「戦地」に生きる人々(JVJA(編集)の紹介

豊田がmixiで紹介していたものを多少並べ替えたりして、以下に転載
(ぼくはまだ読んでません(笑)

====
新刊のお知らせ 
『「戦地」に生きる人々』(集英社新書)
豊田直巳が参加するJVJA(日本ビジュアルジャーナリスト協会)の仲間で、新書を出します。
明日、9月17日には店頭に並びます。豊田は本書で編集を担当した他、序章、あとがきと第六章のレバノンを執筆しております。是非、本屋さん、もしくはJVJA http://www.jvja.net/
もしくはアマゾンhttp://www.amazon.co.jp/dp/4087205576/ でお求めください。
またTwitterでご感想などご紹介をいただける場合はショートURLのhttp://amzn.to/cAXxLu
をお願いします。




まえがき:見知らぬ人々の悲劇ではなく  堤未果(非会員です)
序章:「閉ざされた声」を届けたい    豊田直巳
第一章:チベット 人々の祈り      野田雅也
第二章:ビルマ(ミャンマー) 辺境から見る軍事政権 山本宗補
第三章:マーシャル諸島 蝕まれてゆく島で 森住卓
第四章:ハイチ 聖地の村で 佐藤文則
第五章:チェチェン 闘う女性たち 林克明
第六章:レバノン 境界線に生きる 豊田直巳
第七章:パレスチナ・ガザ: 封鎖下に生きる人々 古居みずえ
あとがき


以下、会員で執筆者でもある山本宗補が本文の一部を抜き出して紹介していますので転載します。

「そう、この本の価値はそこにある。これは遙か遠い土地に住む見知らぬ人々の悲劇ではなく、それを切り取るジャーナリスト、そして受け手である私たち自身の物語でもあるからだ」
(この新書のために寄稿していただいた堤未果さんのまえがき)

「それは、『他の誰もが報道しないならば、自分が報じなければならない』、と考えているからです。仮に誰も報じなければ、歴史的な事実さえも、まるでこの世に存在しなかったかのように社会から抹殺されてしまうという『メディアの時代』を、私たちは生きています。JVJAの仲間は、そうした状況だからこそ、なおさら伝えることの意義を通説に感じているわけです」(序章 豊田)

「ここには思想や言論の自由も、宗教の自由もある。けれども、難民であるが故に社会的権利はない」とロブサンは言う。中国の圧制下で生きる仲間たちを思えば、『耐えるほかないのは分かっている』。けれども、国とは何か、自分は何者なのか、果てしない苦悩が彼を苛む。『チベットの草原はどんなにおいがするのか。空はどれほど蒼いのか。想えば想うほど、故国が恋しい』」(第一章 チベット 人々の祈り 野田)

「ケビンは、『日本の国連大使は軍事政権の宣伝マンだ』と語気を強める。カレン族の危機的状況から浮かび上がるのは、日本がビルマの「民政移管、国民和解、人権状況の改善」に貢献する姿ではない。少数民族を弾圧し、民主化を求める声を圧殺する政権に『加担する』姿だった」(第二章 ビルマ 辺境から見る軍事政権 山本)

「その後、病人が続出し、死産や流産も相次ぐなか、ロンゲラップ島民が生まれ故郷を捨てる決意をし、クワジェレン環礁の無人島だったメジャットへ移住したのは八五年。五七年の帰島から三〇年近くが過ぎていた。自然の恵みで自給自足の暮らしをしていた人々は、核実験によって健康を蝕まれただけでなく、生活の基盤すべてを失ったのである。
マーシャル政府は、『プロジェクト4・1は人体実験だ』として米国政府の責任を追及している。だが米国は今なお、事実の解明に必要な機密文書の公表を拒んでいる」(第三章 マーシャル諸島 蝕まれてゆく島で 森住)

「おそらく往復で六時間以上は歩いたのだろう。電話のモナの声は、先日と違い、ひどく疲れた様子だった。『ポルトープランスの建物はみんな壊れて、ひどいありさまよ。それにゴミと糞尿と死臭がひどい。においが体や服に染みついて、何度洗っても取れない!』
そう話したモナは、電話口で泣き叫んでいた。震災後、懸命に抑えていた感情が一気に爆発したのだ。震災の様子をにおいで伝えようとしたモナの言葉が、私の心に強く響いた」
(第四章 ハイチ 聖地の村で 佐藤)

「チェチェンの現状をどうやって世界に伝えていくか。議論は三時間に及び、議長役の女性(62)が、『ロシアはチェチェンの魂を屈服させることはできない。それをペンの力で訴えていこう』と締めくくった。『私には自分が見たこと、知ったことを、伝える勇気がある』。言論の自由などないに等しい状況にあっても、タイーサはそう言い切る。今、メディアが支配体制に組み込まれ、別の意味で言論や表現活動の自由が危うくなっている日本で、私は彼女の言葉をかみしめている」(第五章 チェチェン 闘う女性たち 林)

「『塔の上にイスラエルの監視カメラが見えるでしょう。あそこもシェバ農場の一部でした。
あの先には一四の農場があり、約一二〇〇家族の農民が住んでいたんです。どの家族も
羊を二〇〇頭あまり飼っていて、とても豊かな暮らしをしていました。私の家族もその一つでした』」(第六章 レバノン 境界線に生きる 豊田)

「二〇〇〇年からの第二インティファーダの時は、イスラエル兵に追われた若者を家に
かくまい、何度も逃してやった。兵士が来ても、ウンム・アシュラフは引き下がらなかった。殴られて前歯が何本も折れた。『私たちはいつも頑張ってきた。いつかいい日が来る、いつかいい日が来る、そう言って頑張ってきた。つらい時はいくらでもあったければ、心から楽しいと思う時はなかった』。ウンム・アシュラフは、自分が生きてきた六〇年を振り返って、そう言った」(第七章 パレスチナ・ガザ: 封鎖下に生きる人々 古居)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック