『技法以前』メモ
『技法以前』メモ
いつも以上に未整理の読書メモ。
SSTが大切にしてる”ほめる”ことや、その顕われである拍手の多用に対しても「実感のない、表層的な肯定だ」という批判が絶えない。しかし、ここで大切なのは、それをやめないことである。14p
浦河には、「○○先生のお陰で病気がよくなりましたという患者は治りが悪い」という”ことわざ”31p
ありがちな「製薬会社と結託した精神科病院が患者を喰い物にして儲けに走っている……」というように批判できるほど単純ではない。私の印象では、良心的な医療を心がけ、熱心に患者の訴えを聞き、少しでも本人のかかえる症状のつらさや問題の改善をはかろうとする精神科医ほど「多剤大量」に陥りやすい気がする。42p
ほんとにそうだろうか、向谷地さんを筆頭に、これだけ関係性がいわれているのに、そのことを学ばない精神科医とはいかがなものか。
精神医療における地殻変動を象徴する変化は、当事者が「自分の専門家になる」ということが日常化してきたこと…。そこには、大きく…二つの流れ…。
第一は、権威としての「専門家の力」に対抗して、「自分のことは自分がわかっている」という立場…。障害をもつ当事者の力を再評価する当事者主権の流れ…
第二はその裏返しとして、専門家自身がみずからの立場を「無力」と位置づけ、専門家として権威性を否定し、当事者ならではのユニークな世界や力を認めるなかで現実に対するアプローチを模索しようとする流れ
浦河では、第三の流れ…
それは「自分のことは、自分がいちばん”かわりにくい”ことを知っている人」としての当事者と、「幻聴や被害妄想など、もし当事者と同じような状況に遭遇したら同様に戸惑い困難に陥るであろうことを知っている人」としての専門家(当事者としての専門家)――この二つの「無力」によって支えられている立場
43-44p
(ニューヨーク大学のリハビリセンター病院の壁に書き残された落書き
http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/12/blog-post_767.html
にあった英文
【英語版】"A Creed For Those Who Have Suffered"(Answered Prayer)
I asked God for Strength, that I might achieve, I was made weak, that I might learn humbly to obey ...
I asked for health, That I might do greater things, I was given infirmity, That I might do better things...
I asked for riches, That I might be happy, I was given poverty, That I might be wise...
I asked for power, That I might have the praise of men, I was given weakness, That I might feel the need of God...
I asked for all things That I might enjoy life, I was given life, That I might enjoy all things...
I got nothing that I asked for-But everything I had hope for;
Almost despite myself, My unspoken prayers were answered.
I am among all men most richly blessed.
-Unknown Confederate Soldier HERITAGE
これをもとに自分なりに翻訳
http://ecosan194.blog115.fc2.com/?mode=m&no=87
も少し参考にさせてもらった。
==
苦しめられているものたちのための信条(叶えられた祈り)
"A Creed For Those Who Have Suffered"(Answered Prayer)
何かを成し遂げたかったから強さを与えてほしいと神に求めた。すると弱くさせられた。謙虚に耳を傾けることを学ぶようにと。
I asked God for Strength, that I might achieve, I was made weak, that I might learn humbly to obey ...
健康を求めた、いまより素晴らしいことをしたかったから。与えられたものは病弱だった。より良いことをするようにと。
I asked for health, That I might do greater things, I was given infirmity, That I might do better things...
幸せになろうとして豊かさを求めた。与えられたものは貧しさだった。私が賢明であるようにと。
I asked for riches, That I might be happy, I was given poverty, That I might be wise...
人々の賞賛を得るために力を求めた。与えられたのは弱さだった。絶対者の必要を感じるようにと。
I asked for power, That I might have the praise of men, I was given weakness, That I might feel the need of God...
人生を楽しみたかったから、あらゆるものを求めた。授かったのは、いのち。あらゆることを楽しむようにと。
I asked for all things That I might enjoy life, I was given life, That I might enjoy all things...
求めたものは一つとして与えられなかったが、希んだことはすべて聞き届けられ;
ほとんどが私のままであるにもかかわらず、言葉にならない祈りはすべて叶えられれた。
I got nothing that I asked for-But everything I had hope for;
Almost despite myself, My unspoken prayers were answered.
