《「障害の社会モデル」とエンパワメント》という松波 めぐみさん論文から
以前、
社会モデルとエンパワメントの両方が必要
https://tu-ta.seesaa.net/article/200905article_3.html
というのを書いた。
ここで、検索したら松波さんの論文がでてくるということだけを書いている。
松波さんにお願いして、表題の松波さんの論文を送ってもらった。
松波 めぐみさん《「障害の社会モデル」とエンパワメント -ジェンダー概念との接点に注目して-》
人権問題研究資料 18号に収録, 11-25, 2004-03-31 近畿大学人権問題研究所発行
最初のほうで松波さんは「障害学が他の人権問題に提起しうる、より普遍的な部分を探ってみたいというのが本論文執筆の一つの動機である」と書く。
この論文で松波さんは
《エンパワメントの土壌としての「社会モデル」》という風に位置づけている。以下のように書かれている。
====
そこでは常に健常者中心社会を捉え返す視点があった。ただ「心」の問題として「自分を好きになろう」と呼びかけたわけでも、ただ同じ障害をもつ仲間同士が励ましあったわけでもなかったのである。「多数者中心の社会」のあり方への見方が転換されてこそ、少数者のエンパワメントが可能になるのである。
====
ぼくは前述の「社会モデルとエンパワメントの両方が必要」で言いたかったのは
===
エンパワメントのために社会モデルが必要であり、また、社会モデルの出自でありまた帰結でもある社会を変革していくというアプローチのためにもエンパワメントは必要になってくる。その両方は相互に必要とされていて、それらをダイナミックにかみあわせていくことが必要なんじゃないか
===
ということ。
ここでは、森田ゆりさんの以下のエンパワメントの定義を援用した
===
エンパワメントとは「力をつける」ということではない。それは外に力を求めて、努力して勉強してなにものかになっていくということではなく、自分の中にすでに豊かにある力に気づき、それにアクセスすること。
なにものかにならなければ、何かをなしとげなければという未来志向の目的意識的な生き方は、裏返せば今の自分はだめだという自己否定と無力感を併せ持つ。
エンパワメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる、自己尊重の心は自分一人で持とうと意識して持てるものではない。まわりにあるがままのすばらしさを認めてくれる人が必要だ。無条件で自分を受け入れ、愛してくれる人が。
「エンパワメント」https://tu-ta.seesaa.net/article/200810article_12.html から)
====
障害者の自己尊重を可能にする(松波さんの表現を借りると、その土壌となる)のが「社会モデル」なのだと思う。そして、そのために森田さんが書いているように「認めてくれる人」は必要なのだが、それだけではなく、障害者の自己尊重を可能にする社会を形成するという課題・価値が必要になる。その社会変革のために、主体となる多様な民衆のエンパワメント(森田さんが定義するところの)が要請される。
その両方が密接にからみあうことで、社会の構造を動かし、その価値観を変えていく可能性が生じてくるのではないか。
また、同時にそのエンパワメントを必要とする社会に対する言葉にならない違和感や、不協和音、あるいはルサンチマンが渦巻いている。このネガティブな出発点と前述した非常に肯定的な社会変革の道筋を媒介する何かもまた必要になるのだと思う。「自己肯定なんか糞食らえだ」と思いたくなるような現実は存在する。そんな糞ったれの世界を自らに引き寄せ、変革していく契機となるような言説が予定調和に満ちた美しい言説ではありえないようにも思う。
とりあえず、この複雑な(たまに肯定的なこともあったりする)現実に対して、言葉にならなくてもいいから、何か叫んでみることを出発点として、仮に置いてみる。
そこから、じゃあ、それは何なのかと自分に確かめ続ける。そのどうしようもない現実を変えるためにはどうしたらいいのか、一人で考えていたら、どつぼに嵌ることが多いから、複数で考えられたら、それは面白いかもしれない。
このプロセスにエンパワメントや障害の社会モデルを重ねてみたいと思う。
いやぁ、自分でも予想しない、わけのわからないところに話が落ちていった。
====
Disability Social Model empowerment という四語で、こんどはちょっと英語でグーグル検索してみた
すると、書籍検索になり
Tom Shakespeareが編集している
The Disability Reader: Social Science Perspectives
という本が出てきて、そこに収録されてるColin Barnes という人が書いた"The Social Model od Disability:A Sociological Phenomenon Ignored bu Sociologist?
という論文がでてきた。こっちはコピペできないのでパス。
英語のWikipediaの
Social model of disability という項目ではこんな使われ方も
A fundamental aspect of the social model concerns equality. The struggle for equality is often compared to the struggles of other socially marginalized groups. Equal rights are said to give empowerment and the 'ability' to make decisions and the opportunity to live life to the fullest. A related phrase often used by disability rights campaigners, as with other social activism, is "Nothing About Us Without Us."
