぼくは考えている。たとえば、ロックトイン状態のALSの人なら、その人が呼吸器をつけて、そこに生き続けていることをその人が「働いている」と認定すればいいと思うわけだ。これなら、すべての人に「働く場」を確保することは可能になる。そのような準備をした上で、「働く義務」というのを主張するのは悪くないとぼくは考えている。この認定を誰がどのように行うかというのは難しいが、基本的には申請にそって考えるというようなことが出来ないかと思っている。


公平を期して補足すると、森田さんは162pで「効率と競争は違いを排除する」だから、日本はもうそろそろその呪縛から自由になってもいいのではないか、とも書いている。



あと、「多民族、女性、障害者の雇用を積極的に進めていかなければ」という、この多民族という問題をどう考えるかという問題も小さくない。労働力の国境を開くかどうかという問題として。自民党、経済界がいろいろ問題をかかえつつも、移住労働者の受け入れに積極的になっていること、そしてその問題へのぼくの考え方は


にも書いたばかりだ(移住連のMネットのこれから出る最新号もこのテーマを特集している)。

いまの日本で労働力不足の問題だけを解決するのはそんなに難しい話ではない。国境を開けさえすればいいのだから。これについては上記のURLに書いたから、ここでは繰り返さない。





読書メモは続く


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 人は自分の痛みへの共感が得られないと、他者の痛みを理解できないどころか、他者を攻撃するようにすらなる、・・・。・・・・そのことがわたしたちの差別意識のひとつの核になっている・・。157-157p

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これは、読書メモ5


で書いた「人権侵害・差別を受けた側が、こんどは人権侵害を犯す側になりかねないという危険の問題」にも直接つながってくる。それに連なるこんな記述もある。


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 差別の構造は実に入り組んでいる。だから差別する人、される人、という単純化した図式を見せても人びとの差別意識はなくならない。むしろそれは、あの人たちよりも私たちの受けてきた差別のほうがもっとひどかった、といった被差別体験者の間の差別深刻度の競争を生んでしまう。

 あなたは差別する側なのですよということを強調することで得られることはあまりない。ただ一つあるとしたら、それは差別されてきた人たちには与えられてこなかった自分の特権に気づくことができることだ。差別されている人がかわいそうと思うのではなく、自分が当然のこととして持っている権利をこの人は剥奪されてきたという現実に気づくことができたとき、その気づきは積極的な行動へとつながり得るからだ。159p

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続いて、人は違うという話がでてくる。その違いを無視して「平等に扱われる社会がいいのかというと、事はそう単純ではない」と森田さんは書き、そこに続けて「わたしがわたしであること」という節がくる。そこでは違いの大切さが書かれている。在日コリアン、性虐待のサバイバー、未婚の母、それらは「わたしという大切にしていきたい自分の一部分、あるいは主要な部分なのだから、その違いを、みんな平等、みんな同じ人間なんて言葉でいっしょくたにされては困る」と書く。「わたしがわたしであることのこだわりを捨ててしまったら、尊厳を持った人間として生きられない」とも。


最後にアファーマティブ・アクションの説明とその必要性が書かれていて、この章は終わる。

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