《精神医療論争史》メモ、その2
この本のSST批判についてのメモを
https://tu-ta.seesaa.net/article/201107article_9.html
に書いた。
SSTに関する本を読みたくて借りた本だったので、そういう順番になったのだど、ぱらぱら見ていたら、他にも興味深いところはある。
まず、
第11章●地域リハビリテーションの時代
この章では、まず、冒頭に共同作業所が急増した背景があげられ、藤井克典さんによるその理念と機能がそれぞれ3つづつ紹介される。
理念
1、一人ひとりの障害者を権利の主体として位置づける視点
2、関係者・市民による共同の事業という視点
3、地域における精神障害者の権利擁護運動の一翼を担うという視点
機能
1、医療機関と就業(雇用形態)との間に位置する中間施設的機能
2、再発防止、入院・再入院防止のための機能
3、地域における精神障害者の権利擁護運動のセンター的機能
次に、多田直人さんによる分裂病者に与える3点の影響
1、生活の広がり
2、労働意欲の向上
3、精神病者への偏見の除去
その上で、著者は
と主張する。
そして、西沢利朗による、共同作業所運動を点検する際の5つの視点が紹介される。
1、展開している実践活動は、精神障害者の社会的復権とどこかでつながっているか
2、病院医療と同じくり返しを、地域の中で”形を変えた病院施設”として展開してはいないか
3、精神障害者の社会参加の多面性と可能性を、どれほど多様に保証しているか
4、現在の実践活動の場が、当事者主体の形成にどれほどの役割を果たしえているか
5、精神障害者と援助者のあいだで、状況の認識と打開の方策が共有されているか
著者はこの視点を紹介した上で、制度上の不備のなどの指摘はいままでもなされている、と書き、
と最初の節を締めくくる。
次節
2 ● 「仕事」か「遊び」か
で、中井久夫さんの『働く患者―リハビリテーション問題の周辺』(1982)から引用される。(この中井さんの文章の全文、いつか読んでみたい)
中井は、「働くこと」あるいはそれへの促しはつねに治療的であろうか、と問題を投げかけた。リハビリテーションの一部である「働くこと」が、しばしば広義の治療目標と同義に扱われている場合があり、
ここに続けて、著者の浅野さんは自説として「遊び」の意義を強調する。そして、これらの主張に対して、粥川裕平さんの非難が紹介される。「中井や浅野の珍説も不況時代の不幸な産物の1つ」であると。
浅野さんの
藤井克典さんの反論も紹介されている
続けて、中村正利さんの
高畠克子さんは
他にも大響広之さんや村田信男さんのちょっと興味深い意見が紹介されているが、疲れたので略。
ともあれ、このあたりの論争当事者としての浅野さんの紹介はとても興味深い。さらに、この議論に「べてるの家」で向谷地さんが「なぜ商売なのか」という問いに答えて、
ぼくには結論は出せないが、「就労に至るまでには充分時間をかけて、対人関係形成能力の涵養を」という浅野さんの意見にも賛同できないが、それへの反論にも違和感がある。
この説の結語として浅野さんは以下のように書く。
このまとめ方も、どうだろう。仕事への復帰を急ぐべきじゃない人と、向谷地さんが言うように「生きる苦労」というような負荷があったほうがいい人がいるように思う。その場合には「べてるの家」みたいにちゃんと意思表示できるSSTでの練習やそれを支える地力なども必要になると思うのだけど。
このメモ2節まで、3節以降に続く。
P.S.
知り合いの精神科のお医者さんからツイートで感想もらいました。
@acceleration さん「今はさすがにそんな風に考える精神科医は少ないと思うけどなあ。労働=社会復帰というイデオロギーの犠牲者としか言えない人を医師になりたての頃精神病院でたくさん見ましたけど」とのこと
https://tu-ta.seesaa.net/article/201107article_9.html
に書いた。
SSTに関する本を読みたくて借りた本だったので、そういう順番になったのだど、ぱらぱら見ていたら、他にも興味深いところはある。
まず、
第11章●地域リハビリテーションの時代
この章では、まず、冒頭に共同作業所が急増した背景があげられ、藤井克典さんによるその理念と機能がそれぞれ3つづつ紹介される。
理念
1、一人ひとりの障害者を権利の主体として位置づける視点
2、関係者・市民による共同の事業という視点
3、地域における精神障害者の権利擁護運動の一翼を担うという視点
機能
1、医療機関と就業(雇用形態)との間に位置する中間施設的機能
2、再発防止、入院・再入院防止のための機能
3、地域における精神障害者の権利擁護運動のセンター的機能
次に、多田直人さんによる分裂病者に与える3点の影響
1、生活の広がり
2、労働意欲の向上
3、精神病者への偏見の除去
その上で、著者は
・・・精神障害者が地域で暮らしていくうえで、共同作業所がひとつの有力な拠点になっていることは疑いない。
と主張する。
そして、西沢利朗による、共同作業所運動を点検する際の5つの視点が紹介される。
1、展開している実践活動は、精神障害者の社会的復権とどこかでつながっているか
2、病院医療と同じくり返しを、地域の中で”形を変えた病院施設”として展開してはいないか
3、精神障害者の社会参加の多面性と可能性を、どれほど多様に保証しているか
4、現在の実践活動の場が、当事者主体の形成にどれほどの役割を果たしえているか
5、精神障害者と援助者のあいだで、状況の認識と打開の方策が共有されているか
著者はこの視点を紹介した上で、制度上の不備のなどの指摘はいままでもなされている、と書き、
しかしながら、問題は基本的な運営理念にある。こうした理念をめぐる論争をとりあげる。