最後の一文《I am among all men most richly blessed.》はちょっと手に負えない感じ。
参考までに
「私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ」という訳と「親愛なる神よ。あなたの光が、わたしの内なる自己を満たし、わたしが生きとし生けるものすべてを祝福できるようわたしを光で満たしてください ・・・」という訳があるが、参照した英文が違うのかもしれない。
===
・・・
このように専門家の前向きな「無力」と、当事者がかかえる力としての「無力」こそが、二つの権威化を防ぐことになる。一つは旧来からある「専門家の権威化」であり、もう一つは、近年目立つようになってきている当事者のかかえる病と障害という「経験の権威化」である。この両者の権威化を防ぐことこそが、当事者と専門家の連携とパートナーシップの基盤となるのである。48p
===
援助者は、当事者の身体の五感に張りめぐらされた保護的で過敏さを増したバリアをくぐり抜けて、その暗がりの向こう側で疲労困憊する本人を見出さなくてはいけない。そして当事者の傍らにそっと腰を下ろし、その困難さに満ちた世界を共にため息をつきながら、見渡す。そんな現実感をもってその場にたたずむことだ。
・・・
このように「信じる」という作業は、現実感をもって当事者を見ようとする営みである。ここでいう現実感とは、「もし自分が彼の立場だったらどうだろう」という想像力と、「彼がかかえる苦しみが自分に起きたら同じように振る舞うに違いない」という連帯感である。
そして、心の底から「きみは偉いよ。本当によくがんばってきたね。これからは一人ではなく、一緒にこの苦労を生きていこうよ。そして君の経験は、同じ困難を生きている多くの仲間や家族にとっても、とても大切な経験だよ」と語りかける。
その言葉が、当事者自身が孤独のバリアから人のつながりを取り戻す作業の「命綱」になっていくのである。 58-59p
===
第4章《「聴かない」ことの力》で向谷地さんはまず、「ケアの基本は、「聴くこと」である。と書いた上で、鷲田精一の『「聴く」ことの力』を紹介し、彼の問題意識をもっとも的確に表現したのが「哲学はこれまでしゃべりすぎてきた……」という言葉だという。
そして、その本から引用する。「語ることがまことのことばを封じ込める、ということがないだろうか。まことのことばを知るためにこそ、わたしたちは語ること以上に、聴くことをまなばなければならない」
これを引用した直後に以下のように書く。
===
この問題提起にドキッとさせられるものがある。「聴くこと」の形骸化が進んでいるようにみえる臨床現場に対する、一種の批判とも思えてくるからである。私の問題意識を鷲田氏の言葉に重ねると、「ケアの現場は、聴きすぎてきた」ということになるだろう。すなわち「聴くことが真のことばを封じ込める」ということがないだろうか。
===
と。ここから世にはびこる「傾聴」への批判を展開する。ここでは《「聴くこと」の形骸化》の批判という表現だが、「聞いてもらうことに飽き飽きしています」という当事者の親の訴えをなど、読み進むと「聴くこと」と「聴かないこと」のバランスの問題なのではないかと思えてくる。聴けばいいってもんじゃないということなのだ。
その話は川村先生の治療の話にもつながる。(そこは略)
===
…カール・ロジャースも「傾聴の技法化」に陥らないように、傾聴のベースには「一人の人間の持つ重み、そのかけがえのなさ」に対する十分な認識が必要だと…
もし聴くということが「ただ、そばにいること」のもっとも象徴的な行為であるとするならば、前述のエピソード(「死にたい」という言葉のへの対応、浦河では聞き流されるというような)は「”聴かない”という聴き方」と表現することもできる。その意味で浦河では、聴くということは一対一の関係を超えて「共に聴く」という共同的な行為としてある。大切なことは「一人で聴かない」ことを通じて、仲間に十分に「聴かれた」のである。
==
《開かれた聴き方》と《閉じた聴き方》がある。
《閉じた聴き方》では、当事者自身につかの間の充足感が得られるだけで、さらなる不安や孤立感をもたらすことがわかる。108p
精神障害をもつ当事者の生きづらさの多くは、「車の運転の仕方がわからない」状況に似ており、具体的・操作的なアプローチで軽減されることが少なくない…114p
===
…私は、この「聴く」という関係のもつ可能性の一つに、「共に弱くなること」があるような気がしている。別な言い方をするならば、聴くという行為は、当事者のかかえるさまざまな困難な現実に、「共に降りていく」プロセスとしてある。その降りていくことを具体的に実現するうえで大切なのが、「共に考える」関係――研究的な対話関係――である。117p
第5章
生きる知恵としての「外在化」
「人」と、その人がかかえる「問題」を分けてとらえる知恵…
「人が問題なのではない。問題が問題なのだ」
忌まわしい幻聴を〈幻聴さん〉と呼び、人の行動に否定的な影響を与える認知や思考を〈お客さん〉と呼んだりする。
外在化の3つのタイプ
1、自分のかかえた苦労を”外に出す”外在化
2、自分のかかえた苦労の”外に出る”外在化
3、自分のかかえた苦労を他のものに”置き換える”外在化
120p
…「人と問題を分けて考える」という言明は、まだ事の半分しか示していない。なぜなら「問題」というものは、それを超えてさらに「その場に新しい可能性を生み出していく」という力さえ内包しているからである。
① 医学モデルでは問題の根本原因を探り、原因を除去することによって治すというアプローチを得意とする。いわば感染症や急性疾患への対処を守備範囲とする《問題解決のモデル》
② 慢性疾患を守備範囲とする《希望志向のモデル》は、問題の側面よりも健康的な側面に着目し、それを強化することを重視。SSTをはじめとする精神障害リハビリはこのモデルを基盤にしている
③ 問題自体の意味をも変えてしまうアプローチ。「問題が問題のままで意味を持ち、それが可能性に変わる」ことに着目。《語りのモデル》。現実をいかに語るかによって、その風景はまったく違った装いを見せる。
128p
医療モデルに社会モデルを対置させるのではないアプローチ。
統合失調症を「友達ができる病気」と定義した松本さん。病気になってべてるの活動をはじめてから年賀状の数が3通から数十通に。
どこに力点を置いてそれを見るか、つまり語り方によって、現実はまったく異なった意味をもつ。「病気のままで豊かな世界」
医療の意義を否定するものでもないし、逆に単純な現状の肯定とも違う新しい生き方の提案。
130p
外在化とは、外部の人間がその人の内部に入り込んでいく作業でも、本人がそれをさらけ出すような作業でもない。当事者自身がかかえている《問題》を、新しい意味をもった経験として、目に見えるかたちで語り出すプロセス…。
自己否定的な「とらわれ」や「こだわり」を、もっと楽しい《関心》や《探究心》へと変えていく作業…。こうして内部に滞った問題が、新たな可能性をもった物語として立ち現れる。
135p
第7章 プライバシー、何が問題か
精神保健分野の研究発表の席で暗転した晴れ舞台。研究発表の場に呼ばれた当事者。誇らしい場であったのに、座長のプライバシー配慮についての問題の指摘で「すみません」と謝るような場になってしまった。自分の病気の体験を恥じたり隠したりしないという彼の生き方は、座長の権威に満ちた「学識高い経験」によって、いとも簡単に排除された…
――「プライバシーの保護」はいま、人が生きるという素朴な感覚と、私たちの日常的な暮らしの実感からかけ離れたとおろで肥大化・権威化しつつある。精神保健福祉の現場に蔓延するプライバシーと個人情報の過剰な保護が、精神障害をもつ人たち、特に統合失調症をかかえる当事者の生命線ともいえる「人と人との生命的なつながりをいかに回復するか」という命題に、深刻な危機を招く可能性を孕んでいると私は思う。 180p
===
エンパワメントの構成要素
A 個人の側面……自己効力感、自尊感情、権利の自覚、批判的思考
B 対人関係の側面……主張する、援助を求める、問題解決、新しいスキルの実践、資源のアセスメント
C 政治・地域の側面……政治的活動/参加、応酬、貢献、統制
これらを現実化する要素として重視されている4点
①人間関係への参加が自尊心を促進すること。
②適切なカミングアウトが他者への援助を求めていくことを可能にし、孤独を取り除くこと。
③当事者自身が、他者の回復(癒し)に貢献する力をもっていることの経験を促すこと
④そのために日常的に、病気、薬物療法、対処技法、社会資源に関する情報に触れる場が用意されていること。
===
上記の向谷地さんによるエンパワメント論の紹介。森田ゆりさんのそれとの異同について少し考える。語る言葉が違う。
==
過度の個人情報の保護が「人間関係への参加」や「適切なカミングアウト」「他者の回復への貢献」を妨げる。
”一方的”になされるプライバシーや個人情報の保護は、当事者の人権を守るという大義名分の裏でほとんどの場合、施設・機関・組織の「自己保身」の姿勢が反転したものではないだろうか。
西坂自然さん
私は、「まわりに対して弱さを隠す」ということは「自分に対して弱さを隠す」ということだと思っている。そして、「自分の苦労に向き合う」と必ず病気はよくなると私は考えている。私の経験からいうと、病気になるときは、自分とまわりの環境の相互作用がうまくいかないときである。たいていの場合は、自分のかかえる生きづらさや弱さを隠そうとしたり見なかったふりをしたりして、調子が悪くなる。(略)
…専門家の配慮によって一方的にプライバシーが守られるというのは――必要な場合もあるかもしれないが――私にとっては「社会全体で弱さを隠すことのように思われる。(略)176-177p
ナカムラ・カレンさん
「浦河のキーワードは”仲間”だね」
それにあてはまる英語はない。
米国では当事者同士が一緒に暮らしたり働いたりする様は、自立がなされていない”発展途上”の遅れた状態とみなされるらしい。
精神病理学者 木村敏さん
「治療が目指しているのは、第一義的に治療や寛解ではない。……患者が、日常生活のなかで私たち『生活者』の『仲間』になってくれること」
182-183p
「浦河の精神科医は、薬だけでなく”仲間”を処方する」183p
木村敏さん
