ヘンでいい。 読書メモ その2
ヘンでいい。 読書メモ その1
https://tu-ta.seesaa.net/article/200904article_13.html
の続きっていうか、こっちがメイン。
斎藤さんはその言葉は使っていないが、森田ゆりさん流のエンパワメントととても近いことを語る・
===
・・・クライアントの中に潜んでいるパワーを認めて徹底的に寄り添うことでその人自身に気づいてもらう。それをするのが私の仕事で、彼ら自身の回復はひとりでに起こってくるという……、ま、仮説だよね。こういうところに立たない限りやってられないというところに追い込まれたわけ。(後略) 118p
===
もう、森田ゆりさんのいってるエンパワメントそのものだ。
また、精神科医の矛盾については、専門性を主張したら、限界がでてくるといい、ただのおじさんとして接すればそんな人は無数にいるわけで、「だから、治療者無力みたいなことを言うこと自体に矛盾だろって言われれば、そんなこと先に気づいているのはそれを言ってる私自身だよ。(中略)、しかしそれ以外の立場に身の置きどころはないじゃないかと思うわけよ。
(少し長い略) 要するに、こんなヤブとも言えないドテ医者に自分のことをゆだねてもしょうがないと思うところから力が出てくるんだね」(124p)という。
「心の専門家はいらない」と小沢牧子さんは書くが、こんな専門家ならいてもいいかとも思う。それがどうして専門家でなければならないかという反問も出てくるかも知れないし、専門家がいなくても、エンパワメントみたいなことは可能じゃないかと、山田泉さんの本を読んで感じたりもする
https://tu-ta.seesaa.net/article/200904article_10.html
が、現状ではそこでしか救われない人はいるだろうし、そういう意味では、やはり必要な部分もあるだろう。ただ、先日のNHKの番組でやっていたように、ただ大量の薬を処方するだけで症状は逆に悪くなるというクリニックもあるみたいだし、斎藤さんのところのようなクリニックは他にないという問題もある。
ところで、この本で栗原さんが聞き出したかったこととして、セラピーや精神療法の本に書かれていることと斎藤学がやってることのギャップについて、斎藤さん自身があまり書いていないので、そこを、とある。それに対して斎藤さんはこう答える
===
斎藤 私がスピリチュアルなものっていう書き方をしているのはそういう部分を言ってるんだけど、それについて真正面から書いていないのは、書いたら誤解されるからさ。
栗原 斎藤学っていう生身の人間……ま、斎藤学じゃなくてもいいんだけど、はじめて生身の人間と真剣に向かいあった経験をしたというか……。(略)・・・不完全な人間どうしがわかりあおうとして歩み寄っていった体験だとか時間だとかは、たんなる治療とかそういう話じゃない。
斎藤 じゃないんだよ。揺さぶられるもの。揺さぶられるのはメンタルなところじゃなくて、しいて言えば、魂的なところなんでね。だけど、別にそれは狙ってやってるんじゃないんだよ。
栗原 回復ってなんだろうということを伺ってきたわけですが、いままでの話を整理すると、人との関係の中で自分を発見していくこと、そしてその関係の中で自分を肯定することを回復というふうに考えていいんでしょうか。
斎藤 肯定の中に、力の確認というのが入るんですよ。自分に備わった力だね。
(略)
斎藤 ・・・略・・・、症状と言われるようなものも自分のその力から出ているわけで、だからそれを丸投げして誰かになんとかしてもらうようなものじゃない。逆に言うと治療者にはなんの力もないということでもある。この、症状をもっている人の力の確認というのと、治療者の無力というのはひとつの対になっている。これが私の治療論の根源なんですよ。
あとは彼らが力を認識するような場を設定すればそれでもう終わりなんだよね。(以下略) 130~131p
===
ここでも森田ゆり流のエンパワメント論の深化を見ることができる。
そして、斎藤さんは嗜癖や症状の下には他に伝えたいことがあるのであり、その伝えたいこととコミュニケートできれば、症状や嗜癖はいらなくなるか、あっても問題にならなくなるという。 137~138p
で、ここからぼくの問題意識にいちばんつながる話になる。
この問題について、栗原さんの提起は明確だが、斎藤さんの返答はもうひとつ煮え切らない。その煮え切らない返答に栗原さんも巻き込まれて、話のクリアさが少し損なわれているようにも読める。
