「開発」という言葉をそのまま肯定的に使いたくない
いろいろあって、「開発」という名称を使うことへの、ぼくの違和感を伝えることが必要になったので、以下のようなメールを書いた。
====
ずーっと「開発」という言葉を使うのをやめたいと言ってきましたし、いまもそう思っています。
K田さんは、これまでと違う新しい開発を意味しているのだ言います。K田さんが主張する、本来の「開発」があるという問題の建て方もありえないわけではないとも思うのですが、やはり、ぼくは自分のなかの抵抗感を拭えません。なかなか、これを使うのがいやだという理由を理解してもらえないのですが・・・。
できるだけ、理解して欲しくて以下に説明します。
トルーマンの「ポイント4演説」で「開発」という言葉が現在のような用法で使われるようになったと言われています。それ以来、「開発」という言葉は大きな意味を持つようになり、人々の意識に浸透しています。
そのことを端的に表現しているものとして、ぼくも共著として、名前を連ねている
<<「脱」開発へのサブシステンス論>>という本の序章(横山正樹さん執筆)から引用します。
以下に引用する文章は開発主義批判やサブシステンス論への疑問に対するQ&Aとして記述されたもののひとつで、「ディベロップメントは悪いことか」という質問への答えの一部です。
そこで横山さんは「No 開発は悪いことと決めつけるのは誤りだ」とした後で、ラミスさんのディベロプメントに関する説明を引用し、本来、開発という語がもっていた肯定的な意味が意図的に誤用されたとし、以下のように書きます。
==
開発の名のもとに破壊が正当化され、開発の構造的な暴力性が隠蔽されて、開発を国際社会の基本的な優先目標とするイデオロギー=開発主義がこれまで広く流布されてきた。間違った開発概念がほとんどの人の意識下にまで浸透して思考の前提に居座り、ついに「開発パラダイム」が確立された。この呪縛は深く強固に私たちを支配している。相当の意識的努力ないし「格闘」を経なければ、そこから解放されることはまずない。
そこで当面は開発/発展という用語を使わずに物事を観察し・検討し、判断してみることを私は提案している。それが「開発パラダイム」を相対化し、開発主義から脱却するための主体的な努力の第一歩となろう。
===
K田さんが考えているような意味で「開発」をとらえてもらうためには多くの言葉が必要になります。そういう誤解を生む名称はもう使うべきではない、少なくともぼくはそういう名称の下にくくられたくないと思うのです。
そして、ぼくは横山さんが「開発」という言葉を使うのをやめようと提起していることにほぼ賛同するのですが、それ以上に積極的だと思っているのがヘレナさんやラミスさんが提起している「カウンター・ディベロップメント」という問題の建て方です。
みなさん、もう読んでそんなことは十分承知だということだと思うのですが、ヘレナさんとラミスさんの「カウンター・ディベロップメント」についての説明を以下に貼り付けておきます。
ヘレナさんは「ラダック・懐かしい未来」のなかで、こんな風に書いています。
==以下抜書き==
・・・。持続可能な開発に関するほとんどの文献は、社会的、生態学的破壊の背景にある根本の原因を正面から取り上げていないからである。
小規模の理想的な組織ですら、ときに根本の原因を見逃しており、地域の多様性と本来の自立を支援するより、むしろ人びとをますます、大きな経済機構に従属させてしまうことのほうが多い。同じく重要なことは、これらの組織が、現在の教育モデルを問題にしていないことで、開発の方針を根本的に改める必要性を理解していないことを示していることである。大多数は依然として、人びとを西洋化された都市部の消費者となるべく訓練する教育を、積極的に支持している。
再生可能なエネルギーを使った小規模技術を勧めているグループですら、農村の貧困層だけが対象であって、手厚い補助を受けた「本物」の開発と共存していくことが必要であることを、暗に示す傾向がある。・・・・。さらに適正技術の大多数のプロジェクトは、技術だけを他と切り離して推進し、もっと広い経済的、社会的な文脈で問題を捉えようとしない。こうした条件の下では、適正技術は失敗に終るだろう。適正技術を適切によみがえらせなければ、生態系と文化的多様性を維持できる望みはまったくない。・・・。188-189p
・・・さらなる開発より、われわれに必要なのは「カウンター・ディベロップメント」と私が呼んでいるものである。
