高橋悠治さん
ふとしたきっかけで、高橋悠治さんのサイトを見た。
すると、
書庫(2000-現在)
というページがあり、
そのタイトルの真下に
[ダウンロード、転送 引用は自由]
と書いてあった。
やっぱりかっこいいな悠治さん。
で、最新のテキストを読んでみた。(当時)
タイトルは
音楽すること
書いてあることの半分くらい転載してみる。
===
先月書いたことのつづきだが 「すでにないもの」の記憶 と「まだない」夢とのあいだにゆれている「いま」の半透明のスクリーンに映るはためく翼の重ね書きのずれた線の束が ここをすぎていったかたちのないうごきの軌跡となって 不安定にゆらぎつづけるのが音楽ならば ざわめくひびきをつくりだす息づかいや指先は 外側から見える書かれた楽譜や 結果としての音の分析からではなく ひとつではない複数の身体の内部運動とそれらを顧みる内部感覚が途絶えずに「音楽している」プロセスを支えているということが 音楽がつづいているあいだは 声や楽器や演奏者をききわけながら 音楽の内側で音楽として生きられ 経験されている 音楽がやむと この全体は失われ 音がうごきまわっていた空間も 跡形もない 「いま」は記憶と夢に回収され 語ることばは 音楽にとどかない 記号としての音楽 表象としての音楽ではない 記憶であり夢である創造のプロセスを手放さないでいれば 音楽は世界とつながっている 歴史 文化の伝統 政治 社会 自然 それらのなかで「音楽する」ことは ひとつの交換であり 世界をともに感じる生きかたでもあるだろう
20世紀の音楽は 設計図にしたがって 部品を集めて組み立て みがきあげた機械のように 中心や統一や構成に支配されていたし 産業化し 技術化し 商品化して回収されるものだった 作曲家と演奏家と聴衆は 資本家と労働者と消費者のようなヒエラルキーを崩せないで 新しさをもとめる作曲家は 不要な商品をつくりつづける資本家のように 無目的な開発と理解されない悩みのあいだで 道はないが進まねばならないと自分をなぐさめるばかりだった 冒険や発見を否定したり 後もどりはできないし 回収された技術は 音楽を古い規則から自由にしたこともたしかだ 創造の場のヒエラルキーをこわすやりかたはあるだろう 生産と消費 あるいは理論と実践のような産業的科学的なたとえでなく 音をきく 音楽をする という行為の共有から生まれてくるもの さまざまな場 状況 条件のなかで変化しながら維持される活動を反省しながら確実なものにし 人びとのあいだへとひらいていく方向があるはずだ
==この転載ここまで==
なんだか、よくわかんないことも多いけど、いいかんじだと思う。
で、ちょっと紹介したくなった。
で、上に転載したやつに書かれている「先月書いたこと」というのを読んでみた。
七月のコンサート三つ
これも半分くらい転載
==
水戸では作品の個展もあった。『高橋悠治の肖像』というタイトルは、ブーレーズとベリオに続く3回目と言われれば、聞こえはいいが、日本の作曲家たちとは何のかかわりもないし、だれも聴きにこないのが現実だろう。60年代のピアノ曲から最近の作品まで、オルガンやギターなど、ほとんど演奏する機会もない曲も演奏され、あたらしい演奏家たちとつきあうなかでそれなりの発見もあったが、これらの音楽はすべて過去のこと。じっさいに演奏してみると、いまはない「水牛楽団」のスタイルがいまでも新鮮だった。ここからやりなおして、ちがうところに行けるかもしれない。このどうしようもない世界のなかで、殺され死んでいったひとたちの記憶、まだない世界の兆しをはらむ響き、音の自律的なうごきと関係が織りだす変化の軌跡が、不安定なリズム、ゆれうごく線とわずかな彩りで一瞬浮かび、ずぐにまた消えてゆくような音楽の幻。
先月の小杉のための新作「あたましたたり」につづいて、さがゆきのための「眼の夢」を新宿ピットインで初演する。即興のために「書く」のはむつかしい。スタイルのちがいを透して見えてくる「かたち」を、どのようにあらわすか。いままで使ったどんなやりかたも、その場限りのものだったし、毎回考えなおしても、共通項も、基本原理もない。システムも方法もない。たえず変わる感覚もあてにならないし、定義も理論もありえない。といって、状況しだいでやりくりしているわけではない。共同体も信仰もイデオロギーも崩壊したいま、そこにはたらくのは、たぶん社会的な身体の姿勢とでもいうべき方向かもしれないが、それを語ることばはまだない。まだないものは、すでにないものと似ている。そこにあるものが、そこにないものを見せる鏡であり、ここに見えるかたちは、ここにないものの影にすぎないという、反歴史の行為。
==ふたつめの転載ここまで==
ぼくには「共同体も信仰もイデオロギーも崩壊した」なんて書けないなぁ。でも、それらが見えにくくなっているのは確かで、そんな中でも社会運動は細々と続いていて、ぼくはそこに参加する。それが「社会的な身体の姿勢とでもいうべき方向」なのかどうかはわからない。ただ、いまある社会に対して叫びたくなるような感じがあって、それをなんとか形にしたいとは思う。
そういえば、富山妙子さんの出版記念会で高橋さんを久しぶりにお見かけして、少しだけ、ほんの少しだけど話をした。で、越後妻有での彼女の個展にあわせたコンサートですごく久しぶりに演奏を生で聞かせてもらった。
越後妻有では、他にも刺激的なことがたくさんありすぎて、ぼくにとってはちょっと消化不良な感じだった。っていうか、疲れて寝てたし。
で、サイトには彼がいろんなところで演奏してるのが紹介されてる。
そのうち、ゆっくり聞いてみたいと思う。
でも、また、寝ちゃうだろうなぁ。
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