「脳神経系の研究が、精神医学の花形となっている。研究者の興味は、薬物で動かすことのできる表面的な症状だけに集中して、そういった症状を背後から生み出している精神の病理、自己存在の病理に関する関心などは、見る影もなく失われている」
向谷地さんはここでは書いていないが、もっと言えば、そういう症状を生み出している社会の問題に精神医学はもっと注目すべきなのではないか
終章 「脳」から「農」へ
==
木村さんは起きている現実に対して、眼を凝らして深く観察し、記録をとり、幾多の実験を重ね、目の前の絶望的な出口の見えない現実の壁を一枚一枚はがすようにして大切なものに迫っていく。しかしその深い執念は、ありがちな”鬼気迫る”ものではなく、どこかユーモラスで、命に対する信頼にことづいたものであるような気がした。
…べテルの歩みと…。…そこに深い共通性を見出していて。…木村さんの語る「自然農」と現実の農業のあいだにある矛盾は、そのまま「脳=精神医療」がかかえるジレンマと見事に符合している。「農の世界の経験が、精神医療の改革に重要な示唆を与えてくれる」――私はそう確信した。210p
===
●農薬が多い国は”脳薬”も多い
●本来もっている力を取り戻す
・・・
川村先生が”低農薬”にこだわるのは、現実の苦労を奪わないためだという。「苦労が増えたほうがいい」という考え方は、木村さんのリンゴ栽培に置き換えると、薬の力に頼って休んでいたリンゴが本来もっている力=自然の力を呼び覚ますことにほかならない。
211p
●「リンゴが主人公」という”非”援助の思想
木村さんは、リンゴと対話しながら、手を出しすぎないように、自分の役割をわきまえた仕事をこなしていく。それは「リンゴが主人公」だということを常に心がけることである。そのなかでリンゴは、自然と調和して、もっとも自分に適った実り方を取り戻していく。
…その発想は私たちが30年に及ぶ浦河での実践活動から見出した「”非”援助の思想」の発想と同様の奥行きをもっている。214-215p
ここで、向谷地さんが同じだと書かずに「同じ奥行き」と書くところは要注意かもしれない。
川村さんは木村さんとの対談で「底つき」の話をする。231-232p
その中で木村さんのどん底は、それまでのものすごく真剣に向き合っていた時間があるから、それは、ただのどん底ではなくて、価値あるどん底だという。「底」にも、価値のあるものとないものがあるというわけだ。そして、向谷地さんもそれに同意している。
この鼎談を読んでいて思うのだが、底って相対的だと思う。そして、底つきの理論って、実践的には有効じゃない場合が多いのではないかと、ギャマノンに言っているとき思ったのを思い出した。ある人は比較的浅いように見えても、そこが底の場合があるし、ある人は「これ以上、落ちようがないだろう」と思っても、そこでなぜかもっと深い底へ抜ける道を天才的にとしか思えないような方法で探り充てて、更に深い底へと落ちていく。
その人にとって、どこが底かというのを判断するのは誰なのか、という問題もある。親密な人の思いが底を形成する場合もあるのではないかと思える場合もある。
あとがき
科学文明の特徴を一言でいうならば、すべてを数字に置き換えて理解し、説明しようとすることである。主観を排除したところに成立する科学は、伝統的な価値観に束縛されずに、自由な立場で物事を判断する指標とされてきた。しかし、そこで私たちは大きな弊害を抱え込むことになる。
哲学者の中村雄二郎はそれを「近代科学が無視し、軽視し、果ては見えなくしてしまった〈現実〉あるいはリアリティ(『臨床の知とは何か』岩波新書)と指摘し、「生命現象」と「関係の相互性、あるいは相手との交流」を喪失したと語っている。
科学的な成果を享受した現代人は、その裏側で人間としてもっとも大切な「生命感覚」と「人とのつながり」の両者を見失ってきたのである。統合失調症などの精神障害をめぐるテーマの核心も、生命感覚すなわち「人(自分)は死ぬ」という当たり前の現実感と、「人は一人では生きられない」というわきまえをいかに取り戻すかにあると私は考えている。243-244p
いつも以上に未整理の読書メモ。
SSTが大切にしてる”ほめる”ことや、その顕われである拍手の多用に対しても「実感のない、表層的な肯定だ」という批判が絶えない。しかし、ここで大切なのは、それをやめないことである。14p
浦河には、「○○先生のお陰で病気がよくなりましたという患者は治りが悪い」という”ことわざ”31p
ありがちな「製薬会社と結託した精神科病院が患者を喰い物にして儲けに走っている……」というように批判できるほど単純ではない。私の印象では、良心的な医療を心がけ、熱心に患者の訴えを聞き、少しでも本人のかかえる症状のつらさや問題の改善をはかろうとする精神科医ほど「多剤大量」に陥りやすい気がする。42p
ほんとにそうだろうか、向谷地さんを筆頭に、これだけ関係性がいわれているのに、そのことを学ばない精神科医とはいかがなものか。
精神医療における地殻変動を象徴する変化は、当事者が「自分の専門家になる」ということが日常化してきたこと…。そこには、大きく…二つの流れ…。
第一は、権威としての「専門家の力」に対抗して、「自分のことは自分がわかっている」という立場…。障害をもつ当事者の力を再評価する当事者主権の流れ…
