『リハビリの夜』メモ 2015年2月に少しだけ追記
『リハビリの夜』熊谷 晋一郎著
2015年2月に少しだけ追記&体裁変更
読書メーターの読み終わった直後のメモ
2015年追記、このあと、本人にも会ったし(ちゃんと話はできていない)、彼の介助者とも知り合いになったので、ここを確認したのだが、ほんとうにトイレが使えるかどうかを確認しないで部屋を借りたらしい。いまだにその感覚は信じられないのだけど・・・。この部分の2015年追記、ここまで
読み終わってから、ちょっと時間がたったが、図書館に帰す前に付箋を貼ったところを中心にメモ。
「はじめに」には
読み終わって、「運動に内在するはずの官能」というものの正体がぼくには、もうひとつ理解し切れなかった。読解力の問題もあるのだろうが、「官能」という極めてパーソナルな感覚について、他者に理解させる困難というのはあるのだと思う。
官能の話ではないが、個としての追体験を熊谷さんは読者に求めている。なぜ彼が転びやすいのか、転ぶと二次元の世界に落ち込んでしまうのか、という問いをたて、それへの「障害」とか「脳性まひ」とかいうような表面的な回答を拒否する。それは「なんだかわかったような気にさせる力をもっているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである」(22p)という。
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ここから2015年の追記部分
「運動に内在するはずの官能」をより深く理解できるのは、かなり意識して熱心に運動しなければ動かない身体を持っているからではないか。あるいは極限まで運動能力を高めることが求められる運動選手も「運動に内在するはずの官能」を意識できるかもしれない。
日々、漫然と暮らしていると、「運動に内在するはずの官能」はなかなか体感することができないのではないのか、そんなことをいまになって思いついた。
追記ここまで
~~~~
同時期に出版され、並べられることが多い川口さんの「逝かない身体」(そういえば、ぼくも連続して読んだ)でも「障害受容」の話に触れられていたが、この本でも「障害受容」はとりあげられている(田島さんの影響力すごい)。
短い文章で「障害受容」が持つ問題を的確に言っているように思う。そして、ぼくの内部にある「障害受容」すればいいじゃないかというような潜在的な思いが「障害者運動」でつちかわれた感覚だと言い当てられたような気がした。複雑なのは熊谷さんは、こんな風に書きながら、障害があるとされる彼の身体を拒否しているわけではないということだ。「障害受容」を否定する言説と「障害」がともにあるという感覚のあいだの微妙な関係がもう少し明確に語られる必要があるのかもしれない。(もしかしたら、田島さんが書いてたかもしれないけれども)
熊谷さんはこの直後に脳科学の急速な進歩を理論的根拠にするセラピストの出現に触れる。彼はその情熱を評価しつつも、そこで問題にされるのが脳性まひという身体が「克服されるべきもの」と決め付けられることだとする。そして、「脳科学の進歩をいかに実践へと展開するかというときに欠くことができないのは、自らの技法の効果を吟味しようとする科学的態度と、身体と動きについての多様性を認める寛容で柔軟な態度の二つだといえよう」という。
役に立たない手術などが大手を振っていたことへの総括がちゃんとなされているとは思えない。そのようなことが繰り返されないために、この二つの条件だけで十分なのかどうか。ちょっと足りないような気もする。熊谷さんにはそのあたりの医学からの批判もちゃんとして欲しいと思う。
「介助者にも3センチの段差が見えてくる」
これは車椅子介助の経験があれば、普通に見えてくる体験だが、こんな風に言語化されなければ、特に意識することもなかった。そのことについて熊谷さんはこんな風に書く。
少数派の運動規範すべてをアプリオリに前提とすることはできないだろう、しかし、何かで関係を持った人の運動規範は前提とすることができないわけではない。その複眼化の作業を行うということが社会モデルにそった社会を実現する上で重要になってくる。この運動規範の複眼化というのは障害問題のみならず、たまざまな「共生」が問題とされる場面で使えそうな気がする。
しかし、同時にどうすれば複眼化できるのか、というのはそれほど単純ではないのではないか。「介助者にも3センチの段差が見えてくる」という車椅子の運動規範は経験の中で身についてきた。しかし、付き合いがそんなにないわけではない視覚障害の誰かの運動規範や聴覚障害の誰かの運動規範が身についているかといえば、なかなか思い当たらない。とはいうものの、いっしょにいる時間がそれなりにあれば、例えばコミュニケーションの中で、「こんな風にしても伝わらない」とか「こんな風に後ろから肩をたたいたりするといやがられる」というのはあるわけで、意識していない運動規範の共有というのはありそうな気がする。その複眼化というのは、ほとんどが意識しないで行われているのではないだろうか。それに複眼化という風な命名をすることで、可視化できる領域はひろがりそうだと思う。
同時に、そのことで「世界の意味がますます芳醇に分節化していく」と感じたことなんかなかったんだが、そうか芳醇になっているのかと鼻高々になりそうになったり、そんなにたいそうなことじゃないだろうと思ったりもしている。
また、熊谷さんはリハビリや介助/被介助の関係について、「権力構造が《加害/被害関係》を決める」という節の中で、「介助者の動きを被介助者がコントロールする権力関係というのは認められてしかるべき」だが、「《加害/被害関係》に陥るくらいだったら、関係を無理に継続しないほうがいい」と書く(198p)。
そして、次の「隙間は埋められなければならないのか」という節では、「目標を前にして二者関係というのは、《ほどきつつ拾い合う関係》、《まなざし/まなざされる関係》、そして《加害/被害関係》のあいだを不安定に推移しうる」とし、
この後者は困難だろうなと思う。しかし、この隙間を可能性に変えるという発想は面白い。ここもまた、リハビリや障害問題に限らず、もう少し広い文脈で使えそうな気がする。
そして、この本の最終章は「隙間に自由が宿る」という隙間の話だ。サブタイトルは「もうひとつの発達論」
その隙間(つながれなさ)があるからこそ、人間は他者とつながれるように言葉をつむいだのだし、対象のイメージを分節化していくのだし、そこから「私の意識に捉えられる世界や自己の表象は協応構造にできた隙間に産み落とされると言っていいかもしれない」という。そこから協応構造の不在は未発達や不適応といった消極的な意味にとどまらないということが導かれる。
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という。
develpoment概念の見直しがここでも行われている。ここも個人のdevelopmentだけでなく、社会のdevelopmentにも援用できるのではないか。
最後に結語近い部分のメモを書こうと思うのだが、うまくまとまりそうにない。
凍結と解放の繰り返し・・・・、もうこのへんでやめることにする。
追記
アマゾンの書評を読んでいて知ったのだが、著者は東京大学の医学部というところを卒業しているらしい。そのことへの人々のすごいまなざしを感じる。ぼくもこれを前提の知識として知っていたら、また、違うまなざしでこの本を読んだかもしれない。言葉にはされていないが、CPと東大医学部はミスマッチだという前提がそのまなざしには含まれているのだろうと思う。そのミスマッチを解決する鍵を彼にさがしている人が複数いたことに、そんなもんだよね、と思った。
追記2
グラウンディングの話がでてくる(201p)。ロボット学者の岡田美智男さんによるのだが、
「行為の意味や価値を見いだすために、その意味や価値を環境に委ねる」という投機的な振る舞いをentrusting behavior と呼び、いっぽう地面などでそうした投機的な行為を支え、意味や役割を与える役割をgrounding(グラウンディング)と呼ぶ、という。グラウンディングというのは正木高志さんも特別な意味を込めて使っていた言葉だ。https://tu-ta.seesaa.net/article/200707article_14.html 参照。
英辞郎で調べると正木さん的な用法はあまりないんだけど。
追記3
『健常者』の身体に慣れてしまったぼくには「失禁の恍惚」といわれても実感としてなかなかわからないなぁ。確かにその瞬間、緊張から解放されるというのは頭では理解できるんだけど。それ以外の感情が先に出そうだ。
追記4
失禁を始末する介護者の怯えについて、その怯えを「えいやっ」と乗り越えるのではなく、怯えを抱えながら待っていて欲しい、とのこと。
追記5
「問題は・・・社会の側にあるのに、自己の身体を問題化してたまるか」という発想がある障害者運動の活動家が自己の身体の問題への対応を避けてしまうという問題、という提起も興味深かった。224p
ここまでの追記はこれを書いた当時のもの。
以下、2015年の追記(とはいうもののこれを書いたのは2011/03/21 08:30
コメント欄に書いた追記のURLがリンクしてくれないので本体に移動
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《粂 和彦(さんの)のメモログ》の
書評:リハビリの夜 熊谷晋一郎
http://sleep.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-3bd3.html
ここでの熊谷さんのレスポンスを含めて、とても興味深い内容。
《自らを、一方的に権力に抑圧されるばかりの「反権力」として位置づけるのではなく、権力を深く内面化してしまった主体として引き受けることから始める。そうすると、権力に抵抗しうる拠点というか羅針盤は、この「敗北の官能」として実感される高ぶりなんじゃないかと、考えた》とのこと。ここに書いたぼくの読書メモ、読めてないなぁと思う。
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この書評については
https://tu-ta.seesaa.net/article/201103article_11.html
で、書いているが、ほとんど内容はないかも
2015年2月に少しだけ追記&体裁変更
読書メーターの読み終わった直後のメモ
ぼくの個人的な趣味なのだが、5章4節以降が断然面白かった。そこから付箋が急激に増えた。もちろん、そこまでにも興味深く面白いエピソードは少なくないが。しかし、あえて難点を言わせてもらうと、ちょっと嘘くさかったのが一人暮らしの開始時点でのトイレとの格闘。まず、部屋を決める前にそこを確認するんじゃないかと思う。あそこは作り話じゃないかと感じた。どうなんだろう。機会があったら聞いてみたい。
2015年追記、このあと、本人にも会ったし(ちゃんと話はできていない)、彼の介助者とも知り合いになったので、ここを確認したのだが、ほんとうにトイレが使えるかどうかを確認しないで部屋を借りたらしい。いまだにその感覚は信じられないのだけど・・・。この部分の2015年追記、ここまで
読み終わってから、ちょっと時間がたったが、図書館に帰す前に付箋を貼ったところを中心にメモ。
「はじめに」には
・・・、リハビリ現場のみならず、広く社会全体において暗黙のうちに前提とされている「規範的な体の動かし方」というものを、問いなおしていきたいと思っている。
・・・「運動に内在するはずの官能」というものに目を向けることが、このテーマにとって重要な論点になるはず・・・。
本書では、・・・「痛いのは困る、気持ちいいのがいい」という荒削りで弱々しい体の声を羅針盤にして論じていきたい。
読み終わって、「運動に内在するはずの官能」というものの正体がぼくには、もうひとつ理解し切れなかった。読解力の問題もあるのだろうが、「官能」という極めてパーソナルな感覚について、他者に理解させる困難というのはあるのだと思う。
官能の話ではないが、個としての追体験を熊谷さんは読者に求めている。なぜ彼が転びやすいのか、転ぶと二次元の世界に落ち込んでしまうのか、という問いをたて、それへの「障害」とか「脳性まひ」とかいうような表面的な回答を拒否する。それは「なんだかわかったような気にさせる力をもっているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである」(22p)という。
~~~~~
ここから2015年の追記部分
「運動に内在するはずの官能」をより深く理解できるのは、かなり意識して熱心に運動しなければ動かない身体を持っているからではないか。あるいは極限まで運動能力を高めることが求められる運動選手も「運動に内在するはずの官能」を意識できるかもしれない。
日々、漫然と暮らしていると、「運動に内在するはずの官能」はなかなか体感することができないのではないのか、そんなことをいまになって思いついた。
追記ここまで
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同時期に出版され、並べられることが多い川口さんの「逝かない身体」(そういえば、ぼくも連続して読んだ)でも「障害受容」の話に触れられていたが、この本でも「障害受容」はとりあげられている(田島さんの影響力すごい)。
「回復アプローチ」におけるリハビリの限界とそれへのクライエントの不満を「障害受容」という言葉で抑圧しようとする現場の専制性・・・これは・・・《まなざし/まなざされる関係》の一つであり許されるべきものではない。さらに障害者運動の論理が、障害受容できないクライエントを追い詰める権力として動員されるとしたら、たいへん不幸なことだ。
短い文章で「障害受容」が持つ問題を的確に言っているように思う。そして、ぼくの内部にある「障害受容」すればいいじゃないかというような潜在的な思いが「障害者運動」でつちかわれた感覚だと言い当てられたような気がした。複雑なのは熊谷さんは、こんな風に書きながら、障害があるとされる彼の身体を拒否しているわけではないということだ。「障害受容」を否定する言説と「障害」がともにあるという感覚のあいだの微妙な関係がもう少し明確に語られる必要があるのかもしれない。(もしかしたら、田島さんが書いてたかもしれないけれども)
熊谷さんはこの直後に脳科学の急速な進歩を理論的根拠にするセラピストの出現に触れる。彼はその情熱を評価しつつも、そこで問題にされるのが脳性まひという身体が「克服されるべきもの」と決め付けられることだとする。そして、「脳科学の進歩をいかに実践へと展開するかというときに欠くことができないのは、自らの技法の効果を吟味しようとする科学的態度と、身体と動きについての多様性を認める寛容で柔軟な態度の二つだといえよう」という。
役に立たない手術などが大手を振っていたことへの総括がちゃんとなされているとは思えない。そのようなことが繰り返されないために、この二つの条件だけで十分なのかどうか。ちょっと足りないような気もする。熊谷さんにはそのあたりの医学からの批判もちゃんとして欲しいと思う。
「介助者にも3センチの段差が見えてくる」
これは車椅子介助の経験があれば、普通に見えてくる体験だが、こんな風に言語化されなければ、特に意識することもなかった。そのことについて熊谷さんはこんな風に書く。
このようにして互いの規範の多重性を持ち合うことは、自分とは異なる身体的条件をもった他者との関係が、一方的に規範を押し付ける同化的な《加害/被害関係》に陥らないためにも必須・・・私固有の運動規範は、多数派の運動規範を前提条件としている。それと同じように、多数派の運動規範も私固有の運動規範を前提として歩み寄ってくれなければ、私は再びリハビリ的な同化圧力にさらされてしまう・・
規範の多様性を持ち合うことによって、世界に注ぐまなざしをより複眼的にしつつ他者とそろえていくのは、決して二者の間にある身体的な差異を抹消するような融和ではない。・・・それは差異を持った人間が同じ世界に住むことによって、世界の意味がますます芳醇に分節化していくプロセス・・(193p)
少数派の運動規範すべてをアプリオリに前提とすることはできないだろう、しかし、何かで関係を持った人の運動規範は前提とすることができないわけではない。その複眼化の作業を行うということが社会モデルにそった社会を実現する上で重要になってくる。この運動規範の複眼化というのは障害問題のみならず、たまざまな「共生」が問題とされる場面で使えそうな気がする。
しかし、同時にどうすれば複眼化できるのか、というのはそれほど単純ではないのではないか。「介助者にも3センチの段差が見えてくる」という車椅子の運動規範は経験の中で身についてきた。しかし、付き合いがそんなにないわけではない視覚障害の誰かの運動規範や聴覚障害の誰かの運動規範が身についているかといえば、なかなか思い当たらない。とはいうものの、いっしょにいる時間がそれなりにあれば、例えばコミュニケーションの中で、「こんな風にしても伝わらない」とか「こんな風に後ろから肩をたたいたりするといやがられる」というのはあるわけで、意識していない運動規範の共有というのはありそうな気がする。その複眼化というのは、ほとんどが意識しないで行われているのではないだろうか。それに複眼化という風な命名をすることで、可視化できる領域はひろがりそうだと思う。
同時に、そのことで「世界の意味がますます芳醇に分節化していく」と感じたことなんかなかったんだが、そうか芳醇になっているのかと鼻高々になりそうになったり、そんなにたいそうなことじゃないだろうと思ったりもしている。
また、熊谷さんはリハビリや介助/被介助の関係について、「権力構造が《加害/被害関係》を決める」という節の中で、「介助者の動きを被介助者がコントロールする権力関係というのは認められてしかるべき」だが、「《加害/被害関係》に陥るくらいだったら、関係を無理に継続しないほうがいい」と書く(198p)。
そして、次の「隙間は埋められなければならないのか」という節では、「目標を前にして二者関係というのは、《ほどきつつ拾い合う関係》、《まなざし/まなざされる関係》、そして《加害/被害関係》のあいだを不安定に推移しうる」とし、
チームワークが《加害/被害関係》に陥らずにすむために、一つには・・・権力構造への自覚が必要だろう。そして、もう一つ、協応構造から外れたときに立ち現われる隙間を、あるいは思い通りにならない他者性を、早急になくすべきものとして捉えるのではなく、そこにはお互いにとってよりよい何かを新たに築くための可能性を見出すような、ゆったりした構えもかかせないであろう。と書いている。
この後者は困難だろうなと思う。しかし、この隙間を可能性に変えるという発想は面白い。ここもまた、リハビリや障害問題に限らず、もう少し広い文脈で使えそうな気がする。
そして、この本の最終章は「隙間に自由が宿る」という隙間の話だ。サブタイトルは「もうひとつの発達論」
その隙間(つながれなさ)があるからこそ、人間は他者とつながれるように言葉をつむいだのだし、対象のイメージを分節化していくのだし、そこから「私の意識に捉えられる世界や自己の表象は協応構造にできた隙間に産み落とされると言っていいかもしれない」という。そこから協応構造の不在は未発達や不適応といった消極的な意味にとどまらないということが導かれる。
