「こうの史代さんの表現について」・・・

こうの史代さんの表現について」について
こうのさんがコメントをくれて、すごくうれしかったので少し紹介。

http://6404.teacup.com/kouno/bbs
で、探してみてください。


で、こうのさんのコメントへのぼくのコメントは以下
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こうのさん、どうもです。
投稿者:tu-ta 投稿日:2010年 6月 3日(木)19時55分14秒 E219108021068.ec-userreverse.dion.ne.jp
ぼくはどうしても、静かな湖面に石を投げ込んで、波紋を起こしたいっていう潜在的な願望があるみたいで、すみません。まずいかなぁ、とか思いながら、でも、ときどきやっちゃいます。いやな思いをした人がいたらごめんなさい。

でも、こうのさんがあえて返信を書いてくれたこと、すごくうれしかったです。んで、こうのさんがこの表現の文脈を語ってくれたことで見えてくるさらに素敵な地平があると思います。それはぼくにとってだけじゃなくて、・・・と、そんな風にすぐ自分を肯定しちゃうのも悪い癖ですが(笑)。

貼り付けたURLのコメント欄にも少しやりとりがあるので、興味がある人は読んでください。

https://tu-ta.seesaa.net/article/201005article_14.html
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取り急ぎ
投稿者:こうの史代 投稿日:2010年 5月31日(月)20時11分14秒 B017106.ppp.dion.ne.jp 編集済
 わたしは別に不幸比べがしたいわけじゃないからなあ。

 tu-taさん、在日朝鮮人や日本の加害の描写がない事がお気に召さないお方は、前からいらっしゃるにはいらっしゃるんですよ。この人はかなり好意的だし優しいほう。かせたにさんご感想有難うございます。

 そして、事情は作品によって少しずつ違う。

 「夕凪の街 桜の国」の場合は、秘められた事情としての「原爆」を描く事に全力を注いだので、「わたしは被爆しています、しかも在日朝鮮人です」と誰かが大声で語りだすような場面はあえて作らなかった。でも、語らないからといって、被爆者がいないわけではないように、在日朝鮮人だっているだろうという可能性を否定したつもりはないけどなあ。実際、京花は在日かもという考察をしてくれた方だっていらっしゃったわけだし。

 「この世界の片隅に」の場合は、地理的に難しかった。朝鮮人労働者の居住地域が尾根や峠を越えたところにしかなく、実際の体験談でも、彼らに会った事がないという話ばっかりだった(ただ、その存在とひどい待遇を受けている事は伝聞で知っていた)。遠く離れた一箇所に閉じ込められて寝起きし、働かされ通している人たちと、個人的に出会ったり親しんだりする機会は、まずないと思った。その前から移住してきていた人は少しばらけて住んでいたようだけど、資料が得られなかったし、無理して出しても薄っぺらにしかならないと思った。

 いずれも、得た資料の中の、米英や中国や朝鮮を名指しで非難したり軽蔑したりする部分は絶対引用しないと決めていた。
 わたしは、国籍が違うからといってことさらに誰かに冷たくした事はない。しかし、ことさらに事情通のふり、親しいふりをして、自分だけは加害者じゃありませんと責任逃れをする「権利」など持っていない、とも思っている。

 当時の人々がすべて虐殺や虐待の当事者ではない。それでも、同時代の同じ国民だから、と責任を等しく彼らに押し付けようとする人が、現代のネットウヨクの所業について同時代の同じ国民として韓国で謝罪して回っているという話を聞いた事がない。結局、加害者(を糾弾しない事)を糾弾する事で、自分だけは加害者でないと思い込もうとしているだけなんじゃないかと思ってしまう。簡単に、被害者の心情に寄り添えるなんて、思い上がりだと思う。それが、わたしが原爆に教えて貰った事だ。

 木村智哉さんの方は、あんまり上手く読解した自信がないけど、多分全くその通り。でも、世の中の事は他人が決める事だから、わたしにはどうにも出来んね。

 原爆でもめるのは利権の奪い合いになるからこういう事はなるべく言わないようにしてきたけど、tu-taさんはこの辺の事を熱心に研究されているようだし、今は「この世界の片隅に」も描いたし、少し言わせて貰ってもいいかなと思いました。
 まあでもあんまりここではこういう話はしないようにしています。

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