第二はその裏返しとして、専門家自身がみずからの立場を「無力」と位置づけ、専門家として権威性を否定し、当事者ならではのユニークな世界や力を認めるなかで現実に対するアプローチを模索しようとする流れ
浦河では、第三の流れ…
それは「自分のことは、自分がいちばん”かわりにくい”ことを知っている人」としての当事者と、「幻聴や被害妄想など、もし当事者と同じような状況に遭遇したら同様に戸惑い困難に陥るであろうことを知っている人」としての専門家(当事者としての専門家)――この二つの「無力」によって支えられている立場
43-44p
(ニューヨーク大学のリハビリセンター病院の壁に書き残された落書き
http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/12/blog-post_767.html
にあった英文
【英語版】"A Creed For Those Who Have Suffered"(Answered Prayer)
I asked God for Strength, that I might achieve, I was made weak, that I might learn humbly to obey ...
I asked for health, That I might do greater things, I was given infirmity, That I might do better things...
I asked for riches, That I might be happy, I was given poverty, That I might be wise...
I asked for power, That I might have the praise of men, I was given weakness, That I might feel the need of God...
I asked for all things That I might enjoy life, I was given life, That I might enjoy all things...
I got nothing that I asked for-But everything I had hope for;
Almost despite myself, My unspoken prayers were answered.
I am among all men most richly blessed.
-Unknown Confederate Soldier HERITAGE
これをもとに自分なりに翻訳
http://ecosan194.blog115.fc2.com/?mode=m&no=87
も少し参考にさせてもらった。
==
苦しめられているものたちのための信条(叶えられた祈り)
"A Creed For Those Who Have Suffered"(Answered Prayer)
何かを成し遂げたかったから強さを与えてほしいと神に求めた。すると弱くさせられた。謙虚に耳を傾けることを学ぶようにと。
I asked God for Strength, that I might achieve, I was made weak, that I might learn humbly to obey ...
健康を求めた、いまより素晴らしいことをしたかったから。与えられたものは病弱だった。より良いことをするようにと。
I asked for health, That I might do greater things, I was given infirmity, That I might do better things...
幸せになろうとして豊かさを求めた。与えられたものは貧しさだった。私が賢明であるようにと。
I asked for riches, That I might be happy, I was given poverty, That I might be wise...
人々の賞賛を得るために力を求めた。与えられたのは弱さだった。絶対者の必要を感じるようにと。
I asked for power, That I might have the praise of men, I was given weakness, That I might feel the need of God...
人生を楽しみたかったから、あらゆるものを求めた。授かったのは、いのち。あらゆることを楽しむようにと。
I asked for all things That I might enjoy life, I was given life, That I might enjoy all things...
求めたものは一つとして与えられなかったが、希んだことはすべて聞き届けられ;
ほとんどが私のままであるにもかかわらず、言葉にならない祈りはすべて叶えられれた。
I got nothing that I asked for-But everything I had hope for;
Almost despite myself, My unspoken prayers were answered.
