ナウシカの予言(かなり変更)
フェイスブックに書いたもの、こっちにも転載しておこうと思う。
最近、いちばん印象に残った文章だ。
===以下、転載===
赤坂憲雄さんの
(リンク、切れてます)
この文章、すごく重い問いかけだと思う。
==以下、部分引用==
その人達は
なぜ気づかなかったのだろう
清浄と汚濁こそ 生命だということに
(宮崎駿『風の谷のナウシカ』漫画版、徳間書店)
いま東北は、なかでも福島は、ほとんど存亡を賭けた(とでもいえそうな)戦いを強いられています。そこに生きる人々の不安は、遠からず臨界点に達するかもしれないと、ひそかに危惧しています。だれもが、留まるべきか、避難するべきかーーという問いを抱えて、とりとめのない不確かな情報の渦に翻弄されています。(中略)
・・・『ゴジラ』という映画は、おそらく〈3・11〉以後に起こった、とりわけ原発事故にまつわる未曽有のできごとについて考える人々が、はじまりの風景のひと齣として触れざるをえない作品となりました。そして、『風の谷のナウシカ』のアニメ版/漫画版については、それがまさに二十一世紀を予言した黙示録的な作品であったことを否定するのはむずかしいと、すくなくともわたしは感じています。
すでに、ヒロシマ・ナガサキからフクシマへと、あるいはチェルノブイリからフクシマへと、負のイメージ連鎖が確立されてしまったようです。放射性物質による汚染が、福島から東日本全域へとじわじわ拡散しつつあります。もはや、ここにいたって、わたしたちは覚悟を固めるしかないのかもしれません。むろん、この汚染された村や町、大地や森や川や海とともに生きるということです。
清浄と汚濁こそ、生命だ、そう、宮崎駿さんは漫画版『風の谷のナウシカ』のフィナーレに近く、ナウシカに語らせています。思えば、風の谷という、腐海のほとりに生きる人々の姿は、わたしたち自身によって生きられる現実そのものとなりました。
それでも、明日への希望を紡ぐことができるか、というフクシマからの問いを抱いて。
徐々に明らかになりつつある激しい海洋汚染がゴジラを生むことはないだろう。しかし、海からの反撃は必ず訪れる、あるいはすでに訪れているかもしれない。見えない怪獣が汚染を出した原発に上陸し、あらゆるものを見えない形で破壊しつくしているようだ。いつのまにか街が自然に復元する怪獣映画とは異なり、その見えない怪獣に破壊された地域は何十年経ったら、住むことができるようになるのか、あるいは出来ないのか、正確な予想など出来ない事態が続いている。
そして「汚染された村や町、大地や森や川や海とともに生きる」というイメージ、あるいは森を除染するイメージがこんな風に蘇るなんて、考えてもいなかった。30年以上、反原発運動の片隅にいたりしたのに。
ナウシカの村では村人が森に出て、燃やすことによる除染活動が行われたが、汚染された森に関する先日のニュースによると、猫の額ほどの広さの除染の実験に非常に多くの人とお金が投入されたにもかかわらず、おそらく一雨振れば、その効果は消えてなくなるだろう。
汚染がコミュニティを破壊し、小さな家庭までも破壊する。放射能に対する感受性の違いを議論して、離婚の話につながっている家庭が少なくないらしい。
破壊されたコミュニティや家庭を再生に導くナウシカはぼくたちの世界には存在しない。ナウシカがヒーローなのかヒロインなのか、ぼくにはわからないが、コミュニティの再生はヒーローやヒロインにゆだねることは出来ない。
巨神兵を重ねるイメージは既に語られている。
原発とは『風の谷のナウシカ』に出てくる【巨神兵】の事なのです。
また映画版のナウシカでの巨神兵は、暴力と破壊という従来の価値観をそのまま温存したものの象徴のようにも思える。政府が大企業の利権とともに進めようとする復興計画がそのイメージと、それは重なる。
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ところで、この岩波のコラムで赤坂さんが触れている、彼が3・11直後に書いた評論というのを読んでみたいと思うのだけど、どこに掲載されているのだろう。
この記事へのコメント
最後に紹介した評論は
『海のかなたより訪れしもの、汝の名は』なのだと思うが未読。
雑誌『群像』2011年5月号とのこと。いま、図書館で予約しました。