まず、栗原さんはこんなふうに提起する。
===
・・・私自身のことで言えば、さいとうクリニックに通っているうちに自分はこのままでいいと思えるようになったんだけど、でもこのままの自分が社会に戻って、はたして居場所があるのか不安があったんですね。
弱者切り捨てだとか、競争原理や市場原理に支配された社会と、このままの自分が相容れないっていうか……。(中略)自分はこのままでいいけど、じゃあどうやって生きていくわけ、みたいな。それについては、一人ひとりが探していくしかないっていうことなのかな……。その辺どう思われますか? 138~139p
===
これが斎藤さんの治療法にもつながる話なのかも知れないけれども、以下のやりとりでも明確な話はすべて栗原さん側から提出されている。
斎藤さんは何かあいまいなことを言って、栗原さんがそれは・・・ってことですか、というようなやりとりが続く。というわけで、その社会のシステムを転換していくということに関する明快な話はすべて栗原さんから、斎藤さんが思っているのは~~ですか、というような形で話され、多くの場合、斎藤さんがそれをあいまいに肯定するような形で話が進む。ま、前提として「ワーキングプアや格差の問題に挑戦するのは私の仕事じゃない」ということを斎藤さんは明確に言い切っている。
その話の内容は、個々人の変化が社会の変化につながっていくというような話だ。そういう話の流れの中で、べてるの家とは違う街ならでは猥雑なさいとうクリニック独特のよさがあると、やはり栗原さんがいう(ちなみにべてるの家の話はあとのほうでまた出てくる)。ただ、何も言ってないわけじゃなくて、斎藤さんはこんなふうに語る
===
時間についての考え方とか、それから栗原さんがよく言っているお金についての考え方とかね、それについて整然としたことはまだ言えないけれど、ここのクリニックで起こっていることを見ていると、いままで常識として当然だと思っていたことが、徐々に崩れだしていると感じることがある。ほんとこの10年おもしろかったと思うんですよ。過去形じゃないんだけどさ。 145~6p
===
これを読むとクリニックでは社会の変化に先行して変化を感じさせる内容があるのかと感じさせる。社会の潮目が変化しつつあるのが明確になりつつあるのは去年くらいからじゃないかとぼくは感じている。この変化だって、どこまで本物かまだ怪しいと感じるくらいだ。(それくらいに万年危機説を聞かされ、狼少年現象を疑わざるを得ないような左翼言説とつきあってきたっていうか、ぼくも吐いてきたし。)
で、これを受けて栗原さんはまた話をクリアにする。
===
このシステムに対して大きく働きかけなくても、自分がいま居る場所で何か自分にできることをやることで社会の窓が開くわけじゃないですか。それは誰であっても、自分の役割の中でできることがある。この社会の中にいると茫然と無力感で立ちつくすような感じがするけど、でもいま居るこの場でできることがあるし、それをやることで何かが確実に変るんだっていう手応えが私に力の感覚を覚えさせたのね。
斎藤先生の考え方ってそうだと思う。個人が個人の問題に向かいあうことで結果としてシステムに影響を与えるという。そういう視点が私にとっては非常におもしろいんだけど。 146p
===
社会変革と個人の変革のダイナミズムというのは、もちろんこれだけじゃない。個人の変革というような話を聞くと、同心円状に波が広がるようなスピードで本当にまにあうのかという危機感があるっていうか、凝縮したものが爆発するようなことが必要なんじゃないかと感じないわけでもないし、同時に、いい意味でのポジティブ・フィードバックみたいなことが起きればいいとは思う。システムの転換をもとめる社会運動が語りかけるのは個人だし、そこでの変化なしに何も始まらないのだが、それとシステムの変換をどうつなぐことができるのか、それはヴェーバーの転轍機だったり、山之内さんの社会像革命だったりするのだろうが、ここで栗原さんが言っている「自分がいまいる場所でできることがあり、そこに自分の存在を確認するというような手応え」っていうのは確かに大切なことだと思う。
で、この先でべてるの家の話がでてきて
斎藤さんが向谷地さんにあったときの話を紹介している。
===
斎藤 ・・・「あなたの言ってることと私のやってることはそっくりですね」って言ったら、「そりゃそうですよ、まねたんだから」
栗原 そうなんですか?!
斎藤 あのやり方を統合失調症でできないだろうかって。まぁ、リップサービスかもしれないけどね。
栗原 どうりで似てると思った……。
でも斎藤先生はなんだかソンだよね。向こうのほうが人格者に見える(笑)。(略)
斎藤 ハハハ。だけど、統合失調症への応用というのはやっぱり私にはできないよ。私の医者としての限界がさ、(以下略) 148p
===
いちばんメモしたかった部分はここに書いたエンパワメントの話と社会変革の話、そして、それにスピリチュアルの話が少しかぶる。
とはいうものの、メモはまだ終わっていないが、疲れたからここらで今日はやめる。
気が向いたら、続きが書けるかなぁ。
追記
いま、探したらIFFのサイトにこの本の「はじめに」の抜粋が入っていた。
「ヘンでいい。」はじめにより
http://www.iff.co.jp/book/190/bk_194_2.html
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の続きっていうか、こっちがメイン。
斎藤さんはその言葉は使っていないが、森田ゆりさん流のエンパワメントととても近いことを語る・
===
・・・クライアントの中に潜んでいるパワーを認めて徹底的に寄り添うことでその人自身に気づいてもらう。それをするのが私の仕事で、彼ら自身の回復はひとりでに起こってくるという……、ま、仮説だよね。こういうところに立たない限りやってられないというところに追い込まれたわけ。(後略) 118p
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もう、森田ゆりさんのいってるエンパワメントそのものだ。
また、精神科医の矛盾については、専門性を主張したら、限界がでてくるといい、ただのおじさんとして接すればそんな人は無数にいるわけで、「だから、治療者無力みたいなことを言うこと自体に矛盾だろって言われれば、そんなこと先に気づいているのはそれを言ってる私自身だよ。(中略)、しかしそれ以外の立場に身の置きどころはないじゃないかと思うわけよ。
(少し長い略) 要するに、こんなヤブとも言えないドテ医者に自分のことをゆだねてもしょうがないと思うところから力が出てくるんだね」(124p)という。
「心の専門家はいらない」と小沢牧子さんは書くが、こんな専門家ならいてもいいかとも思う。それがどうして専門家でなければならないかという反問も出てくるかも知れないし、専門家がいなくても、エンパワメントみたいなことは可能じゃないかと、山田泉さんの本を読んで感じたりもする
https://tu-ta.seesaa.net/article/200904article_10.html
が、現状ではそこでしか救われない人はいるだろうし、そういう意味では、やはり必要な部分もあるだろう。ただ、先日のNHKの番組でやっていたように、ただ大量の薬を処方するだけで症状は逆に悪くなるというクリニックもあるみたいだし、斎藤さんのところのようなクリニックは他にないという問題もある。
ところで、この本で栗原さんが聞き出したかったこととして、セラピーや精神療法の本に書かれていることと斎藤学がやってることのギャップについて、斎藤さん自身があまり書いていないので、そこを、とある。それに対して斎藤さんはこう答える
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斎藤 私がスピリチュアルなものっていう書き方をしているのはそういう部分を言ってるんだけど、それについて真正面から書いていないのは、書いたら誤解されるからさ。
栗原 斎藤学っていう生身の人間……ま、斎藤学じゃなくてもいいんだけど、はじめて生身の人間と真剣に向かいあった経験をしたというか……。(略)・・・不完全な人間どうしがわかりあおうとして歩み寄っていった体験だとか時間だとかは、たんなる治療とかそういう話じゃない。
斎藤 じゃないんだよ。揺さぶられるもの。揺さぶられるのはメンタルなところじゃなくて、しいて言えば、魂的なところなんでね。だけど、別にそれは狙ってやってるんじゃないんだよ。
栗原 回復ってなんだろうということを伺ってきたわけですが、いままでの話を整理すると、人との関係の中で自分を発見していくこと、そしてその関係の中で自分を肯定することを回復というふうに考えていいんでしょうか。
斎藤 肯定の中に、力の確認というのが入るんですよ。自分に備わった力だね。
(略)
斎藤 ・・・略・・・、症状と言われるようなものも自分のその力から出ているわけで、だからそれを丸投げして誰かになんとかしてもらうようなものじゃない。逆に言うと治療者にはなんの力もないということでもある。この、症状をもっている人の力の確認というのと、治療者の無力というのはひとつの対になっている。これが私の治療論の根源なんですよ。
あとは彼らが力を認識するような場を設定すればそれでもう終わりなんだよね。(以下略) 130~131p
===
ここでも森田ゆり流のエンパワメント論の深化を見ることができる。
そして、斎藤さんは嗜癖や症状の下には他に伝えたいことがあるのであり、その伝えたいこととコミュニケートできれば、症状や嗜癖はいらなくなるか、あっても問題にならなくなるという。 137~138p
で、ここからぼくの問題意識にいちばんつながる話になる。
この問題について、栗原さんの提起は明確だが、斎藤さんの返答はもうひとつ煮え切らない。その煮え切らない返答に栗原さんも巻き込まれて、話のクリアさが少し損なわれているようにも読める。
まず、栗原さんはこんなふうに提起する。
===
・・・私自身のことで言えば、さいとうクリニックに通っているうちに自分はこのままでいいと思えるようになったんだけど、でもこのままの自分が社会に戻って、はたして居場所があるのか不安があったんですね。
弱者切り捨てだとか、競争原理や市場原理に支配された社会と、このままの自分が相容れないっていうか……。(中略)自分はこのままでいいけど、じゃあどうやって生きていくわけ、みたいな。それについては、一人ひとりが探していくしかないっていうことなのかな……。その辺どう思われますか? 138~139p
===
これが斎藤さんの治療法にもつながる話なのかも知れないけれども、以下のやりとりでも明確な話はすべて栗原さん側から提出されている。
斎藤さんは何かあいまいなことを言って、栗原さんがそれは・・・ってことですか、というようなやりとりが続く。というわけで、その社会のシステムを転換していくということに関する明快な話はすべて栗原さんから、斎藤さんが思っているのは~~ですか、というような形で話され、多くの場合、斎藤さんがそれをあいまいに肯定するような形で話が進む。ま、前提として「ワーキングプアや格差の問題に挑戦するのは私の仕事じゃない」ということを斎藤さんは明確に言い切っている。
その話の内容は、個々人の変化が社会の変化につながっていくというような話だ。そういう話の流れの中で、べてるの家とは違う街ならでは猥雑なさいとうクリニック独特のよさがあると、やはり栗原さんがいう(ちなみにべてるの家の話はあとのほうでまた出てくる)。ただ、何も言ってないわけじゃなくて、斎藤さんはこんなふうに語る
===
時間についての考え方とか、それから栗原さんがよく言っているお金についての考え方とかね、それについて整然としたことはまだ言えないけれど、ここのクリニックで起こっていることを見ていると、いままで常識として当然だと思っていたことが、徐々に崩れだしていると感じることがある。ほんとこの10年おもしろかったと思うんですよ。過去形じゃないんだけどさ。 145~6p
===
これを読むとクリニックでは社会の変化に先行して変化を感じさせる内容があるのかと感じさせる。社会の潮目が変化しつつあるのが明確になりつつあるのは去年くらいからじゃないかとぼくは感じている。この変化だって、どこまで本物かまだ怪しいと感じるくらいだ。(それくらいに万年危機説を聞かされ、狼少年現象を疑わざるを得ないような左翼言説とつきあってきたっていうか、ぼくも吐いてきたし。)
で、これを受けて栗原さんはまた話をクリアにする。
===
このシステムに対して大きく働きかけなくても、自分がいま居る場所で何か自分にできることをやることで社会の窓が開くわけじゃないですか。それは誰であっても、自分の役割の中でできることがある。この社会の中にいると茫然と無力感で立ちつくすような感じがするけど、でもいま居るこの場でできることがあるし、それをやることで何かが確実に変るんだっていう手応えが私に力の感覚を覚えさせたのね。
斎藤先生の考え方ってそうだと思う。個人が個人の問題に向かいあうことで結果としてシステムに影響を与えるという。そういう視点が私にとっては非常におもしろいんだけど。 146p
===
社会変革と個人の変革のダイナミズムというのは、もちろんこれだけじゃない。個人の変革というような話を聞くと、同心円状に波が広がるようなスピードで本当にまにあうのかという危機感があるっていうか、凝縮したものが爆発するようなことが必要なんじゃないかと感じないわけでもないし、同時に、いい意味でのポジティブ・フィードバックみたいなことが起きればいいとは思う。システムの転換をもとめる社会運動が語りかけるのは個人だし、そこでの変化なしに何も始まらないのだが、それとシステムの変換をどうつなぐことができるのか、それはヴェーバーの転轍機だったり、山之内さんの社会像革命だったりするのだろうが、ここで栗原さんが言っている「自分がいまいる場所でできることがあり、そこに自分の存在を確認するというような手応え」っていうのは確かに大切なことだと思う。
で、この先でべてるの家の話がでてきて
斎藤さんが向谷地さんにあったときの話を紹介している。
===
斎藤 ・・・「あなたの言ってることと私のやってることはそっくりですね」って言ったら、「そりゃそうですよ、まねたんだから」
栗原 そうなんですか?!
斎藤 あのやり方を統合失調症でできないだろうかって。まぁ、リップサービスかもしれないけどね。
栗原 どうりで似てると思った……。
でも斎藤先生はなんだかソンだよね。向こうのほうが人格者に見える(笑)。(略)
斎藤 ハハハ。だけど、統合失調症への応用というのはやっぱり私にはできないよ。私の医者としての限界がさ、(以下略) 148p
===
いちばんメモしたかった部分はここに書いたエンパワメントの話と社会変革の話、そして、それにスピリチュアルの話が少しかぶる。
とはいうものの、メモはまだ終わっていないが、疲れたからここらで今日はやめる。
気が向いたら、続きが書けるかなぁ。
追記
いま、探したらIFFのサイトにこの本の「はじめに」の抜粋が入っていた。
「ヘンでいい。」はじめにより
http://www.iff.co.jp/book/190/bk_194_2.html
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