こうの史代さんの表現について

こうの史代ファンページ 掲示板に書いたことを、忘れないように、こっちにも転載しておこう。

例によって、例のごとく、脊髄反射的に書いてしまったものだから、つきつめられていない部分や書ききれなくて、あいまいな表現に逃げた部分もあるし、「ファンページ 掲示板」という場に書くものとして、無意識に自制した部分もあるかも知れない。ま、ほとんどそんな風には見えないだろうし、「ファンページ 掲示板」に書くのにふさわしい話だったかもわからない。

ともあれ、書いて投稿してしまったし、削除・編集できるのに、そうしないで掲載しているのはぼくだ。とりあえず、手をいれずに以下に転載。とか、書いたがぼくの主張は少ない。


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こうのさんの作品への感想を読んだ
投稿者:tu-ta 投稿日:2010年 5月29日(土)23時14分55秒



「かせたにのつぶやき」というブログに

こうの史代氏への違和感
http://kaseyan.exblog.jp/12214399/
という文章が記載されています。

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 戦時中の広島・呉を舞台にしていて、
なんで在日朝鮮人に関する描写がないんやろ?

 特に「夕凪の街」の主人公が暮らす
「スラム」には、多くの朝鮮人が彼女のそばに、
まちがいなくいたはずやのに・・・・
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と書きます。同時に「こうの氏の作品群は、傑作である。
 淡々と語りつつ、深く胸に迫る力は、この作家ならではのもの。」とも書かれていていますが。

物語の展開の中で在日の人が登場しないことに、ぼくには違和感はなかったのだが、これで思い出したのが、イメージ&ジェンダー研究会での木村智哉さんの報告
http://www.geocities.jp/imagegender/gaiyou.html#91-1
以下、部分引用
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「静か」で「清らか」で、そしてあくまで「私的な語り」としての原爆の記憶。それは公的空間、すなわち現代の政治状況を何ら揺るがすことの無い、影響力を殺がれた語りである。女性、わけても母性のイメージをもって、無垢な被害者としての自己像を獲得してきた戦後日本における一般的な「平和主義」の語りに対しては、その根本的な理解に疑義が呈され始めてから既に四半世紀以上が経っている。しかし今、明確な軍事化路線を進む政治改革と並行して、そうした「女性=平和=被害者」という、現在ではあまりにナイーヴに過ぎる語りさえもが私的空間へと押し込められているのである。
 こうの史代の意図が、被爆者の存在を、そして戦争における加害も含んだ「不幸」を知らせようとするところにあることは、彼女の種々のコメントを見れば明らかである。しかしながら彼女の作品はその意図とは異なる文脈によって称揚されているのである。
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「夕凪・桜」のように被爆を正面にすえた作品と「この世界の」のように、それは正面には掲げられない作品、それらを貫いてこうのさんが表現しようとしている世界は、確かに反核反戦運動や社会運動の観点からはぬるいと感じられる部分もあるかもしれない。しかし、こうのさんが表現しようとしているものは、そのストレートな告発では抜け落ちてしまう性格のものなのだろう。

その外面のやわらかさを別の意図をもったものが簒奪しようとするしないにかかわらず、こうのさんにはこうのさんが表現したいものを、ちゃんと表現してもらいたいと思う。

ぼくも若いときは直接的な告発みたいなものから外れた表現をぬるく感じることがあったように思う。しかし、人のもつ広がり、深さは計り知れない。表現者が直接的に表現できるのは限られた領域になるだろう。その限られた領域での深さや普遍性から見えてくるものがあるはずだと思う。

この記事へのコメント

└|∵|┐uematsu
2010年05月30日 22:35
こんにちは。mixi経由で来ました。
今日「沖縄を踏みにじるな新宿デモ」やってきたばかりで、まだ頭が切り替わっておらず、断片的なコメントになってしまうのですが、

木村智哉さんの
>「静か」で「清らか」で、そしてあくまで「私的な語り」としての原爆の記憶。それは公的空間、すなわち現代の政治状況を何ら揺るがすことの無い、影響力を殺がれた語りである。

という指摘に対して、なんか違和感を感じました。
その違和感は大きく2つの側面があって、
1つは『夕凪~』ラストの「嬉しい?」以下の独白部分は、控えめに考えても「現代の政治状況を何ら揺るがすこのない、影響力をそがれた語り」とは思えないこと。

もう1つは、この木村さんの発言、「原爆文学/漫画は、現代の政治状況を何ら揺るがす、影響力を持つ語り」であるべきだ、という前提が存在しているように思えることです。
でも、そんな前提って存在するのかしら、と私は思うのです。
どうも木村さんの発言には、「原爆文学」を「反戦運動」の素材というかツールとしてしか評価していないような印象があります。

まあ2番目の論点は込み入った議論になりそうなので深入りしませんが、1番目の論点、つまり「夕凪~」は私的な、内政的な語りの中に、私的な次元を超えた、大量虐殺(及びそれを正当化する言説)を明確に告発する言葉が、確実に存在すると(私は)思います。
また、気流舎とかでこの話題をしましょうか。
tu-ta
2010年06月03日 19:37
uematsuさん、コメントどうも。木村さんはこうのさん意図は「影響力をそがれた語り」をつくりだすことではないというのを知った上で、しかし、彼女の意思とは関係なくその作品がそのような文脈で賞賛され、簒奪されているというようなことを言っていると思います。問題は、そこにどう楔を入れるのかということなのではないでしょうか?

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