と最初の節を締めくくる。
次節
2 ● 「仕事」か「遊び」か
で、中井久夫さんの『働く患者―リハビリテーション問題の周辺』(1982)から引用される。(この中井さんの文章の全文、いつか読んでみたい)
中井は、「働くこと」あるいはそれへの促しはつねに治療的であろうか、と問題を投げかけた。リハビリテーションの一部である「働くこと」が、しばしば広義の治療目標と同義に扱われている場合があり、
「『働くこと』が、患者にとっても家族にとっても、いや医者にとっても『治ったこと』とほとんど等置されている。これは一見もっともらしく見えるが、真実は、さまざまな混乱を生み、長期的には再発促進的な見解であるとさえ私は思う。」すなわち、時期尚早の労働は長期的には再発、慢性化への道をひらくものであることを指摘したのである。「精神科リハビリテーションにたずさわるものは、素朴に『働くことはよいことだ』と思わないほうがよいだろう。近代労働を自己疎外的だと考えている者が、患者にむかっては、そうではないかのように、『健康者は働く喜びを日々感じている』かのように患者を『指導』することはいくぶん偽善的である」とも述べている。したがって治療者は「労働それ自体の価値についてはアンダーステートメントを行うこと」「休息を重視すること」に心がけるべきであるとした。121p(強調部分はtu-ta)
ここに続けて、著者の浅野さんは自説として「遊び」の意義を強調する。そして、これらの主張に対して、粥川裕平さんの非難が紹介される。「中井や浅野の珍説も不況時代の不幸な産物の1つ」であると。
「分裂病者は遊び下手であるからまず遊びを、とか人付き合いが苦手だから社交術訓練(自己表現)が先ではないか、といった素朴な主張も一部に見られるが、そうした素人的発想では結局の所『おしゃべりな高等遊民』を生み出すだけで、真に分裂病者の治療とリハビリテーションに寄与するものとはいえない」
浅野さんの
「・・・こうした労働のもつ自己疎外的側面は、自己の主体性がおびやかされ、自己の一部が他者性を帯びてくる分裂病者の病理と重なりあい、就労が再発促進的に作用する可能性がある。働くことに協働のよろこびが見出されなくては仕事を続けることができないのである。就労に至るまでには充分時間をかけて、対人関係形成能力の涵養を図らなければならない」
藤井克典さんの反論も紹介されている
「分裂病圏の精神障害者は自己の存在基盤の不確かさゆえか、はっきりした社会的立場を求める傾向にあるといわれている。とすれば精神障害者にとっての働くことの意義は、社会人としての立場や地位を得るということが一般の人以上に重要性を持っているのではないか」「精神障害者にとって過大な要求を課せられることは、再発の危険性が高まることを意味している。このことから、そもそも精神障害者は働くことにむいていない、働かなくても良いとの意見すらあるが、共同作業所、職親、職能訓練所が、立派にリハビリテーションに寄与している現実を無視した論といえよう」
続けて、中村正利さんの
「”働くこと”にほどよい距離をもち、”働くこと”を相対化してゆけること、極論すれば『働かなくてもよい』といっていいほどの、”心のゆとり”をもつことが、働ける力をも生み出すのである」などの説も紹介されている。
高畠克子さんは
(精神病患者に必要なのは)「ゆっくりと当たり前の生活ができる環境を準備できることであり、陰性症状や生活障害を取り除くために訓練や仕事を提供することは本末転倒」であり、共同作業所で重視される理念は「働くことよりは作業所の運営などを通じて個々人の主体性と独創性がどのように発揮していけるか」にあり、「作業所は精神障害者が一時籍を置いて作業し就労してゆく通過施設としての機能より、人間らしさと命を大切にする労働を模索する拠点としての機能の方が重要ではないだろうか」と述べている。
他にも大響広之さんや村田信男さんのちょっと興味深い意見が紹介されているが、疲れたので略。
ともあれ、このあたりの論争当事者としての浅野さんの紹介はとても興味深い。さらに、この議論に「べてるの家」で向谷地さんが「なぜ商売なのか」という問いに答えて、
それは「苦労が多い」からである。「生きる苦労」という、きわめて人間的な、あたりまえの営みをとりもどすために、べてるの家はこの地で商売をはじめた。(『べてるの家の「非」援助論』45p)といったりしていることと重ねて考えると、さらに興味深い。彼ならこの論争にどう答えるだろう。
ぼくには結論は出せないが、「就労に至るまでには充分時間をかけて、対人関係形成能力の涵養を」という浅野さんの意見にも賛同できないが、それへの反論にも違和感がある。
この説の結語として浅野さんは以下のように書く。
結局のところ、リハビリテーションにおける「仕事」と「遊び」に象徴される論争は、分裂病という病をどう捉え、近代という社会をどう認識するか、というテーマに逢着するのである。
このまとめ方も、どうだろう。仕事への復帰を急ぐべきじゃない人と、向谷地さんが言うように「生きる苦労」というような負荷があったほうがいい人がいるように思う。その場合には「べてるの家」みたいにちゃんと意思表示できるSSTでの練習やそれを支える地力なども必要になると思うのだけど。
このメモ2節まで、3節以降に続く。
P.S.
知り合いの精神科のお医者さんからツイートで感想もらいました。
@acceleration さん「今はさすがにそんな風に考える精神科医は少ないと思うけどなあ。労働=社会復帰というイデオロギーの犠牲者としか言えない人を医師になりたての頃精神病院でたくさん見ましたけど」とのこと
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