社会モデルとエンパワメントの両方が必要
https://tu-ta.seesaa.net/article/200905article_3.html
というのを書いた。
ここで、検索したら松波さんの論文がでてくるということだけを書いている。
松波さんにお願いして、表題の松波さんの論文を送ってもらった。
松波 めぐみさん《「障害の社会モデル」とエンパワメント -ジェンダー概念との接点に注目して-》
人権問題研究資料 18号に収録, 11-25, 2004-03-31 近畿大学人権問題研究所発行
最初のほうで松波さんは「障害学が他の人権問題に提起しうる、より普遍的な部分を探ってみたいというのが本論文執筆の一つの動機である」と書く。
この論文で松波さんは
《エンパワメントの土壌としての「社会モデル」》という風に位置づけている。以下のように書かれている。
====
そこでは常に健常者中心社会を捉え返す視点があった。ただ「心」の問題として「自分を好きになろう」と呼びかけたわけでも、ただ同じ障害をもつ仲間同士が励ましあったわけでもなかったのである。「多数者中心の社会」のあり方への見方が転換されてこそ、少数者のエンパワメントが可能になるのである。
====
ぼくは前述の「社会モデルとエンパワメントの両方が必要」で言いたかったのは
===
エンパワメントのために社会モデルが必要であり、また、社会モデルの出自でありまた帰結でもある社会を変革していくというアプローチのためにもエンパワメントは必要になってくる。その両方は相互に必要とされていて、それらをダイナミックにかみあわせていくことが必要なんじゃないか
===
ということ。
ここでは、森田ゆりさんの以下のエンパワメントの定義を援用した
===
エンパワメントとは「力をつける」ということではない。それは外に力を求めて、努力して勉強してなにものかになっていくということではなく、自分の中にすでに豊かにある力に気づき、それにアクセスすること。
なにものかにならなければ、何かをなしとげなければという未来志向の目的意識的な生き方は、裏返せば今の自分はだめだという自己否定と無力感を併せ持つ。
エンパワメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる、自己尊重の心は自分一人で持とうと意識して持てるものではない。まわりにあるがままのすばらしさを認めてくれる人が必要だ。無条件で自分を受け入れ、愛してくれる人が。
「エンパワメント」https://tu-ta.seesaa.net/article/200810article_12.html から)
====
障害者の自己尊重を可能にする(松波さんの表現を借りると、その土壌となる)のが「社会モデル」なのだと思う。そして、そのために森田さんが書いているように「認めてくれる人」は必要なのだが、それだけではなく、障害者の自己尊重を可能にする社会を形成するという課題・価値が必要になる。その社会変革のために、主体となる多様な民衆のエンパワメント(森田さんが定義するところの)が要請される。
その両方が密接にからみあうことで、社会の構造を動かし、その価値観を変えていく可能性が生じてくるのではないか。
また、同時にそのエンパワメントを必要とする社会に対する言葉にならない違和感や、不協和音、あるいはルサンチマンが渦巻いている。このネガティブな出発点と前述した非常に肯定的な社会変革の道筋を媒介する何かもまた必要になるのだと思う。「自己肯定なんか糞食らえだ」と思いたくなるような現実は存在する。そんな糞ったれの世界を自らに引き寄せ、変革していく契機となるような言説が予定調和に満ちた美しい言説ではありえないようにも思う。
とりあえず、この複雑な(たまに肯定的なこともあったりする)現実に対して、言葉にならなくてもいいから、何か叫んでみることを出発点として、仮に置いてみる。
そこから、じゃあ、それは何なのかと自分に確かめ続ける。そのどうしようもない現実を変えるためにはどうしたらいいのか、一人で考えていたら、どつぼに嵌ることが多いから、複数で考えられたら、それは面白いかもしれない。
このプロセスにエンパワメントや障害の社会モデルを重ねてみたいと思う。
いやぁ、自分でも予想しない、わけのわからないところに話が落ちていった。
====
Disability Social Model empowerment という四語で、こんどはちょっと英語でグーグル検索してみた
すると、書籍検索になり
Tom Shakespeareが編集している
The Disability Reader: Social Science Perspectives
という本が出てきて、そこに収録されてるColin Barnes という人が書いた"The Social Model od Disability:A Sociological Phenomenon Ignored bu Sociologist?
という論文がでてきた。こっちはコピペできないのでパス。
英語のWikipediaの
Social model of disability という項目ではこんな使われ方も
A fundamental aspect of the social model concerns equality. The struggle for equality is often compared to the struggles of other socially marginalized groups. Equal rights are said to give empowerment and the 'ability' to make decisions and the opportunity to live life to the fullest. A related phrase often used by disability rights campaigners, as with other social activism, is "Nothing About Us Without Us."
この記事へのコメント