最後の一文《I am among all men most richly blessed.》はちょっと手に負えない感じ。
参考までに
「私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ」という訳と「親愛なる神よ。あなたの光が、わたしの内なる自己を満たし、わたしが生きとし生けるものすべてを祝福できるようわたしを光で満たしてください ・・・」という訳があるが、参照した英文が違うのかもしれない。
===
・・・
このように専門家の前向きな「無力」と、当事者がかかえる力としての「無力」こそが、二つの権威化を防ぐことになる。一つは旧来からある「専門家の権威化」であり、もう一つは、近年目立つようになってきている当事者のかかえる病と障害という「経験の権威化」である。この両者の権威化を防ぐことこそが、当事者と専門家の連携とパートナーシップの基盤となるのである。48p
===
援助者は、当事者の身体の五感に張りめぐらされた保護的で過敏さを増したバリアをくぐり抜けて、その暗がりの向こう側で疲労困憊する本人を見出さなくてはいけない。そして当事者の傍らにそっと腰を下ろし、その困難さに満ちた世界を共にため息をつきながら、見渡す。そんな現実感をもってその場にたたずむことだ。
・・・
このように「信じる」という作業は、現実感をもって当事者を見ようとする営みである。ここでいう現実感とは、「もし自分が彼の立場だったらどうだろう」という想像力と、「彼がかかえる苦しみが自分に起きたら同じように振る舞うに違いない」という連帯感である。
そして、心の底から「きみは偉いよ。本当によくがんばってきたね。これからは一人ではなく、一緒にこの苦労を生きていこうよ。そして君の経験は、同じ困難を生きている多くの仲間や家族にとっても、とても大切な経験だよ」と語りかける。
その言葉が、当事者自身が孤独のバリアから人のつながりを取り戻す作業の「命綱」になっていくのである。 58-59p
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第4章《「聴かない」ことの力》で向谷地さんはまず、「ケアの基本は、「聴くこと」である。と書いた上で、鷲田精一の『「聴く」ことの力』を紹介し、彼の問題意識をもっとも的確に表現したのが「哲学はこれまでしゃべりすぎてきた……」という言葉だという。
そして、その本から引用する。「語ることがまことのことばを封じ込める、ということがないだろうか。まことのことばを知るためにこそ、わたしたちは語ること以上に、聴くことをまなばなければならない」
これを引用した直後に以下のように書く。
===
この問題提起にドキッとさせられるものがある。「聴くこと」の形骸化が進んでいるようにみえる臨床現場に対する、一種の批判とも思えてくるからである。私の問題意識を鷲田氏の言葉に重ねると、「ケアの現場は、聴きすぎてきた」ということになるだろう。すなわち「聴くことが真のことばを封じ込める」ということがないだろうか。
===
と。ここから世にはびこる「傾聴」への批判を展開する。ここでは《「聴くこと」の形骸化》の批判という表現だが、「聞いてもらうことに飽き飽きしています」という当事者の親の訴えをなど、読み進むと「聴くこと」と「聴かないこと」のバランスの問題なのではないかと思えてくる。聴けばいいってもんじゃないということなのだ。
その話は川村先生の治療の話にもつながる。(そこは略)
===
…カール・ロジャースも「傾聴の技法化」に陥らないように、傾聴のベースには「一人の人間の持つ重み、そのかけがえのなさ」に対する十分な認識が必要だと…
もし聴くということが「ただ、そばにいること」のもっとも象徴的な行為であるとするならば、前述のエピソード(「死にたい」という言葉のへの対応、浦河では聞き流されるというような)は「”聴かない”という聴き方」と表現することもできる。その意味で浦河では、聴くということは一対一の関係を超えて「共に聴く」という共同的な行為としてある。大切なことは「一人で聴かない」ことを通じて、仲間に十分に「聴かれた」のである。
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《開かれた聴き方》と《閉じた聴き方》がある。
《閉じた聴き方》では、当事者自身につかの間の充足感が得られるだけで、さらなる不安や孤立感をもたらすことがわかる。108p
精神障害をもつ当事者の生きづらさの多くは、「車の運転の仕方がわからない」状況に似ており、具体的・操作的なアプローチで軽減されることが少なくない…114p
===
…私は、この「聴く」という関係のもつ可能性の一つに、「共に弱くなること」があるような気がしている。別な言い方をするならば、聴くという行為は、当事者のかかえるさまざまな困難な現実に、「共に降りていく」プロセスとしてある。その降りていくことを具体的に実現するうえで大切なのが、「共に考える」関係――研究的な対話関係――である。117p
第5章
生きる知恵としての「外在化」
「人」と、その人がかかえる「問題」を分けてとらえる知恵…
「人が問題なのではない。問題が問題なのだ」
忌まわしい幻聴を〈幻聴さん〉と呼び、人の行動に否定的な影響を与える認知や思考を〈お客さん〉と呼んだりする。
外在化の3つのタイプ
1、自分のかかえた苦労を”外に出す”外在化
2、自分のかかえた苦労の”外に出る”外在化
3、自分のかかえた苦労を他のものに”置き換える”外在化
120p
…「人と問題を分けて考える」という言明は、まだ事の半分しか示していない。なぜなら「問題」というものは、それを超えてさらに「その場に新しい可能性を生み出していく」という力さえ内包しているからである。
① 医学モデルでは問題の根本原因を探り、原因を除去することによって治すというアプローチを得意とする。いわば感染症や急性疾患への対処を守備範囲とする《問題解決のモデル》
② 慢性疾患を守備範囲とする《希望志向のモデル》は、問題の側面よりも健康的な側面に着目し、それを強化することを重視。SSTをはじめとする精神障害リハビリはこのモデルを基盤にしている
③ 問題自体の意味をも変えてしまうアプローチ。「問題が問題のままで意味を持ち、それが可能性に変わる」ことに着目。《語りのモデル》。現実をいかに語るかによって、その風景はまったく違った装いを見せる。
128p
医療モデルに社会モデルを対置させるのではないアプローチ。
統合失調症を「友達ができる病気」と定義した松本さん。病気になってべてるの活動をはじめてから年賀状の数が3通から数十通に。
どこに力点を置いてそれを見るか、つまり語り方によって、現実はまったく異なった意味をもつ。「病気のままで豊かな世界」
医療の意義を否定するものでもないし、逆に単純な現状の肯定とも違う新しい生き方の提案。
130p
外在化とは、外部の人間がその人の内部に入り込んでいく作業でも、本人がそれをさらけ出すような作業でもない。当事者自身がかかえている《問題》を、新しい意味をもった経験として、目に見えるかたちで語り出すプロセス…。
自己否定的な「とらわれ」や「こだわり」を、もっと楽しい《関心》や《探究心》へと変えていく作業…。こうして内部に滞った問題が、新たな可能性をもった物語として立ち現れる。
135p
第7章 プライバシー、何が問題か
精神保健分野の研究発表の席で暗転した晴れ舞台。研究発表の場に呼ばれた当事者。誇らしい場であったのに、座長のプライバシー配慮についての問題の指摘で「すみません」と謝るような場になってしまった。自分の病気の体験を恥じたり隠したりしないという彼の生き方は、座長の権威に満ちた「学識高い経験」によって、いとも簡単に排除された…
――「プライバシーの保護」はいま、人が生きるという素朴な感覚と、私たちの日常的な暮らしの実感からかけ離れたとおろで肥大化・権威化しつつある。精神保健福祉の現場に蔓延するプライバシーと個人情報の過剰な保護が、精神障害をもつ人たち、特に統合失調症をかかえる当事者の生命線ともいえる「人と人との生命的なつながりをいかに回復するか」という命題に、深刻な危機を招く可能性を孕んでいると私は思う。 180p
===
エンパワメントの構成要素
A 個人の側面……自己効力感、自尊感情、権利の自覚、批判的思考
B 対人関係の側面……主張する、援助を求める、問題解決、新しいスキルの実践、資源のアセスメント
C 政治・地域の側面……政治的活動/参加、応酬、貢献、統制
これらを現実化する要素として重視されている4点
①人間関係への参加が自尊心を促進すること。
②適切なカミングアウトが他者への援助を求めていくことを可能にし、孤独を取り除くこと。
③当事者自身が、他者の回復(癒し)に貢献する力をもっていることの経験を促すこと
④そのために日常的に、病気、薬物療法、対処技法、社会資源に関する情報に触れる場が用意されていること。
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上記の向谷地さんによるエンパワメント論の紹介。森田ゆりさんのそれとの異同について少し考える。語る言葉が違う。
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過度の個人情報の保護が「人間関係への参加」や「適切なカミングアウト」「他者の回復への貢献」を妨げる。
”一方的”になされるプライバシーや個人情報の保護は、当事者の人権を守るという大義名分の裏でほとんどの場合、施設・機関・組織の「自己保身」の姿勢が反転したものではないだろうか。
西坂自然さん
私は、「まわりに対して弱さを隠す」ということは「自分に対して弱さを隠す」ということだと思っている。そして、「自分の苦労に向き合う」と必ず病気はよくなると私は考えている。私の経験からいうと、病気になるときは、自分とまわりの環境の相互作用がうまくいかないときである。たいていの場合は、自分のかかえる生きづらさや弱さを隠そうとしたり見なかったふりをしたりして、調子が悪くなる。(略)
…専門家の配慮によって一方的にプライバシーが守られるというのは――必要な場合もあるかもしれないが――私にとっては「社会全体で弱さを隠すことのように思われる。(略)176-177p