「カウンター・ディベロップメント」の初期段階の目的は、人びとが自らの将来を、十分な情報に基づいて選択できる手段を提供することにある。語り聞かせから衛星テレビまでの、ありとあらゆるコミュニケーション手段を使い、今の資本集約的、エネルギー集約的なやり方には、持続性がないという単純な事実を広める必要がある。究極的には自尊心と自立心を促すことが目的であり、このことによって、生活を豊かに維持するために必要な多様性を保護し、地域を基盤とする、本来の意味での持続可能な開発の諸条件を作り出していくことである。
これまでの開発の致命的な欠陥のひとつは、定量分析が優先した、視野の狭い、短期的なものの捉え方にある。カウンター・ディベロップメントは、分化した専門分野や分断された知識を超え、工業社会の機構の基盤を明らかにする。それは、崩壊した家族や地域共同体に注目し、化石燃料に基づく社会の公表されない補助金を暴露し、経済の貸借対照表の借方に環境破壊を記入することになる。それとともに、カウンター・ディベロップメントは進歩の定義を新しくし、より広い意味を含む人間的な定義へと促し普及させる。そして世界各地で新たな道を切り拓きつつある、より持続可能で、地域に根ざした独創的な取り組み――数多くあるそうした取り組みのいくつかに目を向けさせるだろう。それは伝統的な農業システムの可能性を示すとともに、パーマカルチャー、生物ダイナミックス、活気に満ちた有機農業運動の数々など、新しい農業の動向に関する情報を伝える。・・・中略・・・・鍼治療やホメオパシー、そのほかの自然に基礎をおく健康法を求める声の高まりを広く世に知らせる。また世界中で起こっている環境保護、土壌保全、大気汚染や水質に対する関心をいっそう明らかにする。198~9P
カウンター・ディベロップメントという名称ではまた認識されたいないが、明らかに同じ概念の範疇に収まる試みはすでに数多くなされている。・・・(中略)・・・原子力エネルギーの危険性についての資料を取りまとめ、東ヨーロッパのNGOに無料で配布しているグループ、農山村住民を都市に招き、スラムの居住者から離村にともなうさまざまな問題について学ぶことを通じ、農村の共同体の結束強化を図ろうとしているフィリピンの団体などがある。
こうした試みの中で特に優れているものに、工業化された国に長期滞在した経験を持ち、西洋流の生活様式が虚構であることを体験した、第三世界出身の個人からはじまったものがいくつかある。そのよい例が・・・(中略)・・・
・・(中略)・・・、第三世界で活動する人びとにとって、西洋に滞在して近代化の暗部をじかに知る機会を得たことが、決定的に重要な意味を持っている。
問題意識を持った西洋人が、自らのカウンター・ディベロップメントに取り組むことも同じく重要である。・・・200~201p
差し迫った問題に対して持続可能な解決策を見出すためには、効果的なカウンター・ディヴェロップメントが欠かせない。大衆消費文化に歯止めがかからなければ、常に拡大する貧困や社会の分断、生態系の悪化を食い止める望みはない。だが、カウンター・ディヴェロップメントそれ自体では十分ではない。・・・・。・・・。世界の「先進地域」も「開発途上地域」も、ともに自立した農業に経済の中心的役割を与える必要がある。女性の視点と価値にも同じ比重をおくべきである。家族や共同体の絆を育む必要もある。 202p
==転載ここまで==
また、この対抗発展(カウンター・デヴェロップメント)について、ダグラス・ラミスさんは以下のように説明します。
==
・・・。物質的な豊かさではなく、本当の意味での豊かさを求める社会、そして正義に基づいた社会をどう作るか。経済成長とはまったく別の、もっとずっと面白い歴史的なプロジェクトを推進することになると思います。
「対抗発展」とは何か
そういう社会を求める過程を、私は暫定的に「対抗発展(カウンター・デヴェロープメント)」と呼んでみたいと思います。
なぜ、暫定的かといいますと、これまで「発展」という言葉には悪い歴史があるからです。・・・(中略)・・・。今までは嘘の発展だった。これからは本物の発展です、真の発展です、人中心の発展です、などなど、いろいろな形容詞がつけられた。一番新しいのが「持続可能な発展」という言葉です。もうすでに明らかになっているとおり、それが何を持続可能にしようとしているかというと、もちろん、今までどおりの「発展」なのです。・・・(略)・・・つまり経済成長を続けるための「発展」でしかない。そういう形容詞がついた数々の発展と「対抗発展」を一緒にしてほしくないのです。