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できるようになっていくことや、より適応していくことだけを「発達」とみなすの従来の考え方には、どこか重大な落とし穴があるような気がしてならない。209p
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という。
develpoment概念の見直しがここでも行われている。ここも個人のdevelopmentだけでなく、社会のdevelopmentにも援用できるのではないか。
最後に結語近い部分のメモを書こうと思うのだが、うまくまとまりそうにない。
凍結と解放の繰り返し・・・・、もうこのへんでやめることにする。
追記
アマゾンの書評を読んでいて知ったのだが、著者は東京大学の医学部というところを卒業しているらしい。そのことへの人々のすごいまなざしを感じる。ぼくもこれを前提の知識として知っていたら、また、違うまなざしでこの本を読んだかもしれない。言葉にはされていないが、CPと東大医学部はミスマッチだという前提がそのまなざしには含まれているのだろうと思う。そのミスマッチを解決する鍵を彼にさがしている人が複数いたことに、そんなもんだよね、と思った。
追記2
グラウンディングの話がでてくる(201p)。ロボット学者の岡田美智男さんによるのだが、
「行為の意味や価値を見いだすために、その意味や価値を環境に委ねる」という投機的な振る舞いをentrusting behavior と呼び、いっぽう地面などでそうした投機的な行為を支え、意味や役割を与える役割をgrounding(グラウンディング)と呼ぶ、という。グラウンディングというのは正木高志さんも特別な意味を込めて使っていた言葉だ。https://tu-ta.seesaa.net/article/200707article_14.html 参照。
英辞郎で調べると正木さん的な用法はあまりないんだけど。
追記3
『健常者』の身体に慣れてしまったぼくには「失禁の恍惚」といわれても実感としてなかなかわからないなぁ。確かにその瞬間、緊張から解放されるというのは頭では理解できるんだけど。それ以外の感情が先に出そうだ。
追記4
失禁を始末する介護者の怯えについて、その怯えを「えいやっ」と乗り越えるのではなく、怯えを抱えながら待っていて欲しい、とのこと。
追記5
「問題は・・・社会の側にあるのに、自己の身体を問題化してたまるか」という発想がある障害者運動の活動家が自己の身体の問題への対応を避けてしまうという問題、という提起も興味深かった。224p
ここまでの追記はこれを書いた当時のもの。
以下、2015年の追記(とはいうもののこれを書いたのは2011/03/21 08:30
コメント欄に書いた追記のURLがリンクしてくれないので本体に移動
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《粂 和彦(さんの)のメモログ》の
書評:リハビリの夜 熊谷晋一郎
http://sleep.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-3bd3.html
ここでの熊谷さんのレスポンスを含めて、とても興味深い内容。
《自らを、一方的に権力に抑圧されるばかりの「反権力」として位置づけるのではなく、権力を深く内面化してしまった主体として引き受けることから始める。そうすると、権力に抵抗しうる拠点というか羅針盤は、この「敗北の官能」として実感される高ぶりなんじゃないかと、考えた》とのこと。ここに書いたぼくの読書メモ、読めてないなぁと思う。
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この書評については
https://tu-ta.seesaa.net/article/201103article_11.html
で、書いているが、ほとんど内容はないかも
この記事へのコメント
書評:リハビリの夜 熊谷晋一郎
http://sleep.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-3bd3.html
ここでの熊谷さんのレスポンスを含めて、とても興味深い内容。
《自らを、一方的に権力に抑圧されるばかりの「反権力」として位置づけるのではなく、権力を深く内面化してしまった主体として引き受けることから始める。そうすると、権力に抵抗しうる拠点というか羅針盤は、この「敗北の官能」として実感される高ぶりなんじゃないかと、考えた》とのこと。ここに書いたぼくの読書メモ、読めてないなぁと思う。