ナカムラ・カレンさん
「浦河のキーワードは”仲間”だね」
それにあてはまる英語はない。
米国では当事者同士が一緒に暮らしたり働いたりする様は、自立がなされていない”発展途上”の遅れた状態とみなされるらしい。
精神病理学者 木村敏さん
「治療が目指しているのは、第一義的に治療や寛解ではない。……患者が、日常生活のなかで私たち『生活者』の『仲間』になってくれること」
182-183p
「浦河の精神科医は、薬だけでなく”仲間”を処方する」183p
木村敏さん
「脳神経系の研究が、精神医学の花形となっている。研究者の興味は、薬物で動かすことのできる表面的な症状だけに集中して、そういった症状を背後から生み出している精神の病理、自己存在の病理に関する関心などは、見る影もなく失われている」
向谷地さんはここでは書いていないが、もっと言えば、そういう症状を生み出している社会の問題に精神医学はもっと注目すべきなのではないか
終章 「脳」から「農」へ
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木村さんは起きている現実に対して、眼を凝らして深く観察し、記録をとり、幾多の実験を重ね、目の前の絶望的な出口の見えない現実の壁を一枚一枚はがすようにして大切なものに迫っていく。しかしその深い執念は、ありがちな”鬼気迫る”ものではなく、どこかユーモラスで、命に対する信頼にことづいたものであるような気がした。
…べテルの歩みと…。…そこに深い共通性を見出していて。…木村さんの語る「自然農」と現実の農業のあいだにある矛盾は、そのまま「脳=精神医療」がかかえるジレンマと見事に符合している。「農の世界の経験が、精神医療の改革に重要な示唆を与えてくれる」――私はそう確信した。210p
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●農薬が多い国は”脳薬”も多い
●本来もっている力を取り戻す
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川村先生が”低農薬”にこだわるのは、現実の苦労を奪わないためだという。「苦労が増えたほうがいい」という考え方は、木村さんのリンゴ栽培に置き換えると、薬の力に頼って休んでいたリンゴが本来もっている力=自然の力を呼び覚ますことにほかならない。
211p
●「リンゴが主人公」という”非”援助の思想
木村さんは、リンゴと対話しながら、手を出しすぎないように、自分の役割をわきまえた仕事をこなしていく。それは「リンゴが主人公」だということを常に心がけることである。そのなかでリンゴは、自然と調和して、もっとも自分に適った実り方を取り戻していく。
…その発想は私たちが30年に及ぶ浦河での実践活動から見出した「”非”援助の思想」の発想と同様の奥行きをもっている。214-215p
ここで、向谷地さんが同じだと書かずに「同じ奥行き」と書くところは要注意かもしれない。
川村さんは木村さんとの対談で「底つき」の話をする。231-232p
その中で木村さんのどん底は、それまでのものすごく真剣に向き合っていた時間があるから、それは、ただのどん底ではなくて、価値あるどん底だという。「底」にも、価値のあるものとないものがあるというわけだ。そして、向谷地さんもそれに同意している。
この鼎談を読んでいて思うのだが、底って相対的だと思う。そして、底つきの理論って、実践的には有効じゃない場合が多いのではないかと、ギャマノンに言っているとき思ったのを思い出した。ある人は比較的浅いように見えても、そこが底の場合があるし、ある人は「これ以上、落ちようがないだろう」と思っても、そこでなぜかもっと深い底へ抜ける道を天才的にとしか思えないような方法で探り充てて、更に深い底へと落ちていく。
その人にとって、どこが底かというのを判断するのは誰なのか、という問題もある。親密な人の思いが底を形成する場合もあるのではないかと思える場合もある。
あとがき
科学文明の特徴を一言でいうならば、すべてを数字に置き換えて理解し、説明しようとすることである。主観を排除したところに成立する科学は、伝統的な価値観に束縛されずに、自由な立場で物事を判断する指標とされてきた。しかし、そこで私たちは大きな弊害を抱え込むことになる。
哲学者の中村雄二郎はそれを「近代科学が無視し、軽視し、果ては見えなくしてしまった〈現実〉あるいはリアリティ(『臨床の知とは何か』岩波新書)と指摘し、「生命現象」と「関係の相互性、あるいは相手との交流」を喪失したと語っている。
科学的な成果を享受した現代人は、その裏側で人間としてもっとも大切な「生命感覚」と「人とのつながり」の両者を見失ってきたのである。統合失調症などの精神障害をめぐるテーマの核心も、生命感覚すなわち「人(自分)は死ぬ」という当たり前の現実感と、「人は一人では生きられない」というわきまえをいかに取り戻すかにあると私は考えている。243-244p
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