「対抗発展」という言葉でまず言いたいことは、今までの「発展」の意味、つまり経済成長を否定することです。否定するというのは、これから発展すべきなのは経済ではないという意味です。それは逆に、人間社会の中から経済という要素を少しずつ減らす過程です。
すなわち、対抗発展は「減らす発展」です。エネルギー消費を減らすこと。それぞれの個人が経済活動に使っている時間を減らすこと。値段のついたものを減らすこと。
そして対抗発展の二つ目の目標は、経済活動以外のものを発展させることです。経済以外の価値、経済活動以外の人間の活動、市場以外のあらゆる楽しみ、行動、文化、そういうものを発展させるという意味です。経済用語に言い換えると、交換価値の高いものを減らして、使用価値の高いものを増やす過程、ということになります。
「発展」や「成長」という言葉には悪い歴史があるから、この言葉は使わない方がいいという考えも成り立ちます。けれども、社会を一気に変えるのではなく、社会が少しずつ変っていくということを示す言葉が必要です。「発展する(デヴェロープ)」という言葉の元の意味を考えれば、「発展」という言葉も暫定的には適当かもしれない。あえて「発展」という言葉を選んだもう一つの理由は、これからの歴史において、未来のヘーゲル的、あるいはマルクス的な大きな飛躍は期待できないと思うからです。
・・・・(以下、略)「経済成長がなければ・・・」134~6P
===
上記のふたつについて、もう長めに引用したものとして
https://tu-ta.seesaa.net/article/200508article_11.html
や
https://tu-ta.seesaa.net/article/200508article_12.html
があります。
====
これらに書いてあるように、「対抗開発」とか「対抗発展」とか書かれると、それだけで「開発・発展」の問題を浮かび上がらせることが、かなり可能になるように思うのです。
名称に「開発」が含まれることへの抵抗を少しは理解してもらえたでしょうか。
===メール文案ここまで===
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ずーっと「開発」という言葉を使うのをやめたいと言ってきましたし、いまもそう思っています。
K田さんは、これまでと違う新しい開発を意味しているのだ言います。K田さんが主張する、本来の「開発」があるという問題の建て方もありえないわけではないとも思うのですが、やはり、ぼくは自分のなかの抵抗感を拭えません。なかなか、これを使うのがいやだという理由を理解してもらえないのですが・・・。
できるだけ、理解して欲しくて以下に説明します。
トルーマンの「ポイント4演説」で「開発」という言葉が現在のような用法で使われるようになったと言われています。それ以来、「開発」という言葉は大きな意味を持つようになり、人々の意識に浸透しています。
そのことを端的に表現しているものとして、ぼくも共著として、名前を連ねている
<<「脱」開発へのサブシステンス論>>という本の序章(横山正樹さん執筆)から引用します。
以下に引用する文章は開発主義批判やサブシステンス論への疑問に対するQ&Aとして記述されたもののひとつで、「ディベロップメントは悪いことか」という質問への答えの一部です。
そこで横山さんは「No 開発は悪いことと決めつけるのは誤りだ」とした後で、ラミスさんのディベロプメントに関する説明を引用し、本来、開発という語がもっていた肯定的な意味が意図的に誤用されたとし、以下のように書きます。
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開発の名のもとに破壊が正当化され、開発の構造的な暴力性が隠蔽されて、開発を国際社会の基本的な優先目標とするイデオロギー=開発主義がこれまで広く流布されてきた。間違った開発概念がほとんどの人の意識下にまで浸透して思考の前提に居座り、ついに「開発パラダイム」が確立された。この呪縛は深く強固に私たちを支配している。相当の意識的努力ないし「格闘」を経なければ、そこから解放されることはまずない。
そこで当面は開発/発展という用語を使わずに物事を観察し・検討し、判断してみることを私は提案している。それが「開発パラダイム」を相対化し、開発主義から脱却するための主体的な努力の第一歩となろう。
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K田さんが考えているような意味で「開発」をとらえてもらうためには多くの言葉が必要になります。そういう誤解を生む名称はもう使うべきではない、少なくともぼくはそういう名称の下にくくられたくないと思うのです。
そして、ぼくは横山さんが「開発」という言葉を使うのをやめようと提起していることにほぼ賛同するのですが、それ以上に積極的だと思っているのがヘレナさんやラミスさんが提起している「カウンター・ディベロップメント」という問題の建て方です。
みなさん、もう読んでそんなことは十分承知だということだと思うのですが、ヘレナさんとラミスさんの「カウンター・ディベロップメント」についての説明を以下に貼り付けておきます。
ヘレナさんは「ラダック・懐かしい未来」のなかで、こんな風に書いています。
==以下抜書き==
・・・。持続可能な開発に関するほとんどの文献は、社会的、生態学的破壊の背景にある根本の原因を正面から取り上げていないからである。
小規模の理想的な組織ですら、ときに根本の原因を見逃しており、地域の多様性と本来の自立を支援するより、むしろ人びとをますます、大きな経済機構に従属させてしまうことのほうが多い。同じく重要なことは、これらの組織が、現在の教育モデルを問題にしていないことで、開発の方針を根本的に改める必要性を理解していないことを示していることである。大多数は依然として、人びとを西洋化された都市部の消費者となるべく訓練する教育を、積極的に支持している。
再生可能なエネルギーを使った小規模技術を勧めているグループですら、農村の貧困層だけが対象であって、手厚い補助を受けた「本物」の開発と共存していくことが必要であることを、暗に示す傾向がある。・・・・。さらに適正技術の大多数のプロジェクトは、技術だけを他と切り離して推進し、もっと広い経済的、社会的な文脈で問題を捉えようとしない。こうした条件の下では、適正技術は失敗に終るだろう。適正技術を適切によみがえらせなければ、生態系と文化的多様性を維持できる望みはまったくない。・・・。188-189p
・・・さらなる開発より、われわれに必要なのは「カウンター・ディベロップメント」と私が呼んでいるものである。
「カウンター・ディベロップメント」の初期段階の目的は、人びとが自らの将来を、十分な情報に基づいて選択できる手段を提供することにある。語り聞かせから衛星テレビまでの、ありとあらゆるコミュニケーション手段を使い、今の資本集約的、エネルギー集約的なやり方には、持続性がないという単純な事実を広める必要がある。究極的には自尊心と自立心を促すことが目的であり、このことによって、生活を豊かに維持するために必要な多様性を保護し、地域を基盤とする、本来の意味での持続可能な開発の諸条件を作り出していくことである。
これまでの開発の致命的な欠陥のひとつは、定量分析が優先した、視野の狭い、短期的なものの捉え方にある。カウンター・ディベロップメントは、分化した専門分野や分断された知識を超え、工業社会の機構の基盤を明らかにする。それは、崩壊した家族や地域共同体に注目し、化石燃料に基づく社会の公表されない補助金を暴露し、経済の貸借対照表の借方に環境破壊を記入することになる。それとともに、カウンター・ディベロップメントは進歩の定義を新しくし、より広い意味を含む人間的な定義へと促し普及させる。そして世界各地で新たな道を切り拓きつつある、より持続可能で、地域に根ざした独創的な取り組み――数多くあるそうした取り組みのいくつかに目を向けさせるだろう。それは伝統的な農業システムの可能性を示すとともに、パーマカルチャー、生物ダイナミックス、活気に満ちた有機農業運動の数々など、新しい農業の動向に関する情報を伝える。・・・中略・・・・鍼治療やホメオパシー、そのほかの自然に基礎をおく健康法を求める声の高まりを広く世に知らせる。また世界中で起こっている環境保護、土壌保全、大気汚染や水質に対する関心をいっそう明らかにする。198~9P
カウンター・ディベロップメントという名称ではまた認識されたいないが、明らかに同じ概念の範疇に収まる試みはすでに数多くなされている。・・・(中略)・・・原子力エネルギーの危険性についての資料を取りまとめ、東ヨーロッパのNGOに無料で配布しているグループ、農山村住民を都市に招き、スラムの居住者から離村にともなうさまざまな問題について学ぶことを通じ、農村の共同体の結束強化を図ろうとしているフィリピンの団体などがある。
こうした試みの中で特に優れているものに、工業化された国に長期滞在した経験を持ち、西洋流の生活様式が虚構であることを体験した、第三世界出身の個人からはじまったものがいくつかある。そのよい例が・・・(中略)・・・
・・(中略)・・・、第三世界で活動する人びとにとって、西洋に滞在して近代化の暗部をじかに知る機会を得たことが、決定的に重要な意味を持っている。
問題意識を持った西洋人が、自らのカウンター・ディベロップメントに取り組むことも同じく重要である。・・・200~201p
差し迫った問題に対して持続可能な解決策を見出すためには、効果的なカウンター・ディヴェロップメントが欠かせない。大衆消費文化に歯止めがかからなければ、常に拡大する貧困や社会の分断、生態系の悪化を食い止める望みはない。だが、カウンター・ディヴェロップメントそれ自体では十分ではない。・・・・。・・・。世界の「先進地域」も「開発途上地域」も、ともに自立した農業に経済の中心的役割を与える必要がある。女性の視点と価値にも同じ比重をおくべきである。家族や共同体の絆を育む必要もある。 202p
==転載ここまで==
また、この対抗発展(カウンター・デヴェロップメント)について、ダグラス・ラミスさんは以下のように説明します。
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・・・。物質的な豊かさではなく、本当の意味での豊かさを求める社会、そして正義に基づいた社会をどう作るか。経済成長とはまったく別の、もっとずっと面白い歴史的なプロジェクトを推進することになると思います。
「対抗発展」とは何か
そういう社会を求める過程を、私は暫定的に「対抗発展(カウンター・デヴェロープメント)」と呼んでみたいと思います。
なぜ、暫定的かといいますと、これまで「発展」という言葉には悪い歴史があるからです。・・・(中略)・・・。今までは嘘の発展だった。これからは本物の発展です、真の発展です、人中心の発展です、などなど、いろいろな形容詞がつけられた。一番新しいのが「持続可能な発展」という言葉です。もうすでに明らかになっているとおり、それが何を持続可能にしようとしているかというと、もちろん、今までどおりの「発展」なのです。・・・(略)・・・つまり経済成長を続けるための「発展」でしかない。そういう形容詞がついた数々の発展と「対抗発展」を一緒にしてほしくないのです。
「対抗発展」という言葉でまず言いたいことは、今までの「発展」の意味、つまり経済成長を否定することです。否定するというのは、これから発展すべきなのは経済ではないという意味です。それは逆に、人間社会の中から経済という要素を少しずつ減らす過程です。
すなわち、対抗発展は「減らす発展」です。エネルギー消費を減らすこと。それぞれの個人が経済活動に使っている時間を減らすこと。値段のついたものを減らすこと。
そして対抗発展の二つ目の目標は、経済活動以外のものを発展させることです。経済以外の価値、経済活動以外の人間の活動、市場以外のあらゆる楽しみ、行動、文化、そういうものを発展させるという意味です。経済用語に言い換えると、交換価値の高いものを減らして、使用価値の高いものを増やす過程、ということになります。
「発展」や「成長」という言葉には悪い歴史があるから、この言葉は使わない方がいいという考えも成り立ちます。けれども、社会を一気に変えるのではなく、社会が少しずつ変っていくということを示す言葉が必要です。「発展する(デヴェロープ)」という言葉の元の意味を考えれば、「発展」という言葉も暫定的には適当かもしれない。あえて「発展」という言葉を選んだもう一つの理由は、これからの歴史において、未来のヘーゲル的、あるいはマルクス的な大きな飛躍は期待できないと思うからです。
・・・・(以下、略)「経済成長がなければ・・・」134~6P
===
上記のふたつについて、もう長めに引用したものとして
https://tu-ta.seesaa.net/article/200508article_11.html
や
https://tu-ta.seesaa.net/article/200508article_12.html
があります。
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これらに書いてあるように、「対抗開発」とか「対抗発展」とか書かれると、それだけで「開発・発展」の問題を浮かび上がらせることが、かなり可能になるように思うのです。
名称に「開発」が含まれることへの抵抗を少しは理解してもらえたでしょうか。
===メール文案ここまで===
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