活動家として読む山之内靖さん

2008-10-25の午前中、ぼくが山之内さんをどう読むかという簡単な発表を行った。

その時の、資料が出てきたので、若干のつけたしを行って以下に転載。
この資料、ほとんどがこのブログに書いてきたことの寄せ集め。

その発表へのコメントとしては、引用ばっかりじゃなくて、自分の言葉を多用せよというものだった。

ま、読み返してみると確かに引用ばかりだ。だけど、言いたいことは、先にぼくより賢い人が言い尽くしているんだけど、どうしたらいいのか。ま、言い回しを変えて自分の言葉にするだけなら、できるかも。


以下にそのときの発表メモ
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2008-10-25

「あまり山之内先生の理解に邁進するよりも,相手の問題提起を受け止めて,活動家として、どう考えるかを提起すれば良い」というM寺さんのお言葉に甘えて以下

最初に彼の本で感銘をうけたのは

マックス・ヴェーバー入門の以下のくだり
 ヴェーバーによれば、市場メカニズムは、その存立が可能になるための条件として、内面的な――つまり、倫理的・道徳的な――動機づけが必要です。このようにヴェーバーの方法は、社会的行為の内面的動機づけに注目するものであり、そのために行為の理論と呼ばれています。また行為を動機づけている文化的意味への共感と理解を中心に組み立てられていることから、理解社会学と呼ばれることもあります。しかし、だからといって、ヴェーバーは外面的な客観法則を無視したわけではありません。むしろ問題の中心におかれていたのは、行為の内面的動機づけと外面的な客観法則との間の、複雑で時には逆説的でもある関連を解明すること、これでした。大塚久雄教授がヴェーバーの方法を「複眼的」と呼んだのは、そのためです。(『社会科学の方法』1966年)16p

 「人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(ターンテーブルのルビ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。」18p
注:参照 ポランニーとの対比

活動家としてのぼくの関心は、そのターンテーブルをどう動かしたらいいのか、どのような条件でターンテーブルが動くのか、ということ。

で、この抵抗主体の行為動機に関連して、「受苦者のまなざし」では以下のように触れている。
ネグリとハートの〈帝国〉の議論が、その外見から注目されるほどのインパクトを持ち得ないのも、これと同様な限界にかかわっているであろう。彼らの場合、マルチチュードのもつ無限定的な流動性と多様性の指摘にもかかわらず、この〈帝国〉の抵抗主体が行為動機のレヴェルにおいてどのような新しさをもつことになるかは明らかではない。
また、世界像については、以下のように語られる。
人間はいつの時代においても、・・・有限な存在として「受苦的」に生きるのであり、その「受苦的」な生の条件のなかで、時代を支配しようとする権力や潮流と闘わなければならない時がある。その闘いは、何世紀に一度というほどの長期の歴史的動態のなかで、時には既成の世界像――時の支配的潮流が正当化する世界像――と正面から衝突しなければならないこともある。「マルクス主義以降のマルクス」が語らなければならないのは、まさしく、この「世界像レヴェルの転換」をめぐる闘争についてなのである。「世界像レヴェルの転換」を呼びかける要素を自ら放棄してしまった「後期マルクス」には、もう可能性はない。そのことの自覚の中から、新しいマルクスへの模索が始まるであろう。

 小沢が語っている次の言葉は、意識せずして「マルクス主義以降のマルクス」の課題を語っている。「素手のまま関係のなかで生きるおとなたちが、網の目のようにつながる力。その力と中身がわたしたちにいっそう強く問われる時代が、これからやってくる。」
この「世界像レヴェルの転換」をどう実現していくのか、それこそが課題だ。
ちなみにこの具体性で思い出したのが『エンパワメントと人権』(森田ゆりさん)の以下の記述
 アメリカというプラグマティズム(実践主義)が深く浸透している国に長く住んだためなのか、わたしには、日本の知性はあまりにも思弁と観念が支配的で実践的方法が伴わないように思えてならない。女の生き方、教育、子どもの権利、親子関係、さらには人間関係全般に関して、心構えや理念やあるべき理想像が果てしなく語られているが、ではその理想を実現するためにはどう行動すればよいのか、具体的実践方法となると、ほとんど開発されていない。109p

 思想とは人の生き方を変えるものであるはずだ。・・・。ならば生き方や関係のあり方をどう変えるのかの具体的、実践的方法論を伴わない思想は、わたしから見るとインテリの知的な楽しみとしか見えない。110p

現代をとらえる問題意識
・・・その他の諸文明はヨーロッパ文明よりはるかに長い歴史をもち、質の高い文化をもっていたにもかかわらず、ヨーロッパを中心として近代文明が世界に覇権を唱えていらい、どの地域もヨーロッパから始まった近代科学技術文明に、抵抗しながらも組み込まれていくという状況が、今も目の前に進んでおります。そのような動向が17世紀以来ずっと続いてきているわけですけれども、しかし、同時に西欧近代の科学技術文明の方向を、――そのプログレス、進化という動向を――、そのまま手放しで前提とするわけにはいかないという状況がすでに現れて来ているのも確かです。「地球環境の危機」はその最大の問題点であります。「技術」を放棄するということもできないわけですけれども、しかし、「技術」の発達を通して、さまざまな、今解けていないような諸問題もすべて解かれていくのだという楽観的な前提に立つことが、どうも、少しどころか、かなり難しいということは、おそらく多くの人々が感じ取っているところだと思います。実感としてそうなってきていると思います。
その<<「環境の危機」を通して「初期マルクス」への関心が再生してくるのだと、考えております>> と山之内さんは言うのだった。
「すべての富の源泉は労働である」というゴータ綱領の言い分は社会主義者の主張ではなく、ブルジョアの言い分で、「自然こそが使用価値的富」を生み出す本来的な源泉であるという根源的な事実が見落とされているからだ。
こんな風に説明した後で、山之内さんは、「この部分は、これまでマルクス主義に共感してきたすべての人々について、自分で読んで欲しい発言です」といい、以下につなげる。

多くのマルクス主義者たちは、労働が富を作り出すということを、マルクスの主張の根本原理だと思ってきたのではないでしょうか。 (中略) 「必要労働部分」・・・。それを超えた「余剰労働部分」については資本家が搾取している。これが資本主義社会の階級関係を決定付けている。本来は人間の労働が富を作り出すのであるが、資本主義の階級関係は搾取を内包している。その搾取された部分を労働者の手に取り戻すこと。これが社会主義革命の課題である。『資本論』は、スッと読むとそう読めます。

 ところが、『ゴータ綱領評註』のマルクスを読むと (中略) 労働の成果をめぐってその配分を論議するのは、要するにブルジョワ的利害のレベルの話に過ぎないということになります。本当の問題というのは、自然が本来的な価値を生み出しているのだということ、このことを認識することである、とマルクスは言います。 (中略) 。

 こうしてみると、『ゴータ綱領評註』を書いた1875年前後からマルクスが死んだ1883年までの「晩年のマルクス」は、どうも『資本論』の世界とは別の世界に住み始めていたのではないか、と思われます。しかも、それは、実は、先祖返りなのであって、『経済学・哲学草稿』を書いた「初期マルクス」のフォイエルバッハ的観点の復元というべきものだったのです。 (中略) とすると、『資本論』のマルクスという、これまで、それこそがマルクスだとされてきた人物と、この「もう一人のマルクス」との間には、どんな関係があったのでしょうか。

 この問いはこれまでのあらゆるマルクス研究、あるいはマルクスの伝記的記述の中で、論じられてきたことのない問題です。この私の言い分には、論証するだけの材料がまだ不十分だという危うい部分があるのは確かですが、しかし、現代においてマルクスがなんらかの意味をもって復元してくるとすれば、こうした問いも、敢えて試みてみなければならないでしょう。 20~21p

山之内さんの環境問題への視点


以下、2006年度フェリス女学院大学学内共同研究の報告書
「都市的遭遇とコスモポリタンな社会をめぐる学際的研究」
この報告書の最初に掲載されている山之内さんの講演記録
「マルクスとヴェーバー」からハイデガーへ
からの引用
 今日の私の話は、環境問題が単なる専門科学の一部に属する話では終わらなくなり。その問題が「近代」という一つの時代の終焉を示す大きな転換として現れてきていること、研究者たちも、そのことを強く自覚し始めているということ、そのことをテーマにするものでした。(中略)。デカルト以来のこの「人間中心主義的」な哲学、つまり「近代哲学」は、いまやその終わりを迎えている。それに替わって「新しい哲学」の登場が予想され、あるいは哲学レベルの根本的な「転回」「変換」が予想されるようになってきている。環境問題は、アメリカでも、最初は「環境倫理学」という分野として括られてきたようですが、いまでは「環境哲学」という名称に取って代わられようとしています。この変化は重大です。というのも、環境問題を「環境倫理学」というタイトルで括ってしまえば、それは、文化や芸術や政治、あるいは技術といった、人間社会の多様な活動領域の一つとして受け取られてしまうからです。

 環境問題は、いまでは、どこかの専門分野の一つとして研究されれば済むといった、そうした安易なものではないということ、これが「環境哲学」を掲げる新たな動向の基調となっているのです。近代の哲学は人間を中心において、そこから世界を客観的に眺めるという姿勢に立ってきました。こうした「人間中心的な世界観」の時代は、すでに過去のものとなったのだということ、こうしたきわめてラディカルな主張が「環境哲学派」の論拠になっているのです。地球全体の生命的連関という観点に立ってみるならば、人間もまた、他の諸生命体と同じレベルに属する共生と共存の関係の中にいるのだということ、こうした「新たな世界観」への変換が不可避のものとなっている。これが「環境哲学」の共通認識となっている、と見ていいでしょう。・・・。
これはヴォルフガング・ザックスの以下の問題意識にもつながる。

彼は「地球文明の未来学」のなかで、こんなことを書いている。
世界中の市民は一体どうしたら生計を立て自尊心を得られるのか?どうしたら世界は、将来世代にとって生命圏を荒廃させることなく、現在よりも倍化する人間にとって友好的となれるのか?

 本書はこうした未来のテーマを考える素材を提供している。

・・・。はっきり言おう。従来の開発モデルの無節操な成功は、失敗より始末に悪い。だが、それならば、経済発展にこれまで参加できなかった世界の80%の人々にどんな対案を提案できるだろうか。

 この角度から見ると、重要な課題はふたつあると考えられる。第一は「西」型開発主義を見直し、その隠された前提や技術信奉、経済成長の脅迫観念、物的生活改善志向を検証すること。そして第二は、「西」型開発モデルとの決別を認めねばならないことである。

 その代わりに私たちは、別の文化を迎え入れる道を探さなければならない。環境への影響が少ない先進技術を創造する、執拗な富の蓄積を打ち切る、手段は質素だが結果が豊かな生活様式を認める、等々。本書はそうした議論の活性化のために書かれた。
16p

長いこと国際開発政策が目標としたのは、賃労働者と消費者で埋め尽くされた社会をつくることだった。・・・・。円滑に機能する政治経済制度へと社会を変貌させるためなら、いかなるコストも惜しまれず、どんな犠牲もいとわれなかった。

 そして確かに奇跡は訪れた。「南」の国々を大波が襲い、歴史は急転回する。だが沖に災厄が潜んでいたことは、今となっては疑う余地はない。経済がついに世界制覇を果たしたまさにそのときになって、社会崩壊と環境破壊が猛威を振るい始めた。・・・。・・・。経済が王座に上り詰める過程で、人や自然にそれほど過酷でない他の選択肢をすべて握りつぶしてしまったからである。

 人間がもっと素直に生きられ、際限のない富の蓄積の虜にならずに済むような経済制度は、どうすれば再構築できるだろうか。この歴史的課題に取り組むには、第三世界の方が創造力を備えているかも知れない。これまでの経緯がどうあれ、経済実績だけがすべてではない生き方をまだ多くの人が覚えているからだ。 48-49p


注:ポランニーの「経済的動機」の理解

「人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない」というヴェーバーの理解と以下のポランニーの動機に関する議論をどう考えるかという課題は残る。
市場社会

 このようにして、社会の他の諸制度とはっきり区別される「経済領域」が誕生した。いかなる人間集団も生産装置が機能しないことには生存できないから、その装置が別個の独立した領域に統合され、そのため、社会の「残り」の部分はその領域に依存する結果となった。(略)。その結果、市場メカニズムが社会全体の生命にとって決定的な要因となった。当然、新しく登場した人間集団は、以前には想像もつかなかったほどの「経済的」な社会になった。「経済的動機」がその世界の最高位に君臨し、個人は、絶対的な力をもった市場に踏みにじられるという苦しみを受けながら、その「経済的動機」にもとづいて行動するように仕向けられた。そして、功利主義的世界観へのこのような強制的な改宗が、西洋人の自己理解を決定的に歪めてしまったのである。

 この新しい「経済的動機」の世界は、一つの誤謬の上に築かれていた。飢餓にしても、利得にしても、それは本来、愛や憎しみや誇りや偏見と同じく、経済的なものではない。人間の動機には本来経済的な動機というものはない。42p

・・・つまり、人間の経済は原則として社会関係のなかに埋没しているのである。こうした社会から、逆に経済システムの中に埋没している社会への変転というのは、まったく新奇な事態であったのである。『経済の文明史  ポランニー経済学のエッセンス』44p

==発表